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井伊刑事は振り返ると、後ろで立っていた体格のいい男性刑事にうなずいて合図する。
すると男性刑事がジップロックに入ったマスクを鞄から取り出し、机の上に置いた。
体格がよく目つきもするどいその男性刑事のほうが明らかに年上でベテランのように見えるのだが、井伊刑事のほうが立場が上のように見える。
井伊刑事がジップロックの両端をつまんで、マスクをおれの目の前にかかげた。
「これは昨月、都内で起きた殺人事件の現場に落ちていた遺留品。警察はこのマスクが犯人の落としたもの、という可能性を考えているの」
「そんな間抜けな犯人いますかね」
「あくまで可能性です。それが犯人を示す可能性があるかぎり、証拠として調べるのが仕事だからね。
日夜、捜査をしているけど、今のところ残念ながら犯人の目星すらついていない状況なの。このマスクだけが唯一の手がかりといってもいい」
「なるほど、刑事さんがおれのところに来た理由がわかりました。でも気が進まないんですね。たしかにおれは使用済みマスクをつければ、持ち主の情報が頭に浮かんでくる。でもその力はおれの趣味に使うためのものなんです」
「おい、人が死んでる事件なんだぞ!」
男性刑事がいらだったようにすごんできた。
それを目で制する井伊刑事。
「『趣味』という言い方が悪かったですね」
おれは肩をすくめて、井伊刑事の目を見た。
「この力は、悪用しようと思えば悪用できる。自由気ままに使っていい力じゃない。わかってるんですよ、おれにも。どこかで制限をかけなきゃいけないって」
おれはゆっくりと語った。
「だから、自分に制限をかけたんです。マスクの持ち主は、あくまで若くてかわいい女性に限るって」
「堅位目くん、それを悪用っていうのよ」
新田先生がなぜか疲れた表情で口をはさむ。
「いいえ、違います。自分の心を律する制約です」
「ちなみにあなたの言う趣味の範囲の話だけど……マスクの入手方法は?」
井伊刑事に尋ねられ、おれは率直に答える。
「落ちてあるのを拾ってます」
「堅伊目くん、ゴミ箱に捨てたものを勝手に拾うのはいけないことなのよ」
言い聞かせるような新田先生の言葉に、またかと思った。
この問答は、今まで何度も新田先生と繰り返した。
しかし意見が合うことはなく、平行線のままだった。
これからもお互いの主張を認め合うことはないだろう。
「ゴミ箱に捨てられているのは、所有権を放棄したものですよね」
「自分が捨てたマスクをクラスメートがつけたらいやでしょう。それをされた人の気持ちを考えてみなさい」
「つけるだけですよ。笛をなめたり、上履きのにおいをかいだりするわけじゃないんですよ」
「さもここまではセーフみたいな口ぶりだけど、全部ボーダーの超えてるしアウトだから!」
新田先生のいらつきが伝わってきた。
「ちょっと落ち着いてください、先生。生理二日だからって、そんな急に大声ださなくても」
「!? なんで!?」
「昨日、先生が使っていたマスクをつけたので」
「じゃなくて! どうして私のマスクをあなたが持ってるの!?」
「副校長のゴミ箱なら安全と思いました?」
そう、既存の価値観に固執してダイバーシティに見向きもせず、刺激のないありふれた趣味しか理解できない新田先生は、マスクだけは職員室の自分のゴミ箱ではなく、わざわざ副校長の使っているゴミ箱に捨てるのだ。
そのあこぎなやり口を特定するために、いったい何度吐き気をもよおすようなおっさんのマスクをつけるはめになったか……。
本当にひどい。
「……本当にひどいわね」
井伊刑事がつぶやいた。
おれは目を見開いた。
ありがたい、この人は理解できる女性のようだ。
どうにもおれの趣味は世間一般の理解を得にくいようで、こういう開明的な女性はそうはいない。
常日頃、世間の冷たい目にさらされる厳しさを知るからこそ、井伊刑事のような理解者は大事にしたい。
「あの、井伊刑事がどうしてもっていうなら、捜査に協力してもいいです」
井伊刑事の目が一瞬ぱちくりと開いたが、すぐに慌ててうなずいた。
「そ、それは助かるわ。じゃあさっそく……」
「その前にちょっといいですか。こちらのツイッター、個人情報が書いてないですが、どうやっておれを特定したんですか?」
「ほら、ここの写真。ガラスに制服のスカートが少し映っているでしょ」
井伊刑事が指でさした写真を見ると、たしかにスカートの一部がガラスに映っている。
「そこから彼がこの高校を特定して、あとは先生方に話を聞いてあなたの名前を教えてもらったの」
と後ろの男性刑事を振り返って答えた。
「こんなちっちゃなスカートから……キモ」
「え?」
「あ、ごめんなさい。ただ、よっぽど女子の制服にくわしくないとわかんないですよね。それをいい歳したおっさんが突き止めたって、キモくないですか」
「ああ、そういう意味ね。まあ捜査だからね」
と苦笑して、目を吊り上げてこちらをにらんでいる後ろの男性刑事をフォローした。
「それよりあなたにも『きもい』って感情があったのね……」
「は?」
「あっいえ……じゃあさっそくお願いするわね」
と井伊刑事が慌ててジップロックからマスクを取り出す。
手渡されたマスクを受け取ると、すうーと大きく息を吸って口元にあてた。
その瞬間、断片化された情報が土石流のように体のなかに流れ込む。
情報はつぶてのような物理的な存在となって神経に激しくぶつかり、その刺激が脳を駆け巡った。
痛みをともなった刺激に思わず頭をかかえる。
「うっ、ぐっ……」
胸がむかむかして、えづいてしまう。
ぎりぎりまで我慢したがすぐに限界が来て、乱暴にマスクを剥ぎ取った。
「はあはあ……」
「大丈夫?」
井伊刑事が心配そうに顔を覗きこんできた。
「思ったより……」
「ん?」
「思ったより、おっさん臭がきつくて……」
「そ、そう……。それじゃあこのマスクの持ち主は、年のいった男性ということね」
おれは眉間にしわをよせて口元をぬぐい、淡々と頭に浮かんだ情報を口にする。
「50歳前後で、右利き、この時は眼鏡をしていた。喫煙者。前のごはんは『ラーメン二郎』……マシマシにしてやがる……。尿路感染症とかの病気持ち。直前にバスに乗ってた……」
吐き出された言葉に、井伊刑事と男性刑事が目を丸くしている。
「おい、適当なこと言ってるんじゃないだろうな。そんなことまでわかるはずないだろ」
不信感のこもった目を向ける男性刑事の鋭い声に、おれはため息をついた。
「信じてなくてもべつにかまわないです。犯人を捕まえたいのはおれじゃないんで」
あごに指をあてて考え込んでいた井伊刑事が、顔を上げてこちらを向いた。
「……これがもし本当なら、犯人像かなり絞れますよね」
「たしかに、病歴があれば病院にカルテが残ってますし、『ラーメン二郎』の常習性を考えれば、また店を訪れる可能性も大いにあります。また年齢と外見、直前の移動経路がわかれば監視カメラで調べることもできますが……」
男性刑事の言葉に、井伊刑事がうなずく。
井伊刑事は、いまだ否定的な表情を見せる男性刑事にメモをとるよう指示すると、男性刑事が慌てて手帳にペンを走らせた。
「あ、たばこはサンプルとつけ合せれば銘柄もわかるけど、そこまで確認したほうがいいですか?」
一応付け足すと井伊刑事がぜひ、とうなずく。
「正直、あまりにすごすぎて信じられない気持ちだわ」
「まあ、そうですよね。クラスメートのみんなもせいぜい生理を当てる程度の変態力と思っているみたいですし」
「井伊警部補、こんなあやしげな情報を本気にしたら、本部の人間に笑われますよ!」
「でもこれが本当なら犯人にかなり近づけるはずよ。さっそく捜査本部に報告しなきゃ」
そう断言すると井伊刑事が立ち上がる。
「今日は協力ありがとう、堅位目くん」
井伊刑事はそう言うと、男性刑事を従えて慌ただしく立ち去った。