第一章 『“安心先生”』②
小川小学校の裏には丘にも似た小さな山があり、そこには清らかな小川が流れている。昔は、どこの家庭もその小川で洗濯をし、もっと上流の水は飲み水としても使っていたのだそうだ。
言うまでもないことだが、先に存在していたのは山や小川で、学校はあとからできた。
そのため、小川小学校の名前は、裏山を流れている小川に由来するというわけだ。
全校児童が百五十人にも満たない小さな学校。一年生から六年生まで、全てひとクラスずつ。それが小川小学校である。
ちなみに、今年度の五年生は二十三人。香椎鈴香もその中のひとりだ。
始業式から三日が経った今日、午後の授業がスタートした。鈴香が、「飢え死にしちゃうかも」と心配していた六時間授業が、とうとう始まってしまったのである。
そして、現在。予想どおり彼女は、人生最大のピンチを迎えていた。
「……お腹空いた」机上の教科書に目を落としながら鈴香は、ただそれだけを考えていた。黒板横の時計にちらりと目をやってみるが、四時間目が始まってまだ五分しか経っていない。つまり、あと四十分は算数の授業が続くというわけである。
「それにしても、静かね」教室に鉛筆を走らせる音しか聞こえないことに気づき、周りを見回す。鈴香の席は、廊下側の一番後ろ。そこから見える級友たちは、皆一様にノートとにらめっこしていた。
そういえば、空腹のせいでもうずっと昔のことのように感じられるが、つい二分ほど前に庵神先生が言っていた。「それでは、練習問題を解いてみましょう」と。
「皆、頑張っているのね。私もちゃんとしないと」そう自分を励まし、鈴香も鉛筆を握る。だが、すぐに芯の部分の黒色がチョコレートに見えだし、空腹はますます加速していくのだった。
「ひょっとして、誰も食べたことがないだけで、教科書って美味しいのかも……」そんなことまで考え始める鈴香。いよいよ限界も近いようだ。
すると、そんな彼女にさらなる不幸が訪れた。今にも鳴き声を上げようと、腹の虫が口を開きだしたのである。
「だ、駄目よ!」とっさに心の中でそう叫ぶと、鈴香は自分の腹を押さえた。それから、ゆっくりと左へと視線を向ける。そこには、和輝がいた。
そう。鈴香の隣の席には、彼女が片想い中の相手、新宮和輝が座っていたのである。
始業式の日、鈴香たちは、四年生の時とは違う教室だということもあり、とりあえず出席番号順で座ることになった。その際、偶然にも隣どうしになったのである。また、「名前を覚えたいので、席替えはもう少し待ってください」との庵神先生の言葉で、座席はしばらくそのまま。これは、鈴香にとって思いがけない幸運だった。
ところが、そんな幸運も今ばかりは不運だ。何故なら、もし、ここで腹が鳴ったら、隣にいる和輝に聞こえてしまうことは間違いないからである。
三日前に告げられた「お前は腹にも口がついているのか?」との台詞、再び和輝に言わせるわけにはいかない。そう考えた鈴香は、かねてより準備していた“ある作戦”を実行することにした。
それは、名づけて“人体の不思議大作戦”。何でも、人の体にはたくさんのツボがあり、そこを押すと、体が軽くなったり便秘が治ったりするのだそうだ。
そして、ここからが重要なのだが、その中には“腹の虫が鳴かなくなるツボ”というものも存在する。
つまり、そのツボを押せば、腹の虫は大人しくなってくれるというわけなのである。
ちなみに、“腹の虫が鳴かなくなるツボ”は“合谷”といい、左手の甲の人差し指と親指の骨がつながる位置の人差し指側にある。頭痛や肩こりにも効果があるとのことだが、今はどうでもよい話だ。
さっそく鈴香は、“合谷”のツボを右手の親指で押してみることにした。
……むにむに。痛くないように指の腹で優しく揉みほぐす。何となくではあるが、効いているような気がする。
「うん、作戦成功かも」にやりと笑った鈴香は、「これなら、もう少し強く押しても平気ね」と、右手の親指にさらに力を入れた。
……ぐにぐに。少し痛いが、我慢できないほどではない。むしろ空腹を忘れられてちょうどよいくらいだ。鈴香は、夢中になってツボを押し続けた。
すると、
「鈴香」
隣から彼女の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「え?」
慌ててそちらへと目を向けると、和輝が心配そうな表情でこちらを見ていた。
「お前、左手が痛いのか?」
そう彼が問う。
「う、ううん。そんなことないよ」
鈴香は大きく首をふった。
「……そうか」
それだけを答えると和輝は、ノートへと顔を戻した。
どうやらツボを押していることまでは気づかれなかったようだが、左手を触っているところは見られていたらしい。
「和輝って、妙に勘が鋭いのよね。あまり続けると怪しまれそうだから、“人体の不思議大作戦”はここまでね」そう考えた鈴香は、次の作戦に移ることにした。
そう、彼女は、腹が鳴らないようにする方法を他にも用意していたのである。
続いては、“空気でお腹いっぱい大作戦”だ。
一般的によく言われるのは、「お腹が鳴りそうになったら、息をとめたり、はいたりするとよい」だが、本当は違う。音楽の時間に教わる腹式呼吸の要領で、「息を吸う」のが正解なのである。
ただし、気をつけないといけないのは、吸った息をはき出す時。できるだけ腹を膨らませた状態でそれをせねばならず、集中力を必要とする。
「ちょっと難しそうだけど、チャレンジね」本当は算数の練習問題にチャレンジしたほうが賢明なのだが、今の鈴香がそれに気づくことはない。ゆっくりと空気を食べるように、腹いっぱいに蓄えると、今度は慎重にそれをはき出していった。
なるほど。少しばかり腹筋に負担がかかるが、こうやって呼吸しているうちは腹が鳴ることはないだろう。ひと先ず鈴香は安心した。
ところが、
「おい、鈴香」
また和輝だ。
「な、何?」
返事をしたとたん、僅かに鈴香の集中力が途切れた。
直後、その隙を見逃さなかった腹の虫が大きく口を開き、彼女に襲いかかってくる。
抑えこんでいた腹の虫の反撃は、鈴香の予想をはるかに超えるものだった。
「こ、これは! ……駄目かも」必死の抵抗も、もはやこれまで。鈴香は、始業式の時のように和輝から笑われることを覚悟した。
しかし、
「グゥ~~~」
彼女の腹から、そんな犬の唸りにも似た音が鳴りだす直前、奇跡が起きた。
「皆さん! 聞いてください!」
突然、窓を震わさんばかりの大声が、教室に響き渡ったのである。
鈴香や和輝はもちろん、練習問題に取り組んでいた他の子たちもこれにはびっくりだ。
「な、何だ?」
「どうした?」
各々そう口にしながら、声の聞こえた黒板のほうへとその顔を向けた。
大声を出した犯人は、教壇に立っていた庵神先生だった。
二十三人の子供たちの視線を一身に受ける中、庵神先生は言った。
「あの、皆さん。頑張っているところ誠に申し訳ないのですが、ひとつ相談したいことがありまして……」
「相談って、何ですか?」
教室中央、最前列の席に座った男の子がすぐさまたずねる。
彼の名前は、遠野博士。勉強のことなら学校で一番。どんなことにも興味を持ち、気になった問題はとことん研究するという努力型の秀才だ。
そんな博士からの問いに、庵神先生は答えた。
「よくぞ聞いてくれました。実は、私、先ほどから非常にお腹が空いていまして、もう倒れそうなんです。ですから、少し早いですけど、給食の時間にしようかと思うのですが、どうでしょうか?」
「き、給食!」その言葉に反応した鈴香の椅子がガタッと音を立てる。
だが、ここで、「そうですね! そうしましょう!」などと真っ先に賛同してしまったら、あとで和輝から何を言われるか分かったものではない。彼女は我慢して様子を見守ることにした。
庵神先生の話を受けた博士が、ふり返って皆に問いかける。
「“腹が減っては軍ができぬ”って言葉もあるし、僕は構わないと思うんだけど、皆はどうかな?」
すると、
「私も、反対ではないんだけど……」
そう言いながら、窓側、後ろから二番目に座る女の子がそっと手を挙げた。
彼女は、月見里百々。優しくおっとりとした性格で、鈴香の親友でもある。密かに博士に片想い中。父親は、ソフトクリーム会社の社長である。
「百々ちゃん、どうぞ」
博士から名を呼ばれ、話を促されると、百々は、少し照れた様子ながらも口を開いた。
「うん。あの、給食の時間が早くなるのは別にいいんだけど、もし、そうするんだったら、他の学年の人たちも一緒がいいかなって。だって、入学したばかりの一年生は、今日が初めて食べる小学校での給食でしょう? きっと楽しみにしていると思うの。それなのに、五年生の私たちが先に食べちゃうのは、ちょっと嫌かな」
「さすが、百々ちゃん」
思わず鈴香がそうつぶやく。「早く給食が食べたい」との思いしかなかった彼女だけに、一年生のことまで考えている百々の優しさは大きく心に響いたようだ。
また、この百々の意見には、クラスの全員が賛成だったらしい。皆一様に大きくうなずいている。
「じゃあ、まとめるよ。給食が早くなるのはいいけど、他の学年も一緒という条件つき。これでいいかな?」
そう博士が確認すると、
「いいでーす」
皆の声が揃った。
「どうでしょうか?」
黒板のほうへと向き直り、博士がたずねる。
庵神先生は答えた。
「何も言うことはありません。君たちは、大変素晴らしい意見を出してくれました」
「ありがとうございます。でも、まだ授業中ですから、他の学年の給食を早めることは、僕たちにも……」
困り顔を浮かべる博士に、庵神先生はさらりと告げた。
「あ、そのことでしたら問題ありませんよ。実は、私、自由自在に奇跡を起こすことができますので」
「はい?」
博士を始めとしてクラスの全員、もちろん鈴香も、「よく分からない」との顔をする。
そんな彼らを前にして、庵神先生は何かを唱えた。
「ムル……」
実際はもう少し長い言葉だったようだが、教壇から離れた席にいる鈴香に聞こえたのはそれだけだ。
そして、奇跡は起きた。
――ピン、ポン、パン、ポン――
校内放送を知らせるチャイム音が響いたのち、スピーカーから校長先生の声が聞こえ始めたのである。
『全校児童の皆さんにお知らせします。まだ四時間目の途中ですが、今日は午前中の授業を切り上げ、これから、給食にしたいと思います。給食当番の皆さんは、エプロンを着て手を洗い、給食室まで給食を取りにきてください。繰り返します……』
ありえない出来事に、ただ驚くばかりの子供たち。
しかし、そのような中で、庵神先生だけは、それが当然であるかのように、
「それでは給食当番さん、行きましょうか」
と告げたのだった。
まるで魔法でも見せられていたかのよう。瞬きをするのも忘れ、鈴香が庵神先生を見つめる。
それに気づいた先生は、一度彼女ににこりと笑いかけたのち、声には出さず、ゆっくりと口だけを動かして何かを伝えた。
だが、空腹で思考力を失っている鈴香には、先生が何を言っているのかまでは読み取れなかった。
ちなみに、この時、庵神先生が彼女に伝えた言葉は、「よ・か・っ・た・で・す・ね」であった。
それは、「お腹が鳴る音を聞かれなくてよかったですね」だったか、それとも、「給食の時間が早くなってよかったですね」という意味だったのか。
いずれにせよ、庵神先生が全てを知っていたのは間違いない。




