最終章 『「ムルクーラーミ」は、キセキの言葉』②
試合開始まで残り一分。
タッチラインのすぐ横で靴紐を結び直す和輝に、鈴香がたずねた。
「ねぇ、百々ちゃんたちの姿が見えないんだけど、どこに行ったか知らない?」
確かに、現在、コートを取り囲むように多くの観客が集まり始めてはいるのだが、その中に百々と博士の姿はなかったのである。
「あいつらなら、今ごろ庵神先生を捜してるぞ」
そう和輝が答える。
「庵神先生を? ……そういえば、庵神先生もいないのね」
「あぁ、これから試合があるっていうのに、この場に担任がいないのはどう考えてもおかしい。だから、博士や百々は、それを“私を見つけだしなさい”との庵神先生からのメッセージだと受け取り、捜しているってわけだ」
「それって、ムルクーラーミの言葉の意味を知るために、庵神先生からさらなるヒントをもらおうと思って捜してるってこと?」
「そういうことだ」
「え、でも、そのことならもういいのに。ムルクーラーミの意味なんて分からなくても、奇跡は、私たちの力で起こして見せるから」
「あぁ、それは俺も言ったよ。だが、あいつらは、自分たちにしかできないことを最後までやる、って。今から試合で戦うのは俺たちだけど、俺たちのためにあいつらは、それよりも前からずっと戦い続けてくれているんだ」
「私たち、最高の友だちを持っているのね」
大きな勇気を与えられた鈴香が、その表情を引き締める。
「そうだな。博士も百々も、俺たちの大切な親友だ。二人の期待に応えるためにも俺たちは、俺たちにしかできないことをやるんだ」
「六年生に勝つこと、ね」
「そうだ。よろしく頼むぞ、鈴香」
うなずき差し出される和輝の右手を、鈴香がしっかりと握る。
そこに、
「集合!」
センターサークルから竹下先生の声が響いた。
センターラインに一直線に並ぶ五、六年生、総勢二十二人の代表選手たち。
その中にひとり女子の姿があることに気づいた勇次が和輝をからかう。
「何だよ、五年は人数合わせに女を出さないといけないぐらい人がいないのか?」
すると、にやりと笑って和輝は答えた。
「分かってないな、勇次。鈴香は人数合わせなんかじゃないぞ。俺なんかより遥かに凄い。最低十人はマークにつかないと、お前たちじゃとめられないだろうな」
「はあ? そんなことしたら、キーパーしか残らないじゃないか。バーカ、バーカ」
勇次がむきになり始める。
それを横から手を出して制すると、兄の雄一がぼそりと口を開いた。
「まぁ、いいじゃねぇか、勇次。……試してみれば」
こうして、五年生と六年生のサッカー対決は始まったのだった。
竹下先生の吹くホイッスルが鳴り響き、キックオフ。先ずは六年生のボールから試合スタートだ。
「勇次。十一番を狙っていくぞ」
雄一がボールを蹴りだし、後方の弟に預ける。
そのまま彼は、一気に五年生のゴール目がけて走りだした。
「兄ちゃん!」
それに合わせて勇次が前線にボールを入れる。
雄一は、
「おう!」
とひと声、自分の足下にボールを収めた。
そのまま流れるようなドリブルで一直線に敵陣へと切りこんでいく。
前へと出ていた和輝が慌ててあとを追うが、さすがの彼でも雄一には敵わない。
雄一は、あっという間にペナルティーエリアの中へ入った。
そして、シュート……のところなのだが、ここで、彼は、何故だか急に左へと体を向け直した。
雄一の視線の先、直線上にいるのは、十一番の鈴香。
雄一は、彼女目がけて勢いよくボールを蹴った。
「え?」
あまりに急なことに、鈴香が呆然とその場に立ち尽くす。
そこに、
「避けろ!」
和輝の叫び声が轟いた。
聞こえた指示のまま、その場にしゃがみこむ鈴香。
そんな彼女の真上を、
――ビュン!――
突風吹き抜けるかのような音を立て、ボールは通り抜けて行った。
「大丈夫か?」
しゃがんだままの姿勢で動かない鈴香に、和輝が駆け寄ってくる。
頭上から見下ろす彼女の体は、がたがたと震えていた。
「おい、まさかボールが当たったのか? 見せてみろ」
和輝が鈴香に顔を上げさせる。
しかし、彼女は無事。一切の怪我はなかった。
「よかった。でも、どうしてそんなに震えてるんだ? もしかして、雄一にびびって……」
そう口にする和輝の前で、鈴香がそっと地面から何かを拾い上げて見せる。
それは、ピンクのヘアバンドだった。
「ごめんなさい、和輝。せっかくもらったのに、もう汚れちゃった」
「何だ、そんなことか」
ほっと安どの息をつく和輝。
だが、鈴香は、
「……許さない。絶対に許さないんだから!」
怒り心頭に発するといった様子でそう言い放つと、砂を払い、再びヘアバンドを装着した。
そんな彼女の耳に、
「おーい、和輝が言っていたのは嘘だ。十一番の女は、雑魚。マークをつけなくても問題ない。好きにさせとけ」
そう味方に伝える雄一の声が聞こえてきた。
「ほう、案外上手くだませたもんだな」
和輝が鈴香にささやきかける。
「えぇ。これで私は自由に動ける。本当はあいつの頭を蹴っ飛ばしてやりたいけど、ボールを蹴るだけで我慢することにするわ。その代わり、一点は絶対にもらう。女をなめたらどうなるか、きっちり教えてあげるんだから」
「よし、その意気だ。じゃあ、またあとでな」
早口でそう告げると、和輝は元気よく前線へと駆けだして行った。
とはいえ、五年生と六年生の力の差はやはり大きく、この後、彼らは続けざまに得点を許す展開となる。
結果、前半十分がすぎたころには、四点を奪われてしまうのだった。
「庵神先生、どこにいるんだろう?」
僅かな焦りをその瞳に浮かばせながら、博士と百々はソフトクリームが配られているテントの近くへとやってきた。
そこに、
「おや? 百々じゃないか。ソフトクリーム、食べて行かないか?」
晃が声をかけてきた。
「おじさん! 庵神先生、知りませんか?」
すぐさま博士がそうたずねる。
普段の落ち着いた彼からは想像できないその口調に緊急性を感じた晃は、いつもの“お喋り社長”を封印し、すぐに答えた。
「あぁ、庵神先生なら、さっきまでそこに……」
彼が指さすその場所には、片手にソフトクリームを持った庵神先生が、間違いなく立っていた。
「先生!」
博士と百々が駆け寄る。
すると、庵神先生は、
「待っていましたよ。待っている間に四つも食べちゃいました。これで、五つ目です」
と、右手のソフトクリームをひけらかして見せた。
「そんなことどうでもいいですから、ヒントください」
百々が急き立てる。
「おやおや、月見里さんはいけませんね。慌てすぎです。奇跡を起こすには、いつも心を穏やかにしていないと。……まぁ、とはいえ、時間もないことですし、本題に入りましょうか。いいですか? 大事なことですのでよく聞いてくださいね」
そう前置きすると庵神先生は、ぺろりとソフトクリームをなめてから続けた。
「このソフトクリームですが、外国でソフトクリームと言っても通じません。何故だか分かりますか?」
「あの、ソフトクリームじゃなくて、ヒントを……」
そう言う百々を途中でとめ、博士は答えた。
「ソフトクリームの言葉が海外で通じないのは、それが和製英語だからです」
「よろしい。ソフトクリームは、本当は英語で、ソフトサーブアイスクリームと言います。ですが、長い名前なので面倒だったのでしょうね、日本ではそれをソフトクリームと呼ぶことにしました。つまり、ソフトクリームは、日本人が作った造語だということです。ちなみに、ムルクーラーミも私が作った造語。近いものが英語にあるのですが、それよりも古いラテン語から取っています。ですが、私としては、やっぱり日本語が一番好きですね。……ヒントは、以上です」
にこりと笑って見せる庵神先生。
すると、博士は、
「ありがとうございました」
と頭を下げ、それから百々に言った。
「行こう」
「え? 行くってどこに?」
そう問う彼女に返事をするよりも先に駆けだそうとする博士。
それを庵神先生が呼びとめた。
「あ、博士君。どこに行くのかは知りませんが、ついでに、職員室にこれを返しておいてくれませんか? 用事がすんでからで結構ですから」
ソフトクリームを持っていないほうの手、彼の左手には、パソコン室の鍵が握られていた。




