最終章 『「ムルクーラーミ」は、キセキの言葉』④
「そういうわけで、次が俺にとって最後のプレーになってしまった。鈴香、いよいよ特訓の成果を見せる時だ。準備はいいか?」
「もちろんよ」
鈴香は余裕の笑みとともに返事をした。
現在、既に和輝は額の治療を終えているが、その間にトイレに行った選手が出てしまった。そのため、あと五分だけ待つことになっている。
じっと出番を待つ和輝と鈴香。
その横で、突然、博士が叫んだ。
「あ、そういえば!」
「な、何だ?」
「びっくりしたぁ」
大きく体を仰け反らせる二人に、声をひそめて彼は告げた。
「実は、僕たち、ムルクーラーミの意味を知ることに成功したんだ」
「本当か?」
「教えて!」
和輝と鈴香がその瞳を輝かせる。
博士は、先ほどパソコン室で知った答えについて話して聞かせた。
「……ふーん。つまり、庵神先生がムルクーラーミって唱えていたのは、日本語に直すと、奇跡って言っていたのと同じってことか」
「意味が分かってみると、何だか拍子抜けね」
先ほどまでのきらきらしていた瞳はどこへやら、二人は、「がっかり」との表情を浮かべた。
「謎なんて、答えが分かってみると案外そんなものだよ」
博士がにこりと笑って見せる。
「まぁ、何はともあれ、これで俺たちも庵神先生のように奇跡を起こせるようになったってわけだ。そして、仕上げは俺たちの仕事だ。……行くぞ」
「うん」
和輝と鈴香が立ち上がり、竹下先生が待つコートへと歩き出す。
だが、タッチラインをまたごうとする直前、二人は、申し合わせたように博士と百々のほうへとふり返り、
「博士、ありがとうな」
「百々ちゃん、ありがとう」
と声を揃えた。
これに二人も、
「どう致しまして」
「頑張ってね」
声を揃えて返事をする。
コートを駆ける二人の背中を見つめながら、そっと百々が博士にたずねた。
「それにしても、どうして“安心先生”がいるのに、和輝君は怪我をしちゃったのかしら?」
「それは、和輝が庵神先生に言ったからだよ。折角の対決に手出しは無用だ、って。だから、この試合の間だけは、庵神先生の奇跡は封印されている。怪我人も出るってわけさ」
「そうだったのね。じゃあ、今、そんなサッカーコートで、もし、奇跡が起きたらならば……」
「うん。それは、間違いなく僕たちが起こした奇跡だよ」
「それでは、勇次のファウルがあった地点から、試合を再開する。……ここだ」
竹下先生がボールを置いたのは、五年生のゴールがあるペナルティーエリアの僅かに外。ゴールから見て少し右に寄った位置だった。
キッカーの和輝を残し、選手それぞれが持ち場に散らばっていく。
すると、
「和輝。私、気づいちゃった」
そう言いながら、鈴香が彼へと歩み寄ってきた。
「おい、あとにしろ」
和輝が注意するが鈴香は聞かない。
そこに、
「何をやっている。始めるぞ」
との竹下先生の声が響いた。
「ごめんなさい、ちょっと待ってください。和輝の包帯が取れそうなんで……」
「そうか、急げよ」
とっさについた鈴香の嘘を信じた竹下先生は、口元にまで持ってきていたホイッスルを離した。
和輝の包帯を直すふりをしながら、鈴香は言った。
「ムルクーラーミの意味って、それを知っている人から直接聞いちゃうと、効果がないんじゃなかったっけ?」
「……あっ」
和輝は大きく口を開けた。
そうなのだ。ムルクーラーミは、意味を知らなければ効果がないし、知っている誰かに直接聞いても駄目。それなのに、二人は、そのムルクーラーミの意味を、博士から直接聞いてしまったのである。
「どうしよう、和輝」
鈴香が不安な顔を浮かべる。
ところが、そんな彼女に対し、実にあっけらかんと和輝は答えた。
「まぁ、何とかなるだろう。ムルクーラーミの意味については、俺たちもこれまでに調べたことがあるんだし、奇跡を起こすために特訓もしてきた。そして、何より、今も俺は、奇跡は起きると信じている」
「分かった。じゃあ、私は、奇跡が起きると信じている和輝を信じることにするよ」
「おう、そうしろ。泣いても笑っても、これが最後だ。でも、どうせだったら、笑って終わりにしよう。……行くぞ」
「うん!」
大きくうなずくと鈴香は、和輝から少し離れた位置でスタンバイした。
「お前ら、こっちは十人だが、フリーキックを蹴ったら和輝も別の奴と交代だ。十点目、取りに行くぞ。上がれ」
雄一の指示でキーパー以外の六年生全員が、攻撃のためにセンターラインを越えてくる。
……チャンスだ。
その時、竹下先生の試合再開のホイッスルが鳴り響いた。
ボール目がけて走りだす和輝。
「ムルクーラーミ!」
奇跡の言葉を叫びながら、彼は、鈴香へと託すラストパスを大きく前線へと蹴りだした。
同時に、鈴香もそれに合わせて走り出す。完璧なスタートだ。
大きく弧を描き飛んで行くボールに、前に出ていた六年生たちが慌てて戻りだす。
しかし、そんな赤いビブスたちの間を縫うように、白いビブスの十一番は瞬く間に駆け抜けて行った。
やがて、ボールが宙から落ちてくる。得意のボレーシュートを繰り出そうと、ここで鈴香は左へと僅かに進路を変えた。
すると、落下するボールの向こう側に、突然、赤いビブスが現れた。……雄一だ。
彼、鈴香よりも早く、このペナルティーエリア付近まで戻ってきていたのである。
「シュートなんか打たせるかよ」
地面すれすれのボールにスライディング、雄一がそれを弾き出そうとする。
だが、僅かに遅かった。ボールは、先に地面に当たりバウンドし、彼の頭上を飛び越えた。
そして、続けざまに彼の上を飛び越えた影がもうひとつ。それは、鈴香だった。
地面に着地した鈴香は、ワンバウンドして落ちてくるボールに目をやった。
ボールは、彼女の前方正面。これでは、ボレーシュートを打つことはできない。いや、足を出したとしてもほんの少し届かない。
「どうする?」そう自分に問いかける鈴香の脳裏に、階段から飛び降りた時の出来事が蘇った。
そう。足が駄目ならば、……頭だ。
「ムルクーラーミ!」
奇跡の言葉とともに、鈴香は、眼前にあるボール目がけて頭からジャンプした。
彼女のピンクのヘアバンドに、ボールが触れる。
次の瞬間、奇跡は起きた。
跳びつこうとするキーパーの手を抜けて、ボールがゴールネットを揺らしたのである。
――ピーーー!――
竹下先生のホイッスルが高らかに鳴る。それは、ゴールの合図。同時に、鈴香たち五年生の勝利を伝える合図でもあった。
こうして、五年生と六年生のサッカー対決は、幕を閉じたのだった。