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「景ー、どうしよ。なんて書いた? どう書く? 皆どうするんだろ?」
「さあ」
ユーリはその返事に鼻白んだようだった。しかし、表情をすぐに消し「ちょっと、皆に聴いてくるわー」と笑った。
景は机の上の紙をなんとなく触ってみたりした。
担任の無関心な声が蘇る。
『じゃあ、今日見たビデオのことでレポート書いてくるんだぞー。このプリントにレポートの書き方載ってるからなー。これ参考にしろよ。夏休み開けに、発表してもらうから』
レポートは表紙を入れて三枚。図表なども画用紙に纏めて発表する。最後の紙の裏に参考資料を書く。手書きのみ。
テーマ『貧困構造』。
景は紙を見ながら、ビデオの内容を思い出す。
どういう構成にしよう? 何か資料を借りてきた方がいいかもしれない。
昼休みに図書室に行って、一二冊借りてこよう。
図書室は閑散としていた。暇そうに図書委員が座っているカウンターは色々な本がごっちゃに置かれている。新書棚によって、『社会』の項目を探す。微妙にテーマが違うような気もしたが、貧困についての本がいくつかあって、その中でもとっつきやすそうなものを選んだ。
パラパラと捲めくり、景は唇をなめた。
帰り道、ゴミ捨て場を通り過ぎ駐輪場の横を足早に進んでいると、ポスト辺りに本城が見えた。
「おかえり」
本城は笑って景に近づいた。
「これぐらいに帰ってくると思って、待ってた。松谷ん家来る?」
窺うような視線だ。
景は眉を寄せる。
あの時、松谷が『本城号をモデルにした小説を書きたい』と言ったとき、本城は断らなかった。ただ冷静に松谷を眺めていた。『どういう話』――――疑問というより、つぶやくという口調だった。
景は松谷の表情を注視していて、だから彼の薄い皮膚の底からじわじわと染んでいく露骨な息を感じた。
『貧しさ、テーマは貧しさ』
松谷の生気の乏しい、意志に乏しい顔に初めて羞恥や渇望、願いが映った。
本城は一つ頷いて、『分かった』と目を細めた。そして続けて条件があるとも。
「本城君は、あの条件で良かったの?」
景は階段を上りながら、前を行く少年に問いかける。背中は小学生にしては大きく、余り揺れない。
「分からない。まあでもいいよ」
振り返らず返されて、ふうんと頷く。それほど興味がなかった。
三階に着き、本城が右側の松谷と表札がかけてある方のチャイムを鳴らす。のぞき穴が陰って、すぐに松谷が出てきた。
黒いパーカーに黒いスウェットを履いている。
「おっおはよう」
「こんばんは」
景は挨拶して中に入る。鼻に何ともいえない臭いがついた。
悪い臭いともいえない、微妙な。
松谷の部屋は奥の六畳だった。部屋は乱雑に散らかっていて、ベッドのシーツは黄ばんでいる。上の掛布団はもう夏になろうというのに分厚く、毛布もあった。
仕事机のようなものの上にパソコンが一台。ベッドの上にノートパソコンが一台あった。机には飲みかけのコップが五個ほど置かれている。ふすまの奥の収納場所には色々なフィギアが鎮座していて、ウルトラマンや仮面ライダーぐらいなら景も分かった。
自分の部屋なのに、所在なさげに出入り口をうろつきまわっていた松谷は、本城が机の前の椅子に座ったことでやっとベッドに腰かけた。
「そっそれで」
「じゃあ、あんたが俺に何か質問している間、これ使うから」
交換条件は単純だった。松谷が本城に話を聞き、そして本城は松谷のパソコンを使う。そしていくつか盗聴器が欲しいと言っていた。
景は立ったまま二人を見つめた。その交換条件に景はかかわっていなかった。
じゃあなぜ、こんなところにいるのか。
景は畳に腰を下ろして、考える。
二人が仲介を頼んできたという理由もあった。松谷は本城号という個にたいする怯えがあって、本城も怯える松谷を面倒だという気持ちがある。景という、常に平然とした人間を間に置きたいというのもそれなりに分かった。
けれどそれを望んだのは自分かもしれないとも思う。
景は純粋にこの二人の人間の対比に惹かれ、もしかすると自分自身もそれによって弟との関係や、もっと根本的な問題が見つめ直せるかもしれないと思ったのだ。
例えばあの赤い唇の幻影も消せるかもしれないと。
唾液を嚥下えんげする。
学校鞄から貧困の本を取り出し読み始める。ふとはじめて、自身が今調べていることと、松谷が書こうとしていることが、関わっていることに気づいた。
「じゃっじゃあ、小学生の頃に、てっ」
質問途中、詰まる松谷に本から顔を上げて景が言葉を補足する。
「転校してきたの? ここに」
「うん。それまではもっと悪いとこにいた」
それからしばらくキーボードをカタカタ打っていたと思ったら、
「そこで、同じ年の奴は、わりと俺より状態は悪かったよ」
「同情してたの?」
手が止まった。本城の目が、冷たく景を見据える。
「いや……、俺はたぶん、奴らを嫌ってた。たいして変わらなかったけど、あの卑しさを受け付けなかった、嫌いだった。確かに」
メモを取る音がベッドから聞こえる。景は手に持った本のページを捲り、顔を上げる。
「どういうところが、卑しかったの?」
少年の表情はどこかゆらめいて見えた。少し横に向いた顔は、なんとなく静かに見えて、大人っぽい。
「認識が甘くて、現状を受け入れて、期待していた、他人に。自分ではない他人に。
俺はそれを責めるとかは思わなかったけど、自分に期待しない、現状に馴れ合ってるのは卑しいと思っていた」
「どうしようもないんじゃないの、親のせいでしょう」
景は本から得た知識で、そう尋ねる。
本城は低く笑った。
「親はたまに菓子パンと炭酸ジュースを買ってくるだけ。親の残したツマミを夕食にする。給食を一番の栄養源にする。長期休暇が来るたびに、どうして生活しようか考える。前どうしたかは覚えていない。何とかなったとしか。
それでそいつらはいいという顔をしていた。どこかのボランティア団体に食事を与えてもらえば、貪り食って。
それでも自分で何とかするという発想はなかった。他人が持ってくるのを、最大限努力して耐えるだけだった」
顔を逸らす。自分なら、彼のいう卑しい人間になったという気がした。それが普通で仕方ないと。ただ本城号という人間がそれを卑しいと思うのは、どこか正当なような気がした。
横目で覗き見ると、松谷は必至でメモを取っている。その顔は真剣で、人の人生を貪っているという自覚はなさそうだった。
本城を再度見ると口は緩く笑っていて。穏やかな顔だった。けれど瞳は何の感情も浮かべていなかった。
また次の日。
「暴力をっ、平気で振えるのはっ」
松谷はいくつか質問を重ねた後、唐突にそんな質問をした。
景はレポートに手を入れながら、耳だけで話を聞いていた。
「ん」
本城は首を鳴らしながら、質問の意味があまり分からないのか黙っている。景が補足する。
「松谷さんは本城君が平気で暴力をふるっていると思っていて、その平気で暴力を行使できる理由が何なのかって聞いてる」
質問以外の部分をつけたしたのは、その部分がどうかわからなかったからだった。本城号は飴おじさんを痛めつけている時、平然としていたが内部まではわからなかった。
「景」
ふと本城の目が景に向く。
「やさしいって言われない?」
しばらく二人で見つめあっていたが、首を振る。
「言われたことないな」
「あはは」
本城は年相応に大声で笑った。
「だろうね」
景はレポートの上の手は動かし続けた。
「松谷さん。あまり慣れないですか? 喋るの」
本城が帰った後に、景は松谷に質問した。
「えっあっ」
無言で待っていると、少し落ち着こうと考えたのか何度か小刻みに息をして、
「うん」
と頷いた。
うん、たった一言だったが、今までの「うんっ」というだけで喋り慣れてないな、緊張しているなと分かる感じからは脱していて、この一言であればまともな人だと思いそうだ。
「本城君は苦手ですか?」
「……しっ嫉妬してる、だろうね」
口調が矯正されているように、不自然だったが、景は無視して言葉をつづける。胸が高鳴っていた。
「どういうところに?」
松谷はのろのろとベッドに腰掛け直して、手をせわしなく組み合わせたり、さすったりしている。
緊張しているのだ、景はそれに気づいた。そして本人も自分が緊張していることが分かっている。
人と話すのに緊張する人間のことは、景にはよく分からなかったが、根気強くしっかり聴こうと思った。
「そりゃ、分からない、けど」
松谷と目は合わない。
「それは、おれは、本城君が、しっかり生きてるって、感じていて、そうだからだなと、思う」
「本城君は、自分の人生を生きてると」
「そっそう! おれは、引きこもりだし。十年くらい外出てない、し、きっとダメな人間なのだ、だろう、ね」
景は俯いて笑う。
「松谷さんは、素直ですね」
「えっ」
きょとんとした、顔。
景はその瞬間、何かじわじわと胸に広がる感覚に目を細めた。それは松谷と言う人間に対する理解、またはイメージの確変だった。
この人は、すごく素直だ。
景はいままで引きこもりを松谷しか見たことはなかったが、イメージしていた――価値観に凝り固まり、他者に脅えるが故に攻撃し、虚勢を張る――という人間では全然なかった。
本城という少年――誰もが攻撃したくなり、誰にでも非難できる対象――を素直に嫉妬しているといえる素直さ。
「松谷さん本城君のことちゃんと見てるんですね」
「えっあ」
驚いた顔に言葉をつなぐ。
「本城君、実際平気で暴力振るってると思います、私は。
上手く言えないんですけど、私も本城君側の人間で、だからそういう部分を少し、ほんの少し理解でます。だけど松谷さんは違います。違う側の人間で。でも松谷さんは、理解がある。向こうの考えを否定するにしても、ちゃんと正当に受け取ってる」
景は自分自身が感情的になっていることに驚いて、しかも言っていることが自分らしくなく驚いた。
「もう帰ります。それじゃあ、失礼します」
ポカンとしている表情の松谷に早口でそう言ったのは、なんだか胸がいっぱいになったからだった。
ガタンと松谷家の扉を閉めて、ばくばくと脈打つ心臓をしばらく抑えた。
小さなきっかけだったが、景にとってそれは大きな変革をもたらした。
きっと、私以外にはわからないというような妙な気持ちが襲う。
赤い唇が現れたが、すぐに松谷の内気そうな瞳に移る。髪をくしゃくしゃと撫でる。
か細く灯った火の存在が、好意だということを景はおぼろげに感じていた。
トントンと大根を切って。人参を冷蔵庫から取り出す。
「おい……おい!」
コンロに火をかけて、だしの元と味噌を出す。
「なあって!」
「……料理作っている時は話しかけないで」
「誤魔化すなよ!」
景は弟を睨んだ。
初めて姉の身・のある敵意に触れて、一歩後退ったが、そのまま口で笑みの形を作る。
「お前が、下の階の男の家に入り浸ってんの、見たんだけど。それ言ったら、いきなり機嫌悪くなるし」
景は火を止めた。
帰ってきた直後、「知ってるんだぜ」の言葉と共に、松谷のことを持ち出されたのだ。その口調があまりにも嫌らしくて、無視した。
「それがどうしたの」
弟はますます笑みを強めた。
「何シテんの、男んちで」
「……」
「父さんに、話すよ。お姉ちゃんが、男の家で毎日何かしてますって?」
「下の家は、男だけが住んでるわけじゃない。女の人も住んでる」
「それって、あの婆だろ? あんたが行ってる時間、いないじゃん」
「そうだよ。でも男が一人だけの家じゃない。私が言ってることわかる?
……下種げすな想像するな」
脅すと屈するだろうと想像した弟は、顔を強張らせただけで口元は笑みの形のままだった。
「言うから、俺」
にやにやと。
「でも――――姉ちゃんが、そんなとこで変なことになると思わなかったわ」
「いっつも澄まして、冷静で、誰のことも相手にしてないし。
そんなあんたが、市営住宅の変な男に引っかかって。
――――そういうとこ、母さんに似たのかも」
拳を強く握る。唇をかむ。目を瞑る。薄目を開けると味噌が見えて、余りの現実感に眩暈がした。
我慢しろ、言い聞かせる。
このまま感情のまま言うことを決して自分には許さない。そうしてきた、これからもそうする。
消えていた赤い唇がくっきりと蘇る。
くっきりと赤い唇は笑う。
『貴女はわたしと同じ穴の貉むじなよ。貴女なら一緒にきてもいいわよ。あの二人はいやだけど』
例えば外見だけの男と、ほぼ(・・)完璧な女が結婚する理由として何が挙げられるだろうか。そしてそんな二人が、どうやって夫婦生活を成り立たせるのだろうか。
景にとって、それは最大の難問であったが、一つの解答は辛うじて分かっていた。
結婚する理由、女にとってその男が自分の奴隷だったから。夫婦生活は奴隷と主人として成り立たせる。
景の知る限り、母は父の外見に魅力を感じて、結婚したわけではないようだった。ダメなところにひかれたという訳でもないようだった。
それ以前に、母が父に対して好意を示したのを見たことは一度もなかった。
景からすると、父は母の精神的サンドバックだった。
母は仕事を完璧にしていて、そしてその反動に家庭では暴君だった。
父を奴隷のように扱い、正確無比な表現で父を傷つける。辛辣な表現、人の心を抉る言葉にかけては彼女にかなうものはいないようにすら思えた。それは彼女が人の気持ちに鋭すぎ、人の汚さ、弱さを熟知しているからだった。そしてそうにもかかわらず、ただただ人に
対して無関心だった。
弟はそれに気付かなかった。景はそれを半ば白けて見ながら、どこかホッとしていた。
純粋に母の言を真実だと思い込み、実際真実だったが、父を非難し母に心酔する。
父は確かに碌な収入もなく、パチンコ好きだった。けれどちゃんと小遣いの範囲でやっていることで、それを馬鹿にする母を、正論者だと思い、母同様、父を攻撃する弟は耐えがたかった。
けれど、ホッとしていた。
弟が、母の本来の共感者でないことに。
そして母が自分のことをかわいがり、『二人にナイショよ』と言いながら、どこかお洒落な喫茶店に連れていかれたりするときもホッとしていた。
二人が分かれると聞いたとき、すぐに父と弟、母と自分という組み合わせが浮かんだ。
何故別れるのかは、分かっていた。
いや想像がついた。
母は実質的な離婚の原因など絶対に作らない。そしてあいまいな理由での離婚も許さない。
父のせいなのだ。父のせいではないのだが、理由は父にあるのだろう。
景は、喚く弟の隣で冷静にそんなことを考えていて、ふと顔を上げたとき母が真っ赤な唇で笑っているのが見えた。
『同じ。私の可愛い娘は、私と同じ。こんな二人をどう思う』
一言も発さなかったが、景にははっきりと声なき声が聞こえた。
母は意味ありげに、その切れ長の瞳を青白い顔で俯く父に向けた。父の手は組まれていて、小刻みに震えていた。
横では弟がまるでヒステリーを起こしたように、怒鳴っている。
『耐え難いでしょう?』
――ああ、耐え難い。
まるで当たり前のように、そんな言葉が頭に浮かんだ。
数日後、母は景に『一緒に住まない?』と言った。弟のことを聞くと、母は首を振った。
『無理よ。あれとは一緒に暮らせないわ』
景は背筋が凍った。一緒に何年も住み、慕われているという自覚もありながら、平気で平然と人を切り捨てる。
恐ろしい。景はしかし、その感情は一時も持たなかった。なぜなら、それはそう思いたかっただけで、あるいはただの感想だったから。
景は少しの悲しみと恐ろしさを感じただけで、ああ仕方ない、そう思ってしまったのだ。
そしてそんな自分に恐怖と、幻滅を感じた。
今まで蓄積されていた、自分に対しての失望がすべて積み重なったような重みが、諦観と共に肩に乗り、ただうつろな目が深化した。
私はそういう人間なのだ。
母親と同種の。
でも――――景は押さえつけた。何かわからないものを押さえつけて、今は一時だけ、とただ感情を全て理性の下に置いた。そして一つの結論を下した。これから自身はしばらく理性で生きよう、しばらく、と考えた。暗い未来を感じながら、鋭く母を睨みつけて、『敦と一緒にいる』と言った。
「お母さんとっ……一緒にしないで」
景はなんとかそれだけを言った。それから、料理作りを再開する。もう弟の言葉など耳に入らなかった。余裕もなかった。
ひどい、と思った。
次の朝、頭が重かった。
頭痛というより、首から頭にかけて圧迫感があって、胸のあたりがむかむかする。景はしばらく天井を見上げていたが、勢いをつけて立ち上がった。
ふらっとして、ベッドのふちに手をかけて身体を支える。寝ていて気付かなかったが、頭が分離したみたいにふわふわした感覚がある。
唇を噛んで、手の力だけでベッドから起き上がる。居間まで何とか向かったが、胸の不快感が酷く口から唾液が湧いてくる。お茶を飲んで体温計を取って、とにかく座った。素朴で、すっきりした麦茶の味が、唾液を覆う。酸の臭いがするような気がする。喉奥からも、這い上がってくる。
「風邪かな」
景はそれだけ呟いた。休もうか、それは困る。入学時から今まで無欠席を貫いてきた。
体温計がなって、それを確認する。
小さく舌打ちする。37.5度。普段は35度台なので、大分熱がある。
けれど、行けないこともない。
おかゆを作る時間はないので、雑炊を手早く作って、それを食べる。弟が起きてきたが、無視した。そのまま薬を飲んで学校へ電話する。
「親御さんに変わっていただけますか?」
学年とクラスを言い、一時間目を欠席する旨を伝えると、そう帰ってきた。
父はまだ寝ていて、起こすのには忌避感があった。
「すみません。親が夜勤勤務なので、寝ていて起こせません」
「……はあ、はい。分かりました」
曖昧な返事でその事務員はしばらく黙った。
「じゃあ担任に伝えておきます」
付け足された言葉に礼を言って、電話を切る。弟がこちらを見ていた。焼いていない食パンのジャムを塗って食べている。
「休むの?」
無視して、弟と共同の部屋に戻って、横になる。
景は目を瞑る。弟を無視したのは、悪意があったわけではなかった。ただもう、しんどいのだ。話すことが。
弟は、悪い人間ではない。友人も多い、けれど景にとって弟はずっとずっとどうしようもない存在のままなのだ。
景は母と話している時、父と弟と行くことは泥船に乗るようなものだと、本気で思っていた。母と行くことが正解なのだ、そう考えた。しかしもう一つの理性が言っていた。
私が行かなかったら、その泥船は沈む、と。
貧困構造の本を読んでいる時、その感情が蘇った。
例えば、私が学校を休むとする。二日、三日、何の理由もなしに、休む。そうすると、父はどうするだろう? 普通なら、理由を尋ね、例えばクラス担任に相談するかもしれない。またしばらく待ってみて、私に話をさせようとするかもしれない。だけど、たぶん父は私に何も言わない。何の理由もなく休んだところで、戸惑うだけで何一つしない。私が休み続けて、担任から連絡などが来ても、困ったように『どうするんだ?』と聞いて、私が無視すればそこで父の行動は終わる。担任に『いや、僕はちょっとわからないんで』と言っている姿がまざまざと想像できる。弟はどうするだろう? 普通はどうもしない。学校へ行くのが通常。だけど、弟は休むだろう、学校を。私が行かなくなったら、自分もそうしたほうが楽だと嗅ぎ取って、学校を休む。そこからなだらかに、破滅につっぱっしていく。弟は学校へ行かなくなり髪を染めるだろう。何となくと言う理由で、そしていつしかどうにもならなくなる。そして、父が無造作に置いている発泡酒に口をつけるようになるだろう。
景は、自分が学校を休むだけで、このもろい家庭が典型的な貧困家庭に落ちることを理解していた。だから、必要以上に優秀でなければならなかった。
学校は休まず、成績はほとんど5をとって、弟に適度に威圧感を与えて、圧迫する。
景は熱っぽい頭で考える。
敦に嫌われるのも、道理かもしれない、と。
理性で理性で、必死にそう生きようとして、もう引き返せないところまで来ている。
もう一度寝返りを打って、景は本城号と弟の確執を思い出していた。
本城号の母親は無造作に自身の子供の髪をつかみ、全く抵抗しない息子の顔を畳に擦り付けていた。
『謝ってねー、号』
『すみません』
間髪入れずに、本城は言う。
母親はだらしない胸元を直して『これでいいですか』と愛想笑いをした。
景は弟の横で、ただ座っていた。無表情に、微動だにせずに。弟は俯いていたが、どことなく唇を歪めさせていて、その頭には包帯が巻かれている。
大げさな処置で、大した傷ではなかったが視覚に訴えてくるものがあった。
弟の担任が説明したのは、この本城と言う少年が一方的に弟を痛めつけたというものだった。
景はかわるがわる二人の少年の顔を見て、唇をかんだ。
そしてその場で、『申し訳ありませんでした』と頭を下げた。周囲は何故この人間が謝っているのだろう、という顔をした。景はそれを分かりながら、謝罪をつづけた。
弟が顔を真っ赤にさせて、『何、勘違いしてんだよ!! 俺が、おれが! 殴られたの!』と怒鳴ったとき、景は意図して母にそっくりな口調でせせら笑った。
『嘘つき。本当に、ばれないと思った? お前みたいな、臆病者が、小物が、わざわざ何の理由もなしに、殴られるわけない。何したの!』
口をパクパクさせる弟を放置して、硬質そうな顔の少年に、景は『ごめんね。弟が何か嫌なことしたんだよね。ごめんなさい』
と頭を下げた。少年は頷いて、少しだけ微笑を浮かべた。
『どうも』
彼はさっと立ち上がって家から出ていった。あまりの去りっぷりに、固まっている周囲を置いて、景も弟を連れてそこから去った。
弟は泣いていた。口惜しさと恥ずかしさで。けれど景は何のフォローもしなかった。その涙の奥に憎しみが鮮やかに煌めいていた。
この子は、私が父よりも母よりも嫌いだ。
酷いことをした。
熱で曇った瞳を開けると、弟がそこにいて私怨渦巻く視線をよこしていた。
「しんどいの」
「じゃあ死ねよ。そのまま熱で死ね」
「ははっ、私が死ねば敦もお父さんと共倒れだね」
弟の瞳の色が剣呑な色をまし、唇を震わせて反論してくる。
「お前なんかいない方がいいわ! 偉そうに、見下して」
「それしか言えないんだ。見下すって言葉しか言えないんだね。もっと奥まで読めない。自分がわたしに見下されることをどれほど嫌がってるか、そのことにも気づいてない。
私の上に立って、勝ち誇って私を見下したいんでしょ」
ふと、口から言わないと決めていた言葉が、
「実際、私よりも、何もかも劣っているのに」
疲労し、傷ついた脳からあふれ出てくる。
「……やっと、本音が出たじゃん」
景が暗い瞳を決めると、弟は笑っていた。
「俺、なんで姉ちゃんはこんなに人に冷たく出来るんだろう。そう思ってたんだよ。俺、本城の家で、姉ちゃんに怪我した頭を押さえつけられたとき、ものすごくキレてた。あんたのこと姉とも思えなかったし」
「実際、敦が原因だったでしょ」
「ああ、そう、そうだったよ。でもさあ、姉ちゃん――――なんも知らなかっただろそのとき。だけど姉ちゃんは俺よりも、初めて会った本城の方を信頼した。
俺、裏切られたと思った。姉ちゃんは一応俺の事好きだろうと思ってたけど、全然違うくて……。
――――軽蔑してたんだろ、ずっと。母さんと同じように、俺らのこと見下してた。何で俺らについてきたんだよ!?」
違う、景は心中で首を振った。
違う、そうだけど違うのだ。
単純じゃない、好きとか嫌いとか、そういうような要素もあるけど。
首を振るだけの景を人にらみした後、弟は唇をかんで、
「こんなときにも親父は寝てるよ」
と言う。景はしばらく黙って、
「敦、お父さんのシフト、私把握してる」
とこぼした。唐突な発言に弟は怪訝そうに眉を寄せる。ぼんやりと弟の罵声を思い返しながら、続ける。
「お父さん携帯にシフト入れてるの。一度だけね、確認のために見た。やっぱり、おかしかった。
……お父さん、彼女の家に行ってるんだよ。たまに帰るのが遅い時とかあるでしょう。仕事? って聞いたら『うーん』とか言う日」
父は一度も仕事だよと言わなかった。それは誠実だとか言えるかもしれなかったが、景にははっきりと父の姑息さと曖昧な責任逃れの姿勢を感じていた。
嘘もつけないのだ。
そしてはっきりと浮気相手と未だ繋がっているということを子供にも説明できない。
明らかに不自然な帰宅時間。嘘をつくか、説明するか、どちらかをするのが父にはできない。
それはそうだろうな、景はシフト表を確認して、驚かなかった。それはそうだろう、父はそういう人間だ。
こんな人間だろう。
青い顔をする敦に、胸がすくと言うことはなかった。
ただ平坦な心で、少しぐらい甘えを捨てろと弟に冷徹に要求していた。そして冷静に、これで父に言いつけないだろうなと考えている。
自分自身が唇に同化する。薄い桃色の自身の唇でも、赤い唇に塗り替えられることはない。赤い唇を思い浮かべるよりも、自分自身の唇を思い浮かべる方が、胸に迫った。
景はなんとなく松谷に会いたいと思っていた。