文字通りの臭い仲
注意:下品なネタを含みますので、特に食事中の方は気を付けてください。
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(いいニュースと悪いニュースがある。どっちを聞きたい?)
ふと、そんなセリフが頭に浮かんだ。ハリウッド映画なんかでありそうなセリフだ。苦笑しつつ「いいニュースだけ聞きたいもんだな」となどと言って話の続きを聞く主人公。実際にそのようなシーンのある映画を見た記憶はないが、なぜか容易に脳内再生ができる。
「ん?どうかした?」
あさっての方向を向きながら謎の脳内再生をして現実逃避をしていた俺に、かわいらしい声が話しかけてくる。
小泉さん。
同じバイトの女の子。
今日の講義を終えて、バイト先のコンビニに向かう途中にたまたま会い、今一緒に電車に乗っている。目的地まであと2駅。周りに知り合いはおらず、二人っきりでお話できる。
いいニュース: バイト先まで小泉さんと二人きり。
「なんでもないよ」
脂汗を浮かべながら、精いっぱいの笑顔を作って返事をする。
「ちょっと今日の講義の内容を考えていただけ」
適当な言い訳をして会話を終わらせ、再度押し寄せた波に対処するため、尻の筋肉に意識を集中させる。じっと前を見て、深く呼吸をする。不意に来たひときわ大きな波に、体がピクリと震える。
悪いニュース: ものすごくウンコがしたい
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どうしてこんなことになった。
意中の女の子とバイト先まで二人きりでお話しできる。非モテ系男子大学生の俺としては願ってもいない機会だ。なぜこのタイミングで5日ぶりのお通じが訪れた。
ずぼらな独り暮らしにより、1週間21食中20食をカップラーメンで済ませている俺の腹は慢性の便秘症だ。だが、よりによって最悪のタイミングで眠れる火山が目覚めた。今にも破局噴火を起こしそうだ。今ここで噴火を許してしまえば、俺の恋は確実に終わりを迎える。そして残るのは甘酸っぱい桃色の思い出ではなく、名状しがたいこげ茶色の思い出だ。傷心の俺はそのまま引きこもりになって退学、もちろん就職などできずニート一直線の未来まで見える。なんとしてもこの事態に穏便に対処しなければならない。
現在、俺の頭の中には3つのプランが浮かんでいる。
プラン1: 列車内にあるトイレで済ます。
プラン2: 駅にあるトイレで済ます。
プラン3: バイト先のコンビニのトイレで済ます。
プラン1。この列車にはトイレがついている。しかも今乗っているこの車両にだ。ならばそこで済ませば終わりじゃないかと思うが、そうは問屋が卸さない。小泉さんがいるから「うんこに行ってきまーす、HAHAHA」などとは恥ずかしくて言えない……わけではない。その程度のことで俺の見方を変えるほど、俺のあこがれの人の心は狭くない。多分。実際、数分前にプラン1を実行するべく、トイレに行く宣言をして個室に入ったのだ。しかしそこには悲劇が広がっていた。
悲劇はこの車両にある便器が和式であることから始まった。洋式便器とは違い、和式便器は発射口と的が離れている。その状態で構えを取り、ローカル線特有の激しい揺れが発生するとどうなるか?……場外ホームランだ。
この路線には右側に大きく曲がるカーブがある。毎回通過する際に「電車揺れますので、ご注意ください」とアナウンスがかかるカーブだ。恐らく、あのタイミングで発射された拡散波動砲が大きく的をはずし、ちょうど左足が置かれる位置に着弾した。
個室に入った俺は絶望した。これからバイトに行くというのに、それ以前に小泉さんがすぐ傍にいるというのに、こんなものを踏み抜くわけにはいかない。ついでだがトイレットペーパーもなかった。つまりプラン1を実行するためにはペーパー無しで波動砲の残骸を排除しなくてはならない。ペーパーがあったとしても嫌だ。プラン1は却下となった。
続いてプラン2。まず途中の駅で降りて次の電車でというのは、バイト開始までの残り時間を考えると無理だ。遅刻すればあの小うるさい副店長、通称「ざぁますババァ」にみっちりねっとりと説教を食らうに違いない。目的地が同じだというのに途中下車したら、小泉さんにも不審がられるだろう。自分と一緒にバイト先に行くのが嫌だったのかとでも思われるかもしれない。却下だ。
ならば目的地の駅で降りて、ということになるがこれには大きな問題がある。俺はその駅のトイレの場所を知らない。
というのも、駅からバイト先まで歩いて2分程度であるため、そもそも駅のトイレを利用する機会がなかったのだ。おまけに小さな駅なので、下手をすれば特定の降り口側でないとトイレが無いなんて可能性もある。そう考えるとプラン2は難しい。
最後のプラン3は、ほかの利用者と被りさえしなければ一番の有力案だ。問題なのは、トイレが男女合わせて一つしかないことと、ちょうどシフトに入っているだろうアホの田中に、「便所男爵2世」なんてあだ名をつけられる可能性があることか。
ちなみに「便所男爵」とは従業員の間で、あるお客に付けられているあだ名である。うちのコンビニでは1日に2回の便所掃除を店長から義務付けられている。ちょうどその掃除時間直前くらいに来店するお客が、しょっちゅう長時間便所を占領するのである。そのお客の見かけは太り気味な体型に丸眼鏡という典型的なオタクなお方だが、態度は紳士的で声も渋い。来店時は毎回雑誌やコーヒーを購入してくれるし、クレームもない優良客である。そのギャップが従業員の間で受けて「便所男爵」なるあだ名で呼ばれることとなった。
ちなみに小泉さんは、このような失礼なあだ名呼びには参加していない。そんなところもいい。
ケツ論。目的地の駅で降りて周囲を観察してプラン2が実行可能か判断する、不可能であるならばプラン3に移行する。
やるべきことの決まった俺は、尻筋の制御に集中するのだった。小泉さんがすぐ隣にいるというのに、会話ではなく己の尻に集中する羽目になるとは……。ちらりと彼女を横目で見ると、神妙な顔をしてじっと前を見ていた。いつもの微笑みを浮かべた顔ではない。俺の反応が悪いから不愉快にさせてしまったのだろうか?
小泉さんはいわゆる絶世の美人というわけではない。10人の男に聞いたら5~6人くらいが「まぁ、かわいいんじゃない?」という位の容姿だ。それでも俺は彼女の顔を見るのが好きだ。なぜなら小泉さんは、いつどんな時でもやさしく微笑んでくれるからだ。コンビニのお客にも、従業員にも、俺にも平等に笑いかけてくれる。彼女といると沈んでいた心も安らかになれる。彼女の微笑んだ顔が見たくて、目で追い、ことあるごとに話しかけていたら気付いたころには夢中になっていた。
少し波が収まった。依然として予断を許さない状況だが、多少の会話くらいならできそうだ。小泉さんに微笑んでもらえれば、消耗しきった俺の尻筋ももう一頑張りできるかもしれない。
「そういえば最近はすごく熱いねぇ。室内でも熱中症になることあるみたいだから、仕事中も気を付けないとね」
なんとかひねり出した、何気ない話題で話しかけてみる。
聞こえなかったのか、小泉さんは前を向いたまま反応してくれない。・・・怒らせてしまったか?どうしようもう一度言おうかな、と思ったタイミングで反応があった。彼女は一瞬ビクっとしたかと思うと、こちらを向き少しひきつった笑顔で応えた。
「えっ、あっ、うん……そうだね。気を付けないとね。……そうだね。ごめんちょっとぼーっとしてて……、あはは……。」
いつもの笑顔じゃない。やっぱり怒らせてしまったのだろうか。もういっそのこと、尻のボルケーノに耐えていることをはっきり言うべきだろうか。しかし再び押し寄せた大波が、俺にそれ以上の思考を許さなかった。目的の駅に到着するまで気の利いた会話をすることもできず、ただひたすらに噴火を抑える作業に集中することとなってしまった。
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「まもなく〇〇~、〇〇~、左側のドア、開きやす。ホームとの間少し離れておりやすので、気を付けてお降りください。」
ところどころ聞き取りづらいいつものアナウンスが流れ、目的の駅についた。
プラン2を実行する。降りたホームを見回すがトイレを示す看板は見えない。少なくとも降りた場所から改札の間にはない。改札を通り左右を見渡す。……見当たらない。ダメだ、すぐに見つからないのならもうバイト先に向かったほうが速い。なぜか小泉さんもキョロキョロしているが、気にしている暇はない。尻に力をこめつつ、早歩きでコンビニへ向かう。普段歩くスピードよりはるかに速く進んでいるが、小泉さんも並んで歩いてくる。
店の扉を通ると、来店時のチャイムがなった。
「らっしゃぁせ~~……おはようございあーす。」
客ではないと気付いた田中が挨拶をしてくる。24時間開いている店なため、何時であろうとも従業員同士の挨拶は「おはようございます」と決められている。だが今はそんなことはどうでもいい。まっすぐにトイレへと向かう。
この店では従業員が出席した際、まずはトイレを巡回し、ゴミなどが落ちていないかを確認することを義務付けられている。面倒だが、今日に限っては好都合だ。素早くことを済ませれば、田中のアホから「便所男爵2世」と呼ばれることもないだろう。
念願のトイレ前まで移動し、ドアノブの上に青い背景の「開」という文字を確認する。勝った!第三部完! とばかりにドアノブに手をかける。その手にふわりと柔らかい手が重なった。
その手の主と目が合い、見つめあう。トキメキは無い。
「小泉さん……」
「……」
お互いにすべてを理解する。ドアノブからは手を放さない。すでに二人とも尻を突き出し、体が「く」の字になっている。二人合わせてひし形だ。
「山口君……お願い……」
すでに涙目の小泉さんの懇願。普段の俺なら光にも勝るスピードでOKするだろう。
しかしここでOKしてしまえば、もはや破局噴火を防ぐすべはない。アホの田中とは大学・学部・学科・バイト先に至るまで全て同じだ。俺の失態はとんでもない勢いで拡散され、俺という存在は駆逐されるだろう。田中に悪気はない。ただアホなだけだ。
「ご、ごめん……俺も……」
「……うっ……う」
「らっしゃぁせ~~」
田中の声が妙に遠く聞こえる。尻筋に意識を集中しすぎて、周りの状況が見えなくなってきた。
どうすればいい?
プランA: 小泉さんに譲る
プランB: 強引に俺が入る
プランAの場合、大学・バイト先から俺の居場所はなくなる。もう退学して実家に帰るしかない。ニートへのシャイニングロードが見える。小泉さんは俺に微笑んでくれるかもしれないが、肝心の将来がニートでは・・。
プランBの場合、小泉さんがすべてを失う。それだけじゃない。小泉さんからすべてを奪った俺もただでは済まない。やはり大学・バイト先から俺の居場所はなくなるだろう。
ダメだ詰んでる。どうしようもない。どちらにせよ俺の学生生活は今日で終わりだ・・・。母ちゃんすまん・・・。
絶望に染まり、全てを諦め、尻筋の力を緩めようとしたとき、背後から声をかけられた。渋い男の声だ。
「すまない、お二人さん。少し通してくれないかな」
初代便所男爵様だった。
彼はドアノブに手をかけながら見つめあっている二人をどかすと、スムーズに個室に滑り込んだ。ドアノブの上に赤い「使用中」の文字が現れた。後に残されたのは、体を「く」の字に曲げたままたたずむ男と女だけであった。
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「……ねぇ、田中さんはどうする?呼ぶ?私としてはコンビニ関係者を呼ぶのちょっと怖いなぁ」
小泉さん……、もう小泉さんじゃないのか。
さやかから田中の招待をためらう意見が出る。正直俺も同意見だ。あの一件を広められるのは困る。今回の招待客には、あの一件を知る者はいない。あいつには結婚することは伝えてあるけど、身内だけで済ますってことにしておこうかと考えている。ちょっと悪い気もするけどな。
「でもあれからもう7年か。田中も社会に出て空気読むようになってるかもなぁ」
今は披露宴に招待する人の選別を行っている。親族、現在の職場の上司同僚までは確定として、友人枠をどこまでにするかで迷っている。田中は大学時代の親友でさやかとも親交があるが・・・付き合うきっかけになった一件を知っているだけに呼びづらい。
あのコンビニを阿鼻叫喚の地獄に追い込んだ事件のしばらく後、俺とさやかは付き合うことになった。雨降って地固まるというか、噴火したマグマが固まったようなものだ。お互い顔を見るだけで大失態を思い出すので、当初は相当ぎくしゃくしていたが、なんとしても彼女の微笑みをもう一度見たかった俺は頑張った。何せ俺にもう失うものは何もなかった。完全に開き直った俺の思いは彼女に届いたのだ。後で聞いた話だが、あの事件の前から俺のことは少し気に入ってくれていたらしい。きっかけこそ最悪も最悪だったが、終わり良ければ総て良しだ。
友人リストとにらめっこしていると、呼び鈴が鳴った。宅急便だった。
「誰から……?あ、田中さんからだ」
宅急便はアホの田中からだった。中には手紙と、厳重に包まれた箱が入っていた。まずは手紙を読んでみる。
「アホの山口へ
結婚おめでとう(笑)。お前らくさい仲だから、これやるわ(笑)
PS 披露宴とかやるとしても俺はでないから安心してくれ(笑)お幸せに(笑)。
」
箱の中にはドリアンが入っていた。田中は7年たっても田中だった。
「うわぁ、田中さんらしいね。……でもなんか気を使ってくれたみたいだね」
確かにそうだ。ドリアンはともかくとして、あいつなりに気を使ってくれた気がする。月日の流れを感じる。
「さーて、さっさと決めちゃわないとな」
まだまだ決めることは山ほどある。俺は招待者候補から田中を削除すると、再びリストとのにらめっこに戻った。