クマリン
1.
「桜の木の下には雑草が育たないんだって」
「そうなんだ」
先ほどの授業で覚えたのだろう。知識を嬉々として披露する小葉のクリっとした瞳が光る。まるで散歩の途中にとった獲物を飼い主に見せびらかす子犬みたいだ。
「なんでなの?」
「さあ、なんででしょうか?」
顔をくしゃくしゃにして、いたずらっ子のような口ぶりでそう言うと、ドリンクバーを取りにそそくさと席を立ってしまった。ふと目をやると、軽くパーマのかかったショートボブをリズミカルに揺らしながら、ドリンクバーの前で何やら難しい顔をしている。どうやら、新しいドリンクの調合にその興味は傾きつつあるようだ。さして気になるでもない、他愛もない会話。そんなことをふと思い出した。
その年の春に、小葉と僕は別れた。
2.
桜のことが気になっていた。
仕事中も気になって仕方がないので、ここは思い切って本人に直接聞きに行くことにした。まだまだ未練たらたらな男だ、と笑われそうだけど。まあ、まだ時々会う仲ではあるし、別にちょっとした質問をお土産に持って行っても、いいだろうさ。
少し遠出をしてくるから、と妻にはそう伝えた。妻は、うん、気を付けてね、と答えてくれた。
都会の窮屈な道を抜け、やっとの思いで海沿いの道にでた。気持ちの良い潮風を浴びながら、車を走らせる。海のように真っ青なボディーも新車のころはきらきらしてきれいだったけど、最近は錆が目立ってきた。この車ももう時期10年選手になる。僕は物持ちがいいほうだから、車も大事に乗っているんだよ。ふと誰かにつぶやいて見せた。途端、エンジンがガクンとうなる。幸いそのまま走ってはくれているみたいだ。やはりそろそろ買い換えないとかな。
しばらく行くと、目的の町についた。活気のある港町だ。だだっぴろい海を眼前に称え、海鳥たちが鳴いている。近代的な建物と昔ながらの市場街が所狭しと並んでいて、きらきらしてみえた。市場の中では、いろんな国の観光客がひっきりなしに干物だの刺身だのを買いたたいていて、少し煩いがこんなものだろう。ちょっと山のほうに目をやると、丘の上に白いマストのような白い塔像がある。あそこは夜になるとライトアップされて、この町の道標として皆々を照らしてくれるんだった。
潮風に乗って、桜の花弁が足元に落ちるのを見た。どこからか流れてきたのだろうか。ふと目をやると、青々とした山肌に、薄桃色の桜が所狭しと咲いていた。初夏の日差しを浴びつつも、まだ少し肌寒いこの季節に、この町ではやっと桜が咲くんだった。
僕はそのまま、町の図書館に行くことにした。植物図鑑を手に取って、桜の項目を開く。
・・・どうやら、桜の葉っぱにはクマリンっていう毒が含まれており、これが雑草の生えない原因のようだ。ちなみに、桜の香りの主原料らしい。また一つ、知識を蓄えたようだ。
他の調べ物も少し済ませたところで、ようやく目的地に着いた。あたりはすっかり暗くなってしまっていて、少し遅くなったことをご両親にお詫びした。
他愛もない会話を済ませた後、僕は小葉の墓前に手を合わせた。
3.
その年に、大きな地震があった。僕はその時一人でいて、小葉は故郷のこの町にいた、みたいだ。やがてこの町は大きな津波に襲われ、それっきり、彼女は姿を消した。
桜が咲いても何も見つからず、そのうち公の捜索は終了した。10年たった今もまだ、彼女は行方不明者のままだ。
海を見下ろす高台の、大きな桜の木の下に、彼女のお墓はある。毎年そこまで歩くのは、老齢なご両親にとっては大変なことだろう。それでも、毎年そこに行き、また津波が起きた時にそこに歩ける体力を保ち続けることにした、といつだったか教えてくれた。
墓前に立って、昨日の戦利品を伝えることにした。
お気に召していただけただろうか。そうであってもなくてもいいのだけれど。
最近、あの日の記憶が薄れていくのを感じる。僕は忘れたくないと思っているけど、時がたてば多くの鮮やかな記憶もつらい記憶も、流され風化していく。桜の木の下に毎年足しげく通う僕らに果たして、クマリンの毒は回っているのだろうか。もし回っているとしたら、記憶も褪せることはないだろうに。
4.
家に帰ると、珍しく妻がご馳走を作ってくれた。
僕の大好きな、チキンドリアだ。
旅の思い出は特に聞かないでいてくれた。
彼女のそんな優しさに、やはり僕は甘えてしまって、そのままベッドで交わった。
夜更けに煙草を吸いながら、ふと話しかけた。
「桜の木の下には雑草が育たないんだって。」
「クマリンっていう、毒が含まれているからってやつでしょ。あの話、本当なのかな。」
・・・さっきの毒も少しは緩和されたみたいだ。