(2-12)
お市様だけはなぜかぼんやり無表情に俺を見ていた。
――え?
俺の後ろに誰かいるのか?
確かめてみたけど、どうもそうではないらしい。
失礼かと思ったが、偶然を装って視線を返したら、不機嫌そうにうつむいてしまった。
いったいなんなんだ?
俺の隣でデイブが茶をすすりながら饅頭を食べている。
「日本のマンジューとてもおいしい。グリーンティーもスバラシイでーす」
「デイブ殿、また今度茶の湯を楽しもうではないか」
「ハーイ、ノブナガサーン。その時は西洋の菓子も作って持参いたしますヨ」
「何、西洋の菓子とな!」と、信長は片膝を立てて前のめりにたずねた。「それは何という菓子じゃ」
「まだナイショでーす。今度の戦に勝った時のパーティーでお披露目しまーす」
「ううむ、それは楽しみじゃのう」と、信長が茶を飲みかけて手を止めた。「で、戦とはなんのことじゃ?」
「おとなりのイマガワさんが攻めてくるそうですよ。三浦さんが教えてくれましたヨ」
――いや、だから俺、三浦じゃねえから。
だが、そんな訂正などしている場合ではなかった。
「なんと、今川が」
武将たちがざわめき出す。
「おい、サル、それは本当のことなのか?」と、池田恒興が藤吉郎の胸ぐらをつかんだ。
「ああ、ええと」と、饅頭を喉に詰まらせながら藤吉郎が俺を指さす。「このサカマキ殿がそう申しておるのでございます」
間髪を入れずに佐久間信盛が俺に詰め寄る。
「おぬしそれは本当のことか」
「はい。さきほど二万五千の兵を引き連れて尾張国に入ったそうです」
「なんと、二万五千もの……。我が織田家の戦力はせいぜい二千というのに」
一同絶句したまま気まずい沈黙が流れた。
信長も圧倒的な数字の差に黙り込んでいる。
と、そこへ「申し上げます!」と、甲冑姿の侍が庭に駆け込んできた。
「大高城へ今川の先鋒松平元康が兵糧を運び入れました」
「何!」と、柴田勝家が立ち上がる。「阻止できなかったというのか」
「申し訳ございません。夜中のうちに包囲をくぐり抜けたようにございます」
「ようになどと寝ぼけたことを言っておる場合か」
柴田勝家は座り直して信長の前ににじり出た。
「殿、今川義元は大高城へ入るつもりですな。その前に叩かなければ、取り戻すことは不可能となりましょう」
『信長のアレ』では詳細は語られないが、知多半島の付け根にある大高城は伊勢湾の通商のおさえとなる要地で元々織田家が支配していたのを今川に奪われていたのだ。
織田家はそれに対抗して大高城の周辺にいくつかの砦を築いて包囲していたのだが、松平元康――つまり後の徳川家康――に裏をかかれたというわけだ。
その大高城へ向かっていた今川義元が途中で休憩していたところへ奇襲攻撃を仕掛けて成功したのがいわゆる桶狭間の戦いなのだ。
間違いなく、今は史実のシナリオ通りに進んでいるというわけだ。
ちなみに今川義元は上洛、つまり京都を目指して尾張に侵入したのではなく、伊勢湾一帯の支配権を確立するために尾張東部の攻略を目指していたらしい。
守護代――つまり本物の守護の下に従属する立場――に過ぎなかった織田家がのしあがる原動力となるほどに通商の利益は莫大だったのだ。
織田家と今川家は信長の父である信秀の代からすでにこの地域で小競り合いを繰り返していて、今川に通商のうまみを完全に奪い取られれば、織田家にとっては生命線を絶たれる危機だ。
柴田勝家の言うとおり、大高城へ入る前に阻止できるかが勝負の分かれ目だ。
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