第一章 『“安心先生”』①
第一章 『“安心先生”』
人の顔ぐらいの大きさの丸いホットケーキが、白い皿の上に載っている。
ホットケーキの真ん中には、少し溶けた四角形のバター。もちろん、ハチミツもたっぷりとかかっている。
リビングいっぱいに広がる甘い香りに、今、香椎鈴香は、極上の幸せを感じていた。
テーブルを前にして座り、両手を合わせる。
「いっただっきまーす!」
弾んだ口調でそう告げると、彼女は、ナイフとフォークを手に取った。
ホットケーキは鈴香の大好物である。そのため、切り分けるひと口分は、とてもひと口にできるとは思えないほど大きい。
だが、それを彼女は、
「むんぐっ」
の声とともに、無理やり口の中へと押しこんだ。
ふんわりと柔らかな生地がとろけ、ハチミツとバターが合わさった風味が舌を優しく包みこむ。
「ほ、ほいひー!」
リスのように口をふくらませたまま、鈴香は感嘆の声を漏らした。
そこに、キッチンから飲み物を持って母親の綾子がやってきた。
「こら、鈴香。そんな食べ方してたら、喉に詰まっちゃうでしょう」
彼女は、カップに入った牛乳を鈴香に手渡した。
「ありがとう。だって、お母さんのホットケーキ、本当に美味しいんだもの」
カップを受け取りながらそう言うと、鈴香はゴクゴクと喉を鳴らして牛乳を飲みほした。
「ほら、お口の周りについてる。白い“おひげ”ができてるわよ」
「え? 本当?」
綾子の言葉に促され、鈴香は着ている服の袖口で口元を拭った。
「ちょっと、はしたないことしないの」
呆れた様子で綾子がとがめる。
だが、それをまったく気にすることなく鈴香は、鼻歌交じりで再びホットケーキと向かい合うのだった。
「……まったく、もう少し“おしとやか”にできないものなの? 和輝君が見たら、どう思うかしらね」
鈴香の傍らに座り、そっと綾子がつぶやく。
そのとたん、鈴香の動きがとまった。
直後、急に姿勢を正し、ナイフとフォークを上品に扱い、彼女なりの“おしとやか”を演出しているのであろうふる舞いを始める。その証拠に、切り分けたホットケーキは、先ほどよりもずっと小さなものになっていた。
笑いを声に出すことなくにやにやと、綾子が見つめてくる。
そんな彼女にちらりと目をやり、鈴香は言った。
「分かってると思うけど、今のこと、和輝に話しちゃ駄目だからね」
「今のことって、何のこと?」
綾子がとぼける。
「大きな口を開けてホットケーキをほおばったり、洋服の袖口で口を拭いたりしたことよ」
「まぁ、鈴香ったら、そんなはしたないことしてたの」
おどけた様子で綾子はさらにとぼけて見せた。
「もう、意地悪しなくてもいいでしょう。そうでなくても、私、今日も学校で和輝に笑われたばかりなんだから」
「あら、何があったの?」
「始業式で体育館に集まっている時に、私のお腹が鳴ったの。そうしたら、和輝、お前は腹にも口がついているのか? って、大笑いし始めて。私、凄く恥ずかしかったんだから」
その時のことを思い出したか、鈴香は顔を赤らめた。
「あらあら、そうだったの。それは五年生になってすぐからとんだ災難だったわね。だけど、鈴香、朝ご飯はきちんと食べて行ったでしょう?」
「うん。でも、お腹が空くの。どれだけたくさん朝ご飯を食べても、十時ごろにはお腹の虫が鳴り始めて、十一時にはめまいがしてきて、十二時にはもう倒れそうになるの」
「成長期だからかしらね」
「あーあ、三日後からは午後の授業も始まるっていうのに心配だよ。こんな調子だと、私、給食の時間になる前に飢え死にしちゃうかも」
暗い表情で深くため息をつくと、鈴香は、開いたその口に切り分けたホットケーキを立て続けに放りこんだ。
「何だか、一緒に心配してあげる気がなくなるわね」
もぐもぐと口を動かしている娘を見ながら、そう綾子が小さく独りごちる。
「え? 何か言った?」
「いいえ、別に何でもないわ。……あ、そうだ。それはそうと、五年生になって鈴香たちの担任の先生も替わったんでしょう? 去年担任だった南野先生、街のほうの学校に異動になっちゃったから」
「うん、替わったよ」
「それで、どうなの? 今度の先生も南野先生みたいに恰好いいの?」
大きく身を乗り出して綾子がたずねる。
だが、鈴香はあっさりとこれを否定した。
「残念だけど、恰好よくはないかな。今度の先生は、四十五歳のおじさん。髪の毛はぼさぼさで、お腹もちょっと出ていて。そういう意味では、南野先生とは正反対よ」
「あら、そうなの。がっかり……」
言葉どおりに綾子は、乗り出していた上半身を元に戻した。
すると、
「あ、だけど……」
すぐに鈴香が言葉を足す。
「どうしたの?」
綾子が問うと、彼女は、今日の学校での出来事を思い返すように、一度宙を見てから答えた。
「それが、今度の私たちの担任の先生、庵神っていう名前なの。珍しいでしょう?」
「あんじん? 確かに珍しい名字ね。でも、そんな名前の先生、小川小にいたかしら?」
「いなかったよ。今年新しくきた先生だもの。それでね、庵神先生にはあだ名があるの」
「へぇ、赴任したばかりで子供たちからあだ名をつけられるなんて、親しみやすい先生なのね」
「違うよ。あだ名をつけたのは、先生たち。何でも、庵神先生って凄く有名な先生らしくて、学校の先生たちの間では、ずっと前から“安心先生”って呼ばれているんだって」
「え? まさかそれって、庵神と安心をかけた駄じゃれってこと?」
「下らない」との顔をする綾子に、鈴香は首をふって見せた。
「私も最初はそう思ったけど、どうやら違うみたい」
「じゃあ、どうして“安心先生”なの?」
「それが不思議なんだけど、庵神先生のいる学校では、事故に遭う人や大怪我をする人がひとりもいなくなるんだって。だから、“安心先生”って呼ばれているってわけ」
「なるほど。学校の守り神みたいな先生なのね」
「あ、それ、校長先生も同じことを言ってた。始業式の前の着任式で新しい先生たちの紹介があったんだけど、その時、校長先生ったら庵神先生の紹介をしながら泣いてたの。泣きながら、小川小に守り神がきてくださいました、なんて言って、ステージの上で万歳し始めて」
「え? あの真面目な校長先生がそんなことしたの?」
「うん。だから、私たちもびっくりしちゃって」
「それはびっくりするでしょうね。お母さんも鈴香の話を聞いただけで驚いちゃったもの。でも、校長先生がそこまでするってことは、庵神先生って、本当に“安心先生”なのかも知れないわね」
そんな感想を口にする綾子に、鈴香も同意した。
「うん、私もそう思うよ。そして、その庵神先生は、私たちの担任の先生。これって、凄いことだと思わない?」
「そうねぇ。校長先生が泣いて喜ぶくらいだから立派な先生なのは分かるし、鈴香たちが安全に学校生活を送れるのなら、それが一番だとは思うけど……」
「でしょう? それに、私、予感がするの。五年生の一年間は、これまでよりもずっと楽しくて、まるで奇跡みたいな出来事が起きるんじゃないかなって」
「そうなるといいわね」
綾子が微笑む。
そんな彼女に大きくうなずいて見せると、鈴香は、
「そういうわけで、先ずは景気づけに、おかわり!」
と、いつの間に完食していたのか、空になった大きな皿を差し出した。
「たとえ奇跡が起きたとしても、鈴香のお腹の虫を鳴りやませるのは不可能でしょうね」
そっと綾子がつぶやく。
「ん? 何か言った?」
そう鈴香が聞き返すも、彼女は、
「いいえ、何でもないわ」
と、先ほど同様にはぐらかし、そのまま逃げるようにキッチンへと急ぎ足で去って行った。
やがて、キッチンからホットケーキの甘い香りが漂ってくる。
幸せな気持ちでおかわりを待つ鈴香は、その心の中で、「今年こそ、和輝に、私のことを好きって言わせてみせるんだから」と、それこそ奇跡とも呼べる誓いを立てるのだった。




