悪役令嬢が悪すぎて怖すぎて王子が婚約破棄できない話
「アレクシア・バートレット公爵令嬢! 君との婚約は破棄させてもらう!」
僕――エドワード・アバーナシー王子は震える声でそう言った。
僕らが寄宿する、魔法学校の一室を、僕の声が小さく震わせた。
その瞬間、彼女――アレクシアが一切の動きを止めたような気がした。
豪奢な黒髪も。
毒々しく妖しい真紅の唇も。
長いまつげも。
煙草を挟んだ右手の指さえ。
一切の動きを止めたような気がした。
気圧されてたまるか。
引き込まれてたまるか。
僕はちゃんと言うんだ、君との婚約を破棄すると。
爪が喰い込む程に拳を握って場の空気に耐えていると、アレクシアが僕をしげしげと見た。
長い沈黙があった。
思わず気が触れそうな静寂の後、アレクシアがふっと笑声を上げた。
「ひとつアドバイスをしてやろう」
「へ?」
「そういう精一杯のキメ顔をするときはな、服装にも気を遣え。みっともなくシャツが出てるぞ」
あっ!? と僕は声を上げ、慌てて自分の腰を見た。
どこからもシャツなど出ていない。
背中かな――と思った瞬間、むんと濃くなった香水の香り。
声を上げるまもなく背後に回られ、僕は自分の失策を悟った。
「はい、チェックメイト」
ちくり、と首筋に何か棘のようなものが突き立つ感触に、僕はひやりとした。
慌てて目だけ動かして下を見て、首筋に添えられていたものを見て、僕は声を上げずに驚いた。
薔薇の花。
アレクシアが右手に持った薔薇の茎。
この部屋の花瓶に活けてあるものだ。
固まっている僕の頭に、アレクシアはゆっくりと手を添えた。
「全く、何を言い出すかと思えば――相変わらず隙だらけだな、お前は」
「うっ――!?」
「周りが見えてないからあんなミエミエの陽動に引っかかる。私がつきっきりで鍛えてやった七年間、お前は一体何を学んだんだ?」
すすす、と、アレクシアの左手が首筋に降りてきて、僕の鎖骨のあたりを指先でひと撫でし、アレクシアはぐいと耳元に顔を近づけてきた。
「さて、聞こえなかったんでもう一度訊かせてもらおうか」
「な――何を――!?」
「今お前が言った大層面白いジョークだ。私は気に入ったぞ、もう一度言って見てくれ。安心しろ、ここなら小声でもハッキリ聞こえる」
煙草の匂いに混じる香水のふくよかで妖艶な香りに、頭がくらくらした。
このまま僕がとぼけて、何も言っていないと言い張ってしまえば全て終わる気がした。
でも、僕は言わなきゃならない。
僕は君との婚約を破棄すると。
僕は君とは結婚できないのだと。
「あ――」
「うん?」
「あ、ぼ、僕は――!」
「ほうほう」
「僕は――エドワード・アバーナシーは……きっ、君との婚約を破棄……!」
「最後までハッキリ」
カリ、と、アレクシアが僕の首筋を薔薇の茎で引っ掻いた。
その甘い刺激に触発されるように、僕は言った。
「君との婚約を破棄しゅるっ……!」
ふふふ、と、耳元に寄せられたアレクシアの口から妖艶な微笑みが漏れた。
「よくできました、エドおぼっちゃま。後でチョコレートを買ってやろう」
「ぼっ、僕を子供扱いするな――!」
「子供扱いするな? それは無理だな。私よりも五つも年下、ようやく飴より酒が気になり出しただけの子供にしては見栄を張りすぎだよ、お前」
「ぼっ、僕はもう十七だぞ! とっくに大人――!」
「あたしは二十二。私から見ればお前は永遠に私より子供だ。違うか?」
嘲るような声とともに、耳に吐息がかかる。
クソックソッ! 僕はアレクシアよりも自分を罵った。
飲まれてはいけない、とあれほど言い聞かせたじゃないか。
言い聞かせたのに――。
彼女に呑まれさえすればすべてが終わって逃げ出せる。
そう期待している自分がいるのだ。
否――! 僕は首を振った。
「ぼ、僕は、僕は、しっ、真実の、真実の愛に目覚めたんだ……!」
その一言に、は、とアレクシアが虚を突かれたような声を出した。
言い切ってしまえ。僕はそのまま大声で言った。
「ぼっ、僕には、君以外に愛する人ができた! かっ、彼女も僕を愛してくれている……! ぼっ、僕は君のことなど好きじゃない! 愛してなどいるものか! こ、こっ、婚約は、はき……!」
すすす、と、そこで僕の唇にアレクシアの人差し指が添えられた。
シー……と、僕の言い訳を妨げるように言って、アレクシアの人差し指が引っ込んだ。
「まぁ落ち着け、みなまで言うな。随分肩に力が入ってるぞ。落ち着くために少し昔話でもしようじゃないか」
そう言って、アレクシアは自分が咥えていた煙草を僕の口元に持ってきた。
吸え、と一言、そっけなく耳元で命令される。
僕は根っから煙草が苦手な人間だ。
拒否するように顔を背けようとすると、首筋に添えられたバラの花が容赦なく皮膚に食い込んだ。
鋭い痛みに呻くと、アレクシアの指があっという間に僕の口元に煙草を差し込んでいた。
「う――! ゲホゲホッ――! うっ……!」
「おーおー、随分苦しそうだなエド。けど、今私の胸はお前よりも遥かに苦しいんだがな」
「な、何を……!」
「お前と私が婚約した時を覚えてるか?」
僕の抗議を無視して、アレクシアが静かに語り出した。
「私のあだ名を言ってみろ」
「はぇ――?」
「あだ名だよあだ名。愛称、二つ名、ニックネームだよ」
その言葉に、僕はなんとか呼吸を整え、決意を固めて、口を動かした。
「――くれいじょう」
「ん?」
「悪役令嬢――」
僕が言うと、アレクシアはまた煙草の煙を吐き出した。
「そうだな、悪役令嬢。それが私の身体にヤニみたいに染み付いたあだ名だ」
アレクシアは愉しそうに笑った。
「北方の国境を防備する公爵――それが私の家、バートレット家だ。血に塗れた、王都では悪い噂の絶えない家だろうな。私と私の家は王都では常に黒幕、王国の汚れ仕事を吸い切った真っ黒な家だ。私だって普通の貴族らしい教育は受けた記憶がない。暗殺術、格闘術、諜報、人心掌握術に人心操作術――」
そこでアレクシアは僕の喉元に回した左手で、美味そうに煙草を吸い、虚空に吐き出した。
「だから最初は、私みたいな根性の悪い女を嫁にもらおうなんて、一体どこの好事家かと疑ったさ」
アレクシアはくすくすと笑った。
笑ったが、その笑い声には可愛らしさよりも迫力を感じた。
「それが蓋を開けてみたら想定より遥かに歳下のなまっちろいモヤシ少年が来た。そして驚くべきことにそいつはこの国の王子だと言う。私も驚いたさ。そして次にお前はもっと驚くべきことを言った」
ダメだ、その先は言うな――。
懇願する僕に、アレクシアは残酷に囁いた。
「一生大切にします、僕のお嫁さんになってください」
「う――!」
「もう一度言ってやろう。一生大切にします、僕のお嫁さんになってくださいと――そのガキは私を見て顔を真っ赤にしながらそう言った、そのモヤシがお前だな?」
僕は羞恥で死ぬかと思った。
そうだ、僕は十歳にして、一世一代の一目惚れをしてしまった。
このアレクシア・バートレットという、十五歳の妖艶で冷徹な公爵令嬢に。
「あ、あの頃は何も知らなかっただけだ! 公爵家のことも、君のことも――! いっ、今は状況が違う! 僕らも変わって――!」
精一杯の言い訳をした僕を無視して、アレクシアは再び悪魔のように囁いた。
「なに、考えてみればくだらない政治の思惑だ。国内の貴族が力をつけてきて、王家の地位が相対的に低くなっていたときだ。その時に北方の武闘派貴族と姻戚関係ができれば、国内の有象無象の大概は武力を背景に黙らせられる。みな公爵家の諜報能力と軍事力を恐れているからな。私の家は王家の番犬にさせられたわけだ。悪役令嬢とは私と私の家とを畏怖し、妬んだどこぞのバカがつけた名前だ。いつだって政治の思惑はそれに参加する人間の性根まで腐らせる。くだらない、くだらない、実にくだらない……そうは思わないか?」
くだらないなんて、口が裂けても言えない。
僕はそのくだらない思惑によってアレクシアと出会ったのだから。
アレクシアは言葉を区切り、煙草を持ち変えると、それを僕の身体に近づけた。
ちょうど王家の紋章が縫い込まれたボタンの上だった。
アレクシアはそのボタンに煙草を押し付けて火を消した。
まるで僕らの背後に横たわっていた、くだらない政治的背景を侮辱するかのように。
正直、悲鳴を上げたかった。
これがボタンではなく、僕の鼻や目だったら。
僕はその可能性と、その際に発する苦痛を想像して震えた。
「だがな、正直、私はお前にときめかんでもなかった。第一私は他人から寄せられる好意とやらに不慣れでね――そして私の家はそんな優しい言葉をかけてくれる人間がいる家でもなかった。私はお前の婚約を、どちらかと言えば喜んで受けた。十五歳のときだった。あの時はお互い若かったな」
覚えてるよな、というように、アレクシアは薔薇をぐりぐりと首筋に擦り付けた。
あまりのむず痒さと、過去を開陳される羞恥で、消えて無くなりそうだった。
ふう、とアレクシアはわざとらしくため息をついた。
そして、僕を見て言った。
「お前の本心を当ててやろう。お前はさっきのジョークを言ったとき、内心ではこう考えていたはずだ。『この婚約破棄は君のためだ』――と」
どきっ、と、心臓が一拍跳ね上がった。
それは全く僕の本心と同じ言葉だった。
ふう、とアレクシアは僕の耳元にため息を吐いた。
「どうせ他の貴族からのやっかみだの、私に危害が及ぶかもしれないだの、また性懲りもなく四の五の考えていて、そこにどこぞの馬鹿から誘惑されて、お前はその気になった……そうだろう?」
「ぐ……!」
次々図星を突かれて焦る僕の狼狽ぶりを見て、フッ、とアレクシアは、笑った。
「青い、青いよお前。ま、お前のそういうところが好きなんだがな――」
「ち、ちが――!」
「いいや図星だな。口では嘘を言っていても汗の匂いは誤魔化せない。焦った時の甘ったるい匂いだ――ほら」
すう、とアレクシアが僕の首筋に鼻先を寄せて、微笑んだ。
むせ返りそうだった。
煙草のヤニの匂いと、それでも全く押し隠せない、強い香水の香りに。
「――誰だ?」
「う――?」
「お前に真実の愛とやらを囁いた人間、それが誰かと聞いている」
アレクシアの声が、数段低くなった気がした。
ヤバい、これは――! 僕は正直、その場を逃げ出したかった。
なんて馬鹿なことを言ったんだろうと後悔するしかなかった。
婚約破棄なんて一度でも口にした数分前の自分が、絞め殺したいほど憎たらしかった。
「安心しろ、お前がここで下手人を吐かなくても私は怒らない。公爵家は寛大だからな。だがそれは相手が降伏する意志を示した場合に限られる。情けなくひっくり返って腹を見せる駄犬は撫でてやる。だが歯を剥き出しにして唸り声を上げる可愛くない犬には――」
がりっ、という感触がして、僕の首筋に鋭い痛みが走った。
アレクシアが持った薔薇の棘が、僕の肌に一直線に傷をつけた痛みだった。
「ア――!」
「私はこれでも花が好きでね。見るのも育てるのも愛でるのも好きだ。だからその花びらを食い荒らす毛虫は摘んで捨てることに決めている。たとえその花が毛虫と兄弟の誼を通じていようと、だ」
「あ、う、アレクシア――!」
「さぁ、吐いたほうが身のため――いや、臣下のためだ。今なら私も寛大な処置を考えてやれる。だがあまりに意地を張れば――お前は公爵家の諜報能力の凄まじさを来世分まで味わうことになるぞ?」
さぁどうする? そう問うように、アレクシアが首筋に突きつけた薔薇がぐりぐりと動かされた。
たかが薔薇なのに、今にも頸動脈を貫き通してしまうかもしれないという恐怖に負けて、僕はとうとう白状した。
「じ、ジルベール家の、れ、令嬢が――!」
ふっ、と、アレクシアから放たれていた殺気が落ち着いたような気がした。
しばらく、何かを考える無言の間があって――アレクシアが僕の首筋から薔薇の茎を離した。
「ふん、ジルベール家、そうだろうな。あの家とバートレット家は色々と意趣遺恨もある。――ご苦労、エドおぼっちゃま」
その一言とともに、背後から僕の喉首をホールドしていたアレクシアが離れた。
全身の力が萎えた僕は思わずその場に膝をついた。
「さ、黒幕がわかったなら次の仕事だ。私の婚約者様を誘惑してくれた犬コロをしつけてやらないとな――」
アレクシアのその一言に、僕は狼狽した。
「だ、ダメだアレクシア、彼女は悪くない、悪いのは僕で――!」
その一言に、アレクシアが「お前は悪くない」とそっけなく言った。
「人のものに手を出したんだ。相手にもそれなりの覚悟があるはず。意気には意気で応え、全力で叩き潰す――それがバートレット公爵家の流儀だ」
説得など不可能な口調で言われて、僕は唾さえ飲み込まずにその顔を見た。
アレクシアの美しい瞳が白く光り、僕を見下ろした。
「正直に免じて、今回のお前のジョークは笑ってやることにする。だが笑えないのはあちらさんのジョークだ。しかも公爵家とは色々意趣遺恨もあるジルベール伯爵家からの、これは公爵家への攻撃だ。指を咥えて見ているわけにはいかない」
アレクシアはそこで、白い二本の指に挟まれていた紙巻きタバコを床に落とすと、高いヒールですり潰した。
ごくっ、と喉を鳴らしてやっと唾を飲み込むと――ぐちゃぐちゃになった吸い殻が細切れになって散らばっていた。
したたかに踏みにじられた白い吸い殻に、僕を誘惑してきたジルベール家の令嬢の白い肌が想起されて――僕は背筋に悪寒が走った。
「なぁに、ジョークに面白いオチをつけてやるだけさ。悪いようにはしない――おっと、これでは悪人の台詞だな。ま、十中八九、優しいお前にとって面白い見世物にはならない。期待しないでいいぞ」
そう言って、アレクシアは颯爽と部屋を出ていこうとする。
そのまま部屋のドアを開けた途端、アレクシアは肩越しに僕を振り返った。
「……どうして婚約を破棄させてくれないんだ、アレクシア」
僕は呻くように言った。
「ど、どうして……!? ぼっ、僕と婚約し続ける限り、君には国内の貴族からの攻撃を受け続けるんだぞ! おっ、王家とバートレット家の結びつきを危惧する国内の貴族全員から……!」
アレクシアは無言で、僕の憤りの言葉を聞いていた。
僕は必死に食い下がった。
「君だって何度も危ない目に遭ってるじゃないか! ぼっ、僕は知ってるんだぞ! 君はいろんな貴族の令息や令嬢に嫌味を言われて、嫌がらせをされてるんだ! こっ、このままじゃ君に本格的な危害が及ぶかもしれないんだ! それなのに、こんな情けない僕と婚約なんて馬鹿げているじゃないか……!」
僕は矢も盾も堪らず、両手を床について頭を下げた。
「頼む、アレクシア! 僕との婚約を解消、いや、破棄してくれ! 決して悪いようにはしない! 君には僕なんかよりもずっといい婚約者を紹介する! 公爵家には僕から謝罪もする! ぼっ、僕は、君のことを……!」
「生憎だが、それは聞けないよ。エドワード王太子殿下。意地がある。私にも、公爵家にもな」
静かに、しかし断固とした口調で、アレクシアは言った。
「それにな、私は他の貴族とは違う。降り掛かった火の粉は自分で払え、そういう教育と訓練をさせられてきた――私へのご心配は無用だよ、エドおぼっちゃん」
そう言って、アレクシアはカツカツとヒールの音を立てながら、部屋を出ていった。
ドアが後ろ手に締められ、タバコと香水の匂いが消え残る部屋に、僕だけが残された。
◆
数日後――ジルベール伯爵の令嬢、アイーダ嬢が突如学園から姿を消した。
噂によると、どうも三日ほど前、彼女は学園から拉致されて暴行され、美しいと評判だったその髪の毛を無残にも全て刈り取られてしまったという。
彼女が召していた貴金属や金品には一切手を付けず、粛々と彼女を暴行した下手人は、彼女を解放する際に「とても恐ろしいこと」を彼女に言い含めたという。
その一言のあまりの恐ろしさに、アイーダ嬢は高熱を発してうなされ始め、とても人前に出られる状態になくなり、しばらく領地に帰って静養するという。
そしてこの事件の影でもうひとつ、まことしやかに囁かれている噂――。
それは、犯行現場に残された遺留品、バッサリ刈り取られた髪の毛の上に、何故なのか一輪の薔薇の花が落ちていたというものだ。
凄惨な暴行現場に残された一輪の美しい花――それはこの事件を起こした何者かの意志、そしてメッセージを主張して有り余った。
しばらく後、この事件は「薔薇の怪人」が起こしたものとして、しばらく学園内で話題になった。
◆
「……いくらなんでもやりすぎだったんじゃないのか、アレクシア」
僕が頃合いを見計らって言うと、片膝を曲げ、椅子に座ったままのアレクシアが、ん? と口から紫煙を吐き出した。
「なんのことかな、王太子殿下。随分と藪から棒のフリだぜ」
「とぼけないでくれ、アイーダ嬢の件だ。彼女、あれから半月も経つのにまだ足腰が立たないらしいぞ。一体君は最後に何を言ったんだい?」
「なんで野蛮な暴漢の考えてたことを私に聞くかな。それはもし私が暴漢の立場だったら、で答えていいのかい?」
「もう好きに解釈してくれ」
「そうだな……私が暴漢だった場合、か」
そこでアレクシアは、フウ、と煙草に口を寄せ、美味そうに煙を吸って吐き出した。
「私ならきっとこう言うな……『髪の毛はまた伸びてくる。傷はいつか塞がる。目と耳はふたつあり、指は二十本、歯なら数十個ある。だが命はひとつしかない。うかつな行動はせず、ひとつしかないものは大事にするべきだ』……かな」
ゾッ……と、僕の背筋に悪寒が走った。
バートレット公爵家に生まれた人間は、こういう台詞を表情も変えずにポンポン口に出せるのだ。
髪の毛を刈り取られ、恐怖し、絶望しているときに、この口調で脅迫されたアイーダ嬢の戦慄はいかばかりだっただろうか。
僕が絶句していると、アレクシアが実に愉快そうに笑った。
「でも実際、いい暴漢じゃないか。一度拉致されたなら。本来なら指を切り落とされたって、頭から海に放り込まれたって文句は言えない立場だ。髪の毛ぐらいで許してくれるとは、最近の暴漢は随分寛大なものだよ――」
公爵家は寛大だ――その言葉の意味がようやくわかった気がした。
おそらく自分の自慢だっただろうあの髪をそっくり失わせる処分、それが果たして「寛大な措置」だったのだろうか。
相変わらず、アレクシアは女神のような顔と声で、悪魔のようなことを口にする人だ。
「ああもう……わかったよ。君たち公爵家にとってはこれでも寛大な措置だったんだろう?」
「何のことかな」
「どうやら徹底的にとぼける気らしいな、君は」
ふう、とため息を吐いて、僕は本題を口にする気になった。
「今後も、こんなことを続けていくつもりなのか。アレクシア」
僕の方ではなく、窓の外の景色を見ながら、アレクシアは澄ました表情のままだった。
僕はなおも言った。
「僕との婚約の解消にさえ同意してくれれば、君はもうこんなことをしなくたっていいんだぞ」
スパ、と煙草を吸ったアレクシアは、それから細く長く煙を吐き出した。
煙が目に染みたのか、それとも他の感傷のせいか、アレクシアは少しだけ目を細めた。
「今更だな、エド。私は公爵家の人間だぜ。泥もヤニもすっかり染み付いて今更剥がれないよ」
「それでも、僕は君が、本当はそういう暴力を嫌がっているのも知ってるつもりだ。これでも婚約者だからね」
「驚いた、そんなふうに見えるかい?」
「そうでないなら、君は彼女を痛めつけていたはずだ。もっと残酷に、徹底的に」
僕が聞いても、アレクシアは無言だった。
「何を隠そう、今回は宿敵ジルベール家の人間のやったことだ。公爵家が寛大になれる相手とも思えない」
僕はその横顔を見つめた。
「僕は絶対に君との婚約を破棄してみせるぞ。何年かかってもだ。君がこれ以上、公爵家の泥汚れにまみれるのを見るのは――絶対に嫌だからな」
そう、僕は絶対にへこたれない。へこたれるわけにはいかない。
絶対に婚約を破棄し、アレクシアを公爵家の汚れ仕事から救ってみせる。
婚約者だった七年間、僕は彼女の生活をつぶさに見てきた。
ただでさえ、国内の貴族にとっては面白くない婚約であるはずだった。
面従腹背の貴族たちを恫喝するための、公爵家令嬢と国王家王子の婚約――。
この婚約が成就してしまえば、国内の貴族に大規模な反抗の目はなくなる。
だから僕たちの婚約は子供の頃から邪魔され、阻まれ、そして数々の嫌がらせを受けた。
そして――アレクシアはその度に、投げつけられた悪意に倍する暴力でそれに答えてきた。
彼女は王国の汚れ仕事を一身に請け負う公爵家の令嬢であり、絶対に周りにナメられるわけにはいかない立場だった。
ある時は脅し、ある時は殴り、ある時などは今回のように拉致監禁までして――婚約を邪魔するものを徹底的に排除した。
そしてその度に彼女は恐れられ、周りからは人が離れて――アレクシアはますます孤独に、そして近寄り難い存在になっていった。
本人は気づいていないフリをしているのだろうけれど――年々増えていっている煙草の本数が、彼女の心の闇の広がりを象徴しているように、僕には見えた。
僕はそんな彼女を見るのが辛かった。
彼女にも、普通の相手と結婚し、幸せな人生を送ってほしかった。
僕のような情けない男とではなく、有能で冷徹な彼女に見合う男性と一緒になってほしかった。
そうすればきっと彼女は公爵家の呪縛から逃れられる。
たとえ嫌がらせや圧力に耐えて僕と結婚したって、そこから先の道もどうせ茨の道であるはずだ。
そんな背景を考えながらの僕の一言に、アレクシアは煙草の煙を吐き出しながら苦笑した。
「随分今日は強情だな、エド。いつものお前なら、そんな風に断言したりはしないはずだがな」
アレクシアはそこで、乾いた声でまた笑った。
「まさか、お前を誘惑したあの女に気でもあったのかい? それなら悪いことをしたな」
「冗談がすぎるぞ、アレクシア!」
発せられた大声に、ちょっと驚いたようにアレクシアが僕を見た。
あまりに軽はずみな言葉に、僕はむらむらと湧き起こってきた怒りのまま、声を荒げた。
「僕が彼女を愛していただと!? 言っていいことと悪いことがある! それなら最初から君に婚約破棄してくれなんて言うものか! 僕は既にあのとき言ったはずだ、君を……!」
そこまで言いかけて、僕はとんでもないことを口にした自分を呪った。
僕が真っ赤になって口ごもっていると。
ふと――アレクシアは豪華な灰皿に煙草を押し付けてもみ消し、ふふふ、と笑い声を上げた。
「エド、何度も言ってるがな」
「な――なんだ?」
「そう言うことを決め顔で言う時はな、自分に気をつけろと言ってるんだ」
「そ、その手は食うか」
「いや――そういう意味じゃない」
「は?」
立ち上がったアレクシアの目が、その時、少しだけ笑った。
「今のお前――滅茶苦茶そそる顔をしてる、って言ってるんだ。踏みつければいい声で鳴きそうな、とてもいい表情――」
うぇ――!? と呻いた途端、電撃的に動いたアレクシアの右手が僕の手首を掴んだ。
しまった、と思った途端、僕の左脛に鋭い足払いが掛けられ、僕はもんどり打って床に墜落した。
したたかに強打した肩と背中の痛みを呻く間もなく、アレクシアが僕に馬乗りになってきて、僕は短く悲鳴を上げた。
「ひ――!」
「ああ、やっぱりお前の悲鳴は何度聞いてもゾクゾク来る――! 全く、お前ぐらいイジメ甲斐のある男はいないぜ、エドワード」
「な、な――!?」
「お前は少し勘違いしているぞ、エド。私がお前との婚約を破棄しないのはな、意地や公爵家の体面の話じゃない」
えっ? と僕はアレクシアの瞳を覗き込んだ。
よく見ればとても神秘的な――公爵家の穢れなど染み込んではいない、その青い瞳を。
「私は単純にな、好きなんだよ。お前のことが」
アレクシアが、はっきりとそう言った。
喜ぶとか恥じるとか出来ず、目を白黒させている僕の耳に、アレクシアがそっと口元を寄せてきた。
「それと――私があのアイーダ嬢を殺さなかったのはな、温情をかけたわけじゃない。思わず尊敬したからだよ、あの女を」
思わぬ一言に、僕はアレクシアの顔を目だけで見た。
「あの女、私にこう言ったんだ――私はエドワード殿下を真剣にお慕い申している。どんなことをされても、たとえ人の道に背いてお二人の仲を裂くことになろうとも、アレクシア様には渡さない、とな」
その言葉に、僕は虚を衝かれる気分を味わった。
呆けた僕の顔を見て、アレクシアは毒々しい唇を舌先でちろりと舐めた。
「正直、燃えたよ。ゾクゾクと来た。やっと私たちの間にもくだらない政治の思惑ではない、本物の恋敵が現れた。しかもそれは公爵家の宿敵であるジルベール家の令嬢だ。私はその勇気と度胸に敬意を表して彼女を拉致し、その上身体は無傷で解放してやった。本当は腕の一本もへし折らないと示しにならないんだが――私の苦衷を察してほしいものだな」
「アレクシア――!?」
「ああ――あの女が戻ってくるまでどれだけあるかな? 一週間か? 一ヶ月か? 一年か? 誰にも渡さないぞ、エド。お前は私の玩具だ。ライバルが現れたことでますますいい表情をするようになった、私だけの人形――」
そう言うなり、アレクシアの唇がにいいっと半月状につり上がった。
その顔に妖艶さよりも恐怖を感じた僕は、慌てて逃げ出そうとした。
だけど――人体の構造を知り抜いた上でのしかかっているらしいアレクシアの膝も、足も、手も、なにひとつビクともしない。
僕が足で床を掻いて絶望的な抵抗を試みる間に、アレクシアの口元がそっと僕の首筋に寄ってきた。
「――ほほう、これは期待している匂いだな。一体何を想像している、エドおぼっちゃん? さてはお前がしつこく私との婚約破棄を諦めないのは、その後のこれを期待しているからかな――?」
す、と僕の首筋に走る血管を指でなぞり、アレクシアが言った。
僕はあまりの恐怖と、その反面高まる心臓の鼓動で、頭の中のものが真っ白に蒸発した。
「似た者同士、仲良くやろうじゃないか。いいか、命令だ。エドおぼっちゃま。私を愛し続けろ。そのまま永遠に、変わりなくな」
アレクシアは悪魔のような声で囁いた。
「そして諦めずに婚約を破棄し続けろ。そのたびに踏み躙っていい声で鳴かせてやる。そのためだけに私を愛し続けろ。これはその報酬の前払いだよ――」
そう言って、アレクシアの唇がゆっくりと降ってきた。
ああ、と僕は心の底で、絶望的な気持ちを味わった。
あの時に一目惚れなどしなければ。
一生愛すなどと言わなかったら。
僕はこの恐ろしい令嬢と知り合わなくて済んだのに。
誰かと普通に恋をして、誰かと普通に暮らして、誰かと普通の夫婦になれたはずなのに。
でも――もう遅い。
僕はこの人の魔の手からもう逃げられない。
まるで毒蛇に頭から飲まれ、ゆっくりとろかされていくように。
僕はもう逃げられないのだ。
でも――それは僕がある意味望んだことなのかもしれない。
この人の毒の罠に囚われ、ゆっくりと冒されていく自分を心地よく感じているのかもしれない。
僕ら二人で汚濁に塗れ、どうしようもなくなるのを待っているのかもしれない。
莫大な諦念と、それと僕たち二人の未来への少しの期待を抱きながら。
僕はアレクシアの唇が落ちてくるのを夢見心地で待った。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
ネタ日照り中です。
全く短編のネタが出てきません。
そんな中、東の空より「全力でSEIHEKIを叩きつければいいんだよ」と
何者かからの天の声が聞こえましたので書き始めました。
なんと、完成まで五ヶ月ぐらいかかりました。
至ってやまなし、オチなし、意味なしな作品になってしまいました。
それでも
「面白かった!」
「アレクシア怖い!」
などと思っていただけるならば、
どうぞ下の『☆☆☆☆☆』をいくらか『★★★★★』にしていただくことで
ご評価いただければと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。