第二章 『「ムルクーラーミ」って、どんな意味?』③
和輝が鈴香を体育倉庫に閉じこめた日。
それは、二人の記憶に大切な思い出が刻みこまれた日。
元もと和輝に憧れていた鈴香だ。大人しく、控えめだった彼女が、今日のおてんばへと変身するまで、そう時間はかからなかった。
ただ、あまりにおてんばがすぎたため、「少しは女らしくしろよ。お前、ほとんど男だぞ」そう和輝に言われてしまったことがある。
この時ばかりは、さすがの彼女も、「“おしとやか”にしなきゃ」と反省したのだが、一度身に着いたおてんばが消えることはなく。「せめて、髪型だけでも女の子らしくしよう」と考え、ショートカットの髪の毛を伸ばし始めた。
その結果、今日では肩が隠れるまでの長さに。外見はずっと女の子っぽくなったのだが、性格はおてんばという、一年前とは真逆の鈴香ができ上がったというわけである。
「なぁ、鈴香」
「何?」
「さっき鈴香が聞こうとしていたことだけど……」
「和輝にとって、私は必要なのかって話?」
「あぁ、それ」
「あ、そのことならもういいの」
「どうして?」
「だって、和輝、一年前のあの日のこと、大切な思い出だって言ってくれたから」
ようやく鈴香の顔に笑顔が戻った。
そこに、
「和輝、鈴香ちゃん。そっちはどうだい?」
そう声をかけながら、博士が図書室にやってきた。隣には百々の姿もある。
「うわっ! びっくりした。まったく、もう少し慎重に行動しろよ。先生に見つかるかも知れないだろ」
慌てて和輝がその場に立ち上がると、にこりと笑って博士は言った。
「大丈夫だよ。今の時間、先生たちは職員会議で職員室にいるから。一階のパソコン室はまだしも、ここまでくることはないと思うよ」
「何だ、そうなのか。でも、そんなことはもっと早く教えておいてくれよ」
和輝はほっと胸を撫で下ろした。
「それで、博士君たちはどうだったの? 何か分かった?」
そう鈴香がたずねる。
これに答えたのは百々だった。
「ううん、駄目。色んな検索サイトでムルクーラーミを調べてみたんだけど、どれも結果は同じ。何も出てこないの。意味どころか、言葉そのものがないみたい」
「言葉がない?」
「そう。それで、博士君が言うには、そもそもムルクーラーミは存在しない言葉なんじゃないかって」
「じゃあ、庵神先生は、意味がないどころか、存在さえしない言葉を唱えて奇跡を起こしたってこと? それって、何だか納得いかないなぁ」
腕を組むと、鈴香は首を左右にふった。
そんな彼女に、博士も同意する。
「そうだね。僕も納得いかないよ。でも、ムルクーラーミが世界中のどこの言語でもないことは事実なんだ。そうなると、他に考えられるのは、庵神先生が創った造語、とか……」
「造語?」
「うん。今ある言葉を手がかりにして、新しい言葉を創り出すことだよ。例えば、電子レンジで物を温めることを“チンする”って表現するみたいに」
「なるほど。ムルクーラーミは、先生が創り出した新しい言葉ってことね。それだったら、インターネットで調べられないのも分かる」
「うん。だけど、その場合はもっと厄介なんだ。何しろ、ムルクーラーミは庵神先生の造語、ネットでも検索できないとなると、その意味は……」
「庵神先生しか知らない、ということになるな」
そう和輝がつなぐと、博士は小さくうなずいた。
そこに、百々が困り顔で言う。
「でも、庵神先生は、ムルクーラーミの意味を教えてくれないんでしょう?」
「うん、そうだね。そして、それが、僕が厄介だって言った理由だよ。ムルクーラーミは、言葉だけ唱えても意味を知らないと奇跡は起こらないんだ。それなのに、その意味は庵神先生しか知らない。でも、庵神先生に聞いても教えてはくれない」
「つまり、お手上げ、ってことだな」
両手を上げて万歳して見せる和輝に、博士は、
「残念だけど、そうなるね」
と、諦めの表情を見せた。
どんなことにも興味を持ち、気になった問題はとことん研究する。そんな博士でさえも断念してしまった今回の一件。
だが、それでもまだ望みを捨てていない少女がひとり。それは鈴香だった。
彼女は言った。
「まだよ。まだ終わってない。私は、奇跡を起こしたいの。今度は私が作戦を考えるから、三人も協力して」
「それは別に構わないけどよ、お前、そんなに鼻息荒くして、いったいどんな奇跡を起こそうって思ってるんだ?」
何も知らない和輝がそうたずねる。
「え? そ、それは……」
思わず鈴香は口ごもった。「貴方に好きって言わせたいのよ!」そんなこと、言えるわけがなかったのである。
すると、三人の中でただひとり、鈴香の想いを知る百々がフォローに入った。
「鈴香ちゃんが起こそうとしている奇跡なんだから、素敵なものに決まってるよ。私は、鈴香ちゃんに協力する。だから、博士君と和輝君も私たちに協力して。私たち四人が集まれば、きっと何でもできるはずよ」
「何でもできる、か。……分かった。僕も手伝うよ」
博士の研究魂に再び火が点いた。
「まぁ、博士がいれば変なことにはならないだろうし、やるか。それで、作戦は?」
そう聞いてくる和輝に、鈴香はきっぱりと答えた。
「今はないわ」
「ない? でも、お前、今度は私が作戦を考える、って……」
「考えるけど、今はないの。明日まで待って」
「まったく、そんなことで本当に大丈夫なのかよ」
和輝は不安そうにつぶやいた。
こののち四人は、「一応調べておこう」との博士の提案で、図書室の左半分の棚にもひととおり目を通した。
だが、結局、タイトルに『ムルクーラーミ』が使われている本は一冊も見つからなかった。
一方、そのころ、職員室では職員会議が開かれていた。
どの先生も真剣な顔で話し合っているその中で、ひとり大きなあくびをしているのは庵神先生だ。
よほど暇なのだろうか、彼は、机を開くと中から手鏡を取り出した。
それから、鼻毛は出ていないだろうかとチェックを始める。
やがて鼻毛チェックが終わると、庵神先生は手鏡に向かってささやきかけた。
「ムルクーラーミ」
直後、ぼさぼさ髪のおじさんの顔は鏡から消え、代わりに、四人の少年少女の姿が映し出された。
場所は、図書室。四人とも何やら熱心に本棚の本を見ている様子だ。
そっと彼が指先で鏡に触れると、ひとりの少女の顔がズームアップされた。
鈴香だ。
「どうやら、彼女は本気のようですね。とはいえ、相手への想いがあまりに強すぎて、無茶をしてしまいそうな。はてさて、どうしたものか」そう心の中で独りごちる。
だが、小さくため息をつくその仕種とは裏腹に、庵神先生の顔には笑みが浮かんでいた。




