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たゆむ夏果て  作者: 阿江
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4

帰った後、流石に松谷のように自分自身を誤魔化すことは出来なかった。本城がどういうことをしているのか考えるのを敢えて避けていたが、今回知ってしまった。


 本城自身が出会い系をしているとは考えにくい。暇つぶしの為にそういうサイトを見てるとも考えにくい。


 景はのろのろと腰を上げた。汗を掻いた服を着替えて、まだ明るい空の元へ出ていった。


 外はまだ明るかったが、空を見ると少し水色に青がかかっている。


 夏の空はほんとうに沈みにくい。けれど一度暗くなれば、すぐに真っ暗になる。


 景はサンダルでペタペタと音をさせながら歩く。草の匂いが鼻に突く。市営住宅の真ん中に設置されている公園からだ。


しばらく前に行った本城の家まで歩いた。市営住宅の端にあるが、十分もかからない。


 三階の左側の部屋なので、チャイムを押した。薄い扉なので、チャイムが鳴れば外にも音がきこえる。けれど聞こえない。再度押してみる。無音。


 景はしばらく考えてから、扉を叩いた。


 覗き穴に影が映って、白いTシャツ姿の本城が顔を出した。首元が緩く、鎖骨が見えた。


「どうしたの?」


 驚く様子も見せず、平然と聞いてくる。黒々とした瞳に景は改めて近寄り難さを感じる。


「質問がある」


 景が無表情にいうと、本城は首を傾げた。


「ふうん。中入る?」


 頷いた。


 本城の家は、松谷家とは違い、変なにおいはしなかった。ただ立ち込めるような女の匂いがする。以前来たときは気づかなかった、匂い。化粧品なのか、香水なのか。


 玄関の横には全身鏡があって、そのまた横にはたくさんのコートがかけてある。


 松谷の部屋もそうだったが、よっぽど衣替えを拒否しているらしい、景は可笑しくて口を歪める。


 本城の部屋は奇妙な程、モノが多かった。ごたごたしているというイメージがわく。木彫りの像があったが、ただイワのようにごつごつしているだけで何を彫刻しようとしているのか分からない。そういうようなものが大量にある。


 景は地面に座った。本城はベッドに座って、もう一度首を傾げた。


「質問って?」


 口を開こうとする景をいったん制して、


「あんたの質問に答えるけど、おれの質問にも答えてよ」


 と無表情で言われる。


「何が聞きたいの?」


「あんたが俺に聞いてから、聞く」


 そう、と了解してから、景は本城と目を合わせる。


「松谷さんのパソコンで何してるの?」


 ふうん、本城は可笑しげに口を歪めた。


「やっぱりね」


 そして笑う。ベッドの上の木彫りの像を手に取って、何が可笑しいのかニヤニヤしている。景はその笑みを完全に理解できなかったので、無言で返事を待った。以前なら少しは本城のことを分かっていると思えていたが、今はそう思えない。


「出しゃばり」


 本城は笑いながら、景に吐き捨てた。そのまま景の髪を引っ張って、引き寄せてから、頬を両手で包んでくる。顔を逸らす。頬に視線を感じる。


「質問には答える。けど質問には領分がある。


 景さんも分かってるだろうけど、その質問松谷が聞けば答える。でもアンタは違う」


「本城君の質問にも答えるよ。それが貴方の領分を超えた質問でも」


 無表情を保つと、目前の少年は首を振った。


「答えるよ。俺も聞きたい。


 俺は出会い系サイトを回ってる」


「そのサイトを何に利用してるの?」


「答えるけど、俺も二つ聞くけど、いいの?」


「どうぞ」


「どうも。俺がしてるのはそのまま、出会いを求めてる」


 失笑して首を振る。


「正確に、答えて」


 答えを待っている時だった。突然、襖が開く音がした。驚いて身体を硬直させて、振り返ると、中学生くらいの少女がいた。長い黒髪に、優しげに垂れた目元。服はどこか知らないが制服姿だ。


 徐々に少女の目が吊り上がる。


 そのままずかずかと室内に入ってきて、適当な木彫りの彫刻を持つ。


 次の瞬間、その木彫りの彫刻が景の肩に命中した。


「出て行って」


 地を這うような低い声。ヒステリックな高まりもある。景は肩を抑えて、少女を見つめ続けた。それが余計癇に障ったのか、少女は手当たり次第にそれを投げ出した。


 意地になってもしょうがないので、身体をかばうように縮こまる。


 やっと、少女が収まったときは、襖は破れ周りに彫刻が散乱していた。


 本城は閉じていた瞼を開けて、平淡に言い放つ。


「お前が出て行けよ」


 少女の身体がピクリと震える。景が少女の顔を見ると、泣きそうに顔を歪めている。


「でも、でも、私。号! お願い、この人を出ていってもらって」


 そこにあるのは景に対する敵意ではなく、本城に対する懇願だった。


 景は身体を起こして、襖を開ける。


 突然の動作にこちらを見た二人に、正確には少女に、


「出て行っていただけますか」


 と言う。あっけにとられている少女にもう一度、


「本城君と話をしているんです。重要なことですから、出て行っていただけません。


 邪魔です。面倒です」


「なっ!」


 顔を赤くした少女が景に寄って、掌を振り上げる。その手のひらを景はつかんで勢いよく引く。体勢を崩した少女が襖の外につんのめるように出た。景は襖を閉めて、そのまま座る。


 二度と入ってこないことはわかっていた。


 疲労と、自分自身の言に対する拒否の念が湧く。


 景の目的は松谷のパソコンをどう使っているか聞くことだ。そして少女が邪魔してきた。


 いつもなら、黙って本城と少女の話し合いに任せた。


 だけど、邪魔だったから。


 少女が言われたくないだろう言葉を吐き出した。邪魔、面倒。冷たい口調。


 本城は手招きし、唐突にいう。


「出会い系は、あの女のためにしてた」


「あの人?」


「うん。母親の同僚の娘。家に帰りたくないって俺に言うから。母親は家に滅多にいないから住ましてたけど、俺も養えないし、男に援助させればって言ったら、分かったって」


 本城は苦笑する。


「なんも分かってなかったけど」


 本城はまだ小学生。身体は大きいし、その彫の深い顔は大人っぽい。でもまだ子供だ。


 しかし、もう遠い。


 景は考える。例えば、最近、小学生から化粧をするとか、もっと言えば小学生から援助交際するとか、そんなことをよくメディアで盛んに言っている。高校生くらいに見える小学生もいる。そして景の周りにも援助交際をしていると、平然と言う女子がいる。だけど話していてわかる。彼女たちはまだ子供なのだ。小学生から化粧していようが、してまいが、大して精神年齢に変わりはない。援助交際している子は楽に稼げるとか、簡単だとか、そんな程度のことしか考えていない。もっと簡潔にいうと、『お金が欲しい』くらいしか頭にない。大人な顔で、そして非難される身体で、無邪気な精神を持っている。 


 景は思い浮かべる。本城という男はその無邪気さを知りながら、それを無視する。搾取する側の男だ。


「景、質問するけど」


 顔を上げる。どういう質問が来るのか、と身構える景に、


「松谷のこと、好きなんだろ?」


 乱暴な口調で尋ねてくる。一瞬固まる景に、続けざまに問う。


「松谷のことが好きだから、松谷のことを心配してわざわざ俺んちまで来たんだろ?」


「どういう意味で?」


 髪の毛を引っ張られ、硬い床に引き倒された。景は一瞬抵抗しようとしたが、余りの力の強さに諦めた。馬乗りになられる。


「分かんないふりすんなよ。さっさと答えろ」


「そういう意味で好きじゃない」


 間髪言わずに答えて、一瞬拘束の緩んだ身体からはい出る。


「どうして?」


「何がどうしてか知らないけど、松谷さんのことをそういう意味では好きになることはないと思う」


「じゃあなんで俺の家にわざわざ来たんだ?」


「質問しに気だけど」


「それがおかしい」


 困惑する景に本城は冷たい視線を送る。


「景、アンタは俺が知る中で一番強い。アンタは物凄く強い人間だ。弱い人間のことを理解できないくらいに強い。だけど優しい」


 まるで最大の欠点であるかのように、優しいという言葉を吐き出す。


「だけど我儘に、純粋に強くいられなかった。理性の仮面をつけるしかなかった。理性の仮面をつけた強者、それがアンタだよ。そしてそういう存在は正しい行いをしようとするし、理性的にどこからどこまでが正しいか判断する。


 だけど、こういう人間は動けなくなる。そういう人間は傲慢を恐れる。生半可に強いから、理性があるから、傲慢になり理性をなくすことに脅える。よっぽどでないと、看過し、それを行う権利のあるものを待つ」


 景は唇をかむ。


 人の言で図星を着かれたと思ったのは初めてだった。


 しかしどこかで本城には言い当てられるだろう、自分を看破しているとも確信していたような気がする。


何故、自分が相原の友人たちに『止めろ』と言わなかったのか。それはその言葉を相原が言うのが『正しい』と思ったからで、自分の理性が平淡に『余計なお世話』で傲慢と言ったからだった。相原はそれで満足かもしれないと。


 弟に冷たい口をききながら、その一方で何も弟に言わないのか。弟が成長するのは、自分がする『べき』だと思ったからだ。気づくべきだと。そして教えるのは正しくないと思ったから。弟は自分でちゃんとけりをつけるべきだ。人を未熟だと決めつけ、成長させようとするのも傲慢であり、母に一歩近づくのではないかと恐れた。


 感情はいつも、言っていた。相原の友人を醜悪な点を突き、弟に時間がかかっても、離婚の原因や弟の甘さを指摘したいと。


 そして父にも言いたかった。隠さずに話して、と。けれどそれも父が自分から話す『べき』だと思った。


 べきべきべきべき。


 理性はべきと言う言葉が大好きなのかもしれない。


「でも、景さん」


 唐突に本城は景の手を握った。人差し指の第一関節を指の間ではさみ、強く抑えてくる。


「今回は本当に余計なお世話を、アンタはした。松谷の為に、それはどうして」


 景は観念して、かすれた声でつぶやく。


「松谷さんが弟と似ていたから……。


 最初もそうだった。本城君と松谷さん、その関係を見て、私と弟の関係も見直せるかと思った」


 それ以上の言葉は出なかった。景は何か言おうとしている本城を無視して、立ち上がった。


 襖を開けて、その前に座り込んでいる少女を無視して、玄関の扉を開ける。


 今まで感じなかった温度が身体を覆った。


 いつのまにか自分の棟まで来ていた。電球が瞬いている。


 階段をことさらゆっくりと歩いた。


 三階へ着いた時だった。声が聞こえた。


 薄い扉を越えて、誰かの言い争う声が。


 松谷の家だ。玄関で話しているのかと思うほどに、声がでかい。


 老女の声が。


「やめてやめてやめて!」


 甲高い、軽蔑に満ちた声が聞こえる。


「もう、お前はダメなんだよ! 何をしてもむだなんだ!


 もうあたしが死ぬまで、恥をかかせないで」


「でもっ俺は―――――」


 松谷の声はほとんど聞こえない。景は座り込んで耳を澄ます。


「おまえは十年ずっとあたしが必死で、爺婆の糞を世話して、腰を痛めて腱鞘炎になっても必死で、ベッドにそいつらを横たえている時、お前の意味分からん『怖い』いう気持ちに付き合ってた。もういい。お前があたしの稼いだ金でもの食べて遊んでるのはいい。でも何もしんといてよ。お前はやり直せる言うけど、もう無理無理。


 おまえが引きこもってた十年が証明してるわ。お前が平気であたしをくいもんにしてた気持ちが証明しとる。クズや、お前は」


「ダメや」


 松谷が何か言う。


 それに老女は哄笑する。


「頑張るんか。えっ次は頑張るいうか。頑張れん、お前は頑張れんし、すぐダメなる。


 あたしがお前に働けも言わんようになったんは、もう面倒で面倒で。諦めて、楽なったわ。だから余計なことするな。あたしが死んだあとは、あんたが何とかやり、それまで黙って部屋にいといて」 


 松谷はきっと、その小説のことをいったのだろう、景は考える。


 きっと、一生懸命に勇気を振り絞って。


 自分が小説を書いていて、それをどこかへ送りたい、とそういったのかもしれない。


 それぐらいで恥をかくことなんてない。でも老女はそう思ったのだ。自分の孫は、恥しか掻かないから、と。


 老女も景の知る限り、悪い人ではない。いい人だ。真面目で気遣いのできる。


 景は自分の膝を抑えた。立ち上がろうとして、妙なほど力が入らない身体を鼓舞した。目に力を込めて、必死に膝に力を入れた。


「ひどい、ひどいなあ」


 酷く情けない声が、喉奥から洩れた。こんな湿った声は本当に久しぶりだった。


 自分の悩みも分からなければ、本城のことも、松谷のことも、老女のことも、相原のことも、そして自分の家族のことも真っ暗で見えない。


 息苦しい。閉塞。あのカラスがつどうごみ収集場からこちら側から自分がでれる気がしない。


 老女の気持ちはわかる。景は唇を噛み締めた。


 景は昔から分かっている。自分が老女側の人間であることが。


 生きていてもそうだった。そしてもっと言うと、貧困構造を学んでも変わらなかった。


自己責任論というのがある。貧困に陥るのは自分自身の努力が足りず、そして頑張らなかったからだと。景が読んだのは、その自己責任論を否定するものだった、が景は納得できなかった。


 しかし救いであり、今こんなにも苦しい思いをしているのは、松谷の気持ちがまるで身に張り付いたようにひしひしと感じられたからだった。


 老女の言は正論だ。人を一人養い続けるのは苦しすぎることだろう。そして松谷は紛れもなく遊んでいた。


 けれど松谷。景はわかり始めていた。


 本城が言うように、景は今まで全然そちら側の人間が分からなかった。


 どうして弟はこんなに人に甘えながら、平気な顔をしているのか、嘘を付けるのか。人にばかり責任を押し付けて、ずっと被害者という特権階級にあり続けようとするのか。


 松谷。


「おっおれが、引き籠ってたのは! 婆ちゃんのせいっっ、でもあるだろっっ!」


 彼の声が聞こえた。


 弱い、景は憐憫の情を抱きながらも分かり始めていた。


 弟も松谷も、被害者の地位に固執している。


 弟は両親に離婚された哀れな子供。そして松谷は学生時代のトラウマと老女の無理解。


 でも、自分が被害者だと、そう思い続けることは、自分の心を守ることしかできない。攻撃的であれば、守備的であるよりも強くあれ、攻撃対象がいれば猶更。


「一度、ついた肩書は誰を責めても変えられないのに。自分で変えるしかないのに」


 でも責めずにはいられなかったのだ。弟も松谷も。


 責めずにはいられなかった。それくらい傷ついてしまったのだ。むしろ、景が理解できない弱さが身に着いたのは、その後だろう。傷ついて、弱くなったのだ。


 ふらふらと景も立ち上がる。景もこの無情に苛立ち、そうしてはっきり認識できるほど傷ついている。


 松谷も老女も気づいていない。


 二人は今、傷つけあっている最中だということに。


 景はそこから超越してしまった二人を想う。


 母親と、本城。二人は眺めても、視点はずっと上だ。


 景もそこに入るようになるかもしれない。これから先、その場所に足を踏み入れ、冷やかに微笑するかもしれない。でも夏の今、身体は暑い泥のなかにある。


 そのとき、景の目の前の扉が開いた。


 真っ青な顔をした松谷が放心したように立っている。景はびくりと震えるのが分かった。動けず、声もかけられず、横顔を見つめ続ける。


 電球が薄暗い階を照らし、耳に蝉の五月蠅い声が聞こえる。


 初めて、首筋に浮いた生暖かい汗を感じる。


 青白い顔をした松谷がこちらを幽鬼のように振り向く。


 あっ、と口を開けた松谷に景はどういう顔をしていいかわからなった。


「おれっ!」


 唐突に、松谷は泣き始めた。ヒステリックで大の大人が泣くには惨めすぎる様相で。


「怖い」


 松谷はまるで子供のように、怖い怖いとつぶやき始めた。心を落ち着かせるためなのか、地面に顔を近づけている。


 景はまるで部外者のような視線でその人を見つめ続けた。


「ずっと、婆ちゃんは応援してっ、してくれると思っててっ」


 ずっと。


 誰だって、限界はある。現代社会では尚更、限界は強固に存在し、線を引く。


 老女はふと、思い出したように「手に職があればねー」と言った。景はそれに微笑んで「立派に働かれてますよ」と言った。老女は喉奥で笑った。


「介護じゃ、夜勤で働かなきゃ生活が成り立たないからね」


 老女は夜に仕事を出ることが多かった。


「そんな風に思われてるなんてっ」


 松谷は子供のように、そんなことを言い続ける。


「三上さん! 三上さんっ……!」


 涙で潤んだ瞳が、景に向けられる。


 どうすればいいというのだろう。景は胸やけを起こしたように、もやもやが胸にたまっている。


 景は苦渋の表情で言う。


「松谷さん、どうしたというんです。貴方は自分で、書くと決めたなら、書けばいいんです」


「でもっ、おれ」


「じゃあ、何もしないと、そう言うんですかっ」


 怒鳴るのを必死に抑えて、わななく唇からどろどろになった非難が飛び出す。


 景は、ただ書いてほしいだけだ。自信を持ってほしいだけなのに。


 もういられなかった。汚い地面に手をついている松谷から目を背けて、景は急いで階上を目指した。


 本城からも、松谷からも逃げていた。


 景は中途半端になっていた。それは景の理解できないものと同化する、奇妙なほどの虚無感。


 景は鍵穴に鍵が入らない、それでもがちゃがちゃと動かし続けた。


「どうしたの」


 気づけば弟が帰っていたようで、中途半端に扉を開けたまま、怪訝そうに景の手元を見ている。


「何でもない」


 間髪入れず、弟は「嘘つくなよ」と言った。


「本当のこと言わないと、中入れない」


 いつもなら、首を竦めたり、嫌味の一つや二つ言えた。景は自分がどうしてこんなにしんどいのか分からないかった。一言も出ない。


「下の階の奴? ニートとなんかあった、とか……?」


 弟がふと心配そうな顔をして見せる。


「関係ないでしょ」


 景は笑う。今までずっと理解できなかった弟、ただ単純に傷ついていただけだとも想像できなかった自分。弟よりも他人を信じ、ひどい喧嘩をした。


 心配してくれるわけもない。


「なんだよ! 弟だろ、関係あるじゃん」


「……喧嘩したこと怒ってないの?」


「はあ? 今、そんなことそれこそ関係ないだろ」


「関係ない? 嫌いな人間のことなんて自分に関係ないでしょ」


「嫌い? はあ? もしかしてあんた、喧嘩のこと気にしてんのか」


 酷くあっけにとられた表情をしてから、弟は口ごもった。


「そりゃ、喧嘩の時くらい、酷いこと、いうだろ。そりゃ。


 嫌いとか、死ねとか」


「思ってないの?」


「思ってないのかは、ともかく。あんたかって悪いし、悪いけど。俺にも悪いところあったし。喧嘩のことはもういいだろ。


 それで何があったんだよ!」


 景はか細くそうだねと言った。


 自分が正義である必要はないのだ。


 一人でずっと気を張っていた。でもそんな必要はない、なかった。


 私はもっともっと、感情的に生きること――人を何のためらいもせずに信頼し愛すること――それをすればよかったのだ。


 人が弱くて、なんだというのだ。人が強くて強くて、理解できなくて、それが何だというのだ。


 弱かったら、喧嘩しても正しくなくても無責任でも、思うとおりに言えばいい。人を傷つけずに生きることなんて無理だ。自分が傷つくしかない。


 強かったら、弱さを晒せと理不尽に乞えばいい。


 さっき、前後不覚に傷ついたのは、皮が剥がれるように、今まで理性で押さえた傷ついた心が戻ってきたからだ。自分が傷ついていたことにやっと気付けた。


 景は目の前の弟に微笑みかけた。弟を愛している。だから初めて叱り始めた。


 その日、帰ってきた父に「そろそろ説明して」と言った。母のような冷たい口調で喋ることに脅えることはなかった。唇の幻影は消えていた。




 夏休み明け。手で顔を仰ぎながら廊下を歩いていて、角を曲がったとき相原の後姿が目に入った。


 余計なお世話、だろうな。景はそう思ったが、それはそれでいいと思った。


 声をかけて横に並んだ。


 図書館に行くというので、ついて行く。


「この前の、夏休みのとき、フードコートで本当に不愉快だった」


 ついてくることに怪訝そうな面持ちでいた相原にそういった。意味の分からないという顔をして、景の顔を見ている。


 でも分からないわけはない、と景は思う。馬鹿じゃないのだ。


「あの人たち、相原さんの事利用して」


「やめて!」


 言いかけた言葉を鋭い言葉で遮って、相原はこちらを見る。


「やめて、そういうのじゃないから。私が好きでやっていることだから」


 低い声だった。でも最後の部分の方は、どこか媚びるような色があった。


「うん、そっか。でも見てる方も嫌なの、それだけ」


 景はごめん、と言って無言で歩いた。相原も無言だった。


 窓を見ると、陽は高く照り輝いている。木々の葉は盛んに風で揺れている、けれどもう風には煙の匂いがまじりはじめている。




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