第四章 『決戦の前に』②
試合を翌日に控えた日曜日の午後。百々の家を博士が訪問していた。
庵神先生から渡されたヒントを解読しようと、百々が彼を呼んだのである。
百々の父親は、ソフトクリーム会社の社長だ。そのため、百々の家は「豪邸」との表現がぴったりなほど大きい。正門を通ってから玄関までだけでも、石畳が軽く三十メートルは続いている。
何度訪れてみても慣れないその広さに戸惑いを覚えながら、博士は石畳の上を玄関へと歩いた。
すると、
「博士君、いらっしゃーい」
いつものように大きく手をふって百々が出迎えてくれる。
「こんにちは」
挨拶をしながら博士は、心の中で大きく息をついた。
「どうぞ。自分のお家だと思って、遠慮なく上がって」
心から嬉しそうにそう言うと、百々は屋敷の中へと彼を招いた。
「お邪魔します」
少しの緊張を押し隠し、博士が玄間の先へと足を踏み入れる。
「私のお部屋に行きましょう」
そんな百々の提案で二人は、玄関から続く広く長い廊下を進んだ。
そこに、
「おや? 博士君じゃないか」
そう声をかけてくる人物が。百々の父親、晃だった。
「こんにちは。お邪魔しています」
博士が立ちどまり、挨拶をする。
すると、晃は、
「いつも百々の相手をしてくれて大変助かっているよ。ゆっくりしていきなさい」
と気さくに笑いかけたあと、社員から“お喋り社長”とあだ名されているとおり、続けて話し始めた。
「いやぁ、それにしても、我が家での百々は、何かにつけて君のことばかりだよ。今日などは朝早くから、博士君は何色が好きかしら、と、部屋中に洋服を並べて、着替えを繰り返していたからな。その上、いつもは家政婦に任せきりで掃除など滅多にしないくせに、今朝は珍しく自分から進んで掃除機を……」
「パァ~パアァ~~~」
まるでサイレンのような声を響かせて娘が父を呼ぶ。怒りを帯びたその目はぎらりと光り、まさしく、「余計なことは言うな」と警告しているようであった。
「……ま、まぁ、私が伝えたかったのは、百々は、君がくるのを楽しみにしていたということだ。では、仕事があるので、これで失礼するよ」
娘の鋭い視線を気にしつつ、先ほどまでとは打って変わった早口でそう告げると、晃はそそくさと玄関へと向かって歩きだした。
少し肩を落として去りゆく晃。
その背中を百々が呼びとめる。
「パパ」
「な、何かな」
恐るおそるふり返る晃に、にこりと笑って百々は言った。
「お仕事頑張ってね、パパ。……大好きよ」
どうやら、晃が最後に博士に伝えた言葉は“合格”であったらしい。
「あぁ、私も大好きだよ。できるだけ早く帰るからね」
娘の機嫌が回復したことに安心した様子で微笑むと、晃は、すぐに仕事用の厳しい表情に戻り、颯爽と玄関へと去って行った。
「百々ちゃんのお父さん、大変だね。日曜日も仕事だなんて」
博士が百々の父親のことを気遣う。
「確かに、パパがお休みしてるところ、私、見たことがないかも。あ、でも、明日は学校に遊びにくるって言ってたよ」
「学校に?」
「うん。鈴香ちゃんたちのサッカーの試合を見にくるんだって。パパの話だと、色んな人が今回のサッカー対決のことを知っていて、見にくる人の数は二百人を超えるだろうって」
「そんなに? 何だか、ちょっとした運動会みたいだね」
「そうね。だから、パパも張り切っちゃって」
「え? どうして、百々ちゃんのお父さんが張り切るの?」
さすがの博士でも晃の意図は読めなかったのか、そうたずねる。
百々は答えた。
「つい昨日のことなんだけど、新しいソフトクリームのメニューが完成したの。それで、その試作品を、サッカーを見にきた人たちに食べてもらうんだって」
「なるほど。遊びにくるとはいえ、ちゃんと仕事でもあるわけか」
感心している博士に百々は言った。
「そうよ。私のパパって、抜け目がないの。まぁ、そういうところが、私がパパを大好きな理由でもあるんだけど。……あ、それとね、今回のソフトクリーム、実は、私も開発に協力しているの」
「へぇ、それは凄いね。どんな味なの?」
「えっと、それは……、今は秘密よ。だから、博士君も明日ぜひ食べてみてね」
「分かった。じゃあ、それまでのお楽しみにしておくよ」
「さて、明日のサッカーで五年生が勝てるように、私たちも頑張らないと。急ぎましょう」
「そうだね、急ごう」
二人は、百々の部屋へと向かって再び廊下を歩きだした。
一方、そのころ、和輝と鈴香は……。
「行くぞ、鈴香!」
「は、はひ~」
「それ、走れ!」
和輝が勢いよくサッカーボールを蹴る。
「はひ~」
そう返事をすると鈴香は、高く空中に上がったボールを追いかけ始めた。
ところが、右にふらふら左にふらふら、懸命に走っているつもりの彼女だが、今は三輪車に乗る幼稚園児よりも遅い。
結局、ボールは鈴香の遥か前方に落ちてしまった。
「まったく、何をやってるんだよ」
呆れた様子で和輝が腕を組む。
しかし、もはや言い返すだけの体力も残ってはいない鈴香は、
「……す、少し、少しでいいから、……休ませて」
息も絶え絶えでそう言うと、その場に大の字で仰向けに倒れた。
「あーあ、情けねぇな。……ま、仕方ないか。ちょっと休憩だ」
軽やかな足取りで和輝がボールを取りに走って行く。
その後ろ姿を眺めながら鈴香は、「明日の試合が終わったら、もう二度と和輝とサッカーはしない」と心に誓うのだった。
ここは、学校の裏山。小川からほど近い場所にある公園だ。鉄棒やブランコといった遊具は一切ないが、代わりに、ボールを蹴ることができるだけの十分な広さと数脚のベンチが備わっている。今回のような特訓をするためには持ってこいの場所だということだ。
とはいえ、この二人、最初からここを特訓場所として選んでいたというわけではない。こちらにくるよりも前に、一度学校に立ち寄っていたのである。
しかし、学校では既に六年生が練習していた。和輝に勝負を持ちかけた雄一と勇次はもちろんのこと、明日の対決に出場する十一人全員が、グラウンド狭しとサッカーボールを追いかけていたのである。
「あいつら、やっぱり選手全員を男子で固めてやがったな」
外壁とその上に建つフェンスの隙間から密かに偵察し、そっと和輝がつぶやく。
「ねぇ、和輝。もし、私があの中でボールを持ったとしたら、どうなるかしら?」
明日、実際にそれをやらねばならない鈴香がそうたずねると、彼は笑って答えた。
「もちろん、全力で奪いにくるだろうな。十一頭のライオンがいる檻に、一羽のウサギを放りこんだらどうなるか。それと同じだ」
「なるほど、凄く分かりやすかったわ。あの、悪いけど私、お腹痛くなってきたような気がするから、お家に帰ることにするね。そういうわけで、明日の試合は、誰か別の人に頼むということで……」
完全に怖気づいた鈴香がその場を去ろうとする。
だが、そんな彼女の肩を和輝はつかんだ。
「まぁ、待てよ。確かに、“鈴香ウサギ”だけではあいつらには絶対に敵わない。だけど、俺たちは十一羽いるんだ。きっと何とかなる」
「本当に?」
「あぁ、何とかならなくても、俺が必ず何とかする。だから、俺を信じろ」
真っ直ぐにこちらを見つめてくる和輝。
その瞳に頼れるものを感じた鈴香は、
「うん、信じる」
と答えた。
すると、そこに、
――ガシャン!――
二人の耳元で凄まじい音が鳴り響いた。雄一の蹴り放ったボールが、フェンスに激突したのである。
「きゃ!」
短い悲鳴を上げて、鈴香がその場にしゃがみこむ。
思わず和輝も、
「うひゃあ、怖えぇ……」
とその場で肩をすくめた。
そんな彼を見上げて、白い目をした鈴香が不満そうに言う。
「ちょっと、和輝まで怖がってどうするのよ? 私、あまり信じられなくなってきたんだけど……」
「誰が怖くないなんて言ったよ。勇次だったらまだしも、雄一は俺だって怖いぞ。あいつのキック力は、半端じゃないからな」
「へぇ、和輝にも怖いものってあるんだ」
「当たり前だろ、俺だって人間なんだから。ただ、勝てない相手だからこそ、どうやって勝とうかと考える楽しみもあるし、勝った時の喜びもある。俺は、それが好きだ」
「前向きなのね、和輝って」
鈴香が「見直した」との顔をする。
しかし、彼は首をふって答えた。
「いや、そうじゃない。多分、俺は負けず嫌いなだけだ。そうじゃなかったら、鈴香を試合に出そうとか考えなかったし、自分の力だけでどうにかしようとしていただろうからな」
「ふーん。だけど、そのお陰で助かっちゃった。今の和輝、私の力が必要なんでしょう?」
そう問う鈴香に、和輝はきっぱりと告げた。
「あぁ、もちろんだ。明日のサッカー対決は、鈴香がいなかったら絶対に勝てない」
「……分かった。私、もう逃げようなんてしないよ。その代わり、きちんと最後まで特訓につき合ってよね」
「最初からそのつもりだ。……とはいえ、グラウンドはあいつらに取られてしまったから、場所を変えないといけないな。仕方ない、行くぞ」
「行くって、どこに?」
「裏山の公園だ。あそこならボールを蹴っても迷惑がかからないからな。走るぞ」
「う、うん、……って、あ、ちょっと待ってよ」
先を行く和輝の背中を慌てて追いかける鈴香。この時の彼女は、やる気に充ち溢れていた。まさか、僅か一時間後には、ふらふらになって地面に倒れることになる自分の姿など、今は想像すらせずに……。




