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たゆむ夏果て  作者: 阿江
1/5



 肌には煙の匂いが張り付き、外皮からじわじわと空気を伝わらせていた。

 景は伏し目にして、汚れたコンクリートを見つめた。まだ足りない。まだ寒さが。じわじわと内から中途半端な熱気がくすぶる。

 秋はいつも煙のにおいがする。何を燃やしているのか分からない。

 階段を下りながら、新調された手すりを見た。誰が触ったのか分からないそれを、触れる気にはなれなかった。何度も銀色にひかるそれを見ていたのに。

 三階、左右にある二つの茶色の扉が見えた。景の視線は右側の表札に止まる。

 『松谷』、几帳面な字は、ここに住む老女の手によるものだろう。

 景はもう冬が来るだろう、そうしてそれがとても待ち遠しい恋しいと、『松谷』という文字を頭に浮かべて思った。


 景は運動靴を脱いで、台所へ行った。コンロには父が作ったのだろうシチューが作ってあった。弟の敦が帰ってくるのは五時過ぎになるだろうと考え、部活帰りの弟にスープだけでは足りないだろうと思った。近所のスーパーまでは自転車で十五分もかからない。

 冷蔵庫にはほとんど何もなかったから、食べ物を買いに出ようと思った。

 景の棟は市営住宅でも入口の方にあって、すぐ前にゴミ捨て場がある。そこを通り過ぎようとすると、カラスが二三羽いて、白いティシュのようなものがアスファルトに張り付いて、ゴミ袋が散乱していた。ゴミ捨て場は廂ひさしがついて緑色のネットもいつもならちゃんとかけてあるのに、現在それは端に寄って役割を果たしていない。

 横目で見て通り過ぎた。触りたくなかった。直すのは誰なのだろう、と景は考えた。いつも次の日にはきれいになっているから。だけどまたしばらくして、こんな風になっている。

 スーパーでちょうど割引のシールが張られ始めたところで、景はそういうもの覗いて、かき揚げを買おうとした。けれど、ふっとこの前の弟との出来事を思い出し、小さくため息をついてから、少し高めのエビフライを買う。他に牛乳と食パン、卵を買った。

 ビニール袋をさわさわと落ち着かない気持ちで揺らしながら、ゴミ捨て場の前を通り過ぎる。もうカラスはいなかった。いないと思っていた。

 首筋に汗が流れて、それを袋を持っていない手で拭う。

 景はふっと自身の棟の前で息を止めた。棟の前のポスト付近に人が蹲うずくまっている。黒いパーカーを着ていて、顔を不自然な程地面に近づけている。

 下の階の人だ。景は少し眉を寄せて、目を逸らした。近所づきあいがある方ではないが、この付近の市営住宅で有名な人なら知っている。たとえばヤクザや裸でうろついている老人、猫を飼い慣らしている中年女性。この棟にはそんな問題になるような人間はいないが、この蹲っている人間は気持ちが悪いと陰口をたたかれている。いつか犯罪を犯しそうだ、と。ニート、引きこもりという奴で、時折、こんな風に蹲っているのを見かけるが、基本的には全く出歩かないのだという。数少ない近所づきあいのある人間が、この人間の祖母であり、景はその人から愚痴を何度か聞かされていた。

 横を通ると、荒い呼吸音と必死で何かをごまかそうとする切れ間ない呟きが聞こえた。

 家に帰って、しばらくして敦は帰ってきた。汗臭い土の匂いがむっと漂ってきて、

「飯は」

 開口一番、ぶっきらぼうに吐き出される。弟の目線は景の鎖骨あたりをふわふわとうろついていた。

 景はこの前の事で、弟が起こっているだろうこと、大変プライドを傷ついているだろうことをよく分かっていた。そして面と向かって何も言わず、こんな風に合間に視線を逸らすだけの弟に、理不尽だが腹立ち染みた感情を抱いた。

 これで、これで私の二歳下。

 瞬間、景の脳裏に口角を上げて上品に笑う赤い唇が思い出される。

随分前に別れた母。

 はっとして、弟に背を向ける。

「もうできてるから、テーブル片付けて」

 がちゃがちゃと食器を取り出して、食事の用意を始める。血は凍りついていた。


 朝起きて、食パンを二人分焼く。父は疲労してか朝は起きない。

 弟は毎日飽きもせず、食パン一枚の朝食に文句をつけ、景はそれを無視する。冷然と食パンを取り続ける姉にいらだっているが声を荒げるだけで、明確に反抗してこない。

 いつものように食事の後の片付けもしないで、さっさとバッグを背負い。

「父さん、まだ寝てるのかよ」

 と吐き捨て、父の部屋に「起きろよ!」と怒鳴って学校へ向かう。

 いつもの行動だ。

 景は瞑目して、食事の後片付けを始めた。

 学校はいつものように予鈴とともに入った。景の息は荒く、喉に風がひっかかるような不快感があった。もう七月、暑くなりかけている。いや明確に暑い。梅雨が過ぎてから、じりじりと太陽の光を強く感じる。アスファルトも、なんだか乾いて見える。

 汗が首筋に、背筋に細かく浮いてくる。ぬめりと、背中に波打ってシャツに張り付く。

「おはよー。汗かき過ぎだねー」

「うん、暑い。ほんと」

 友達のユーリに声を掛けられ、景は手で顔を仰ぐ真似をした。すぐに担任が入ってきて、今日の連絡をし始める。景はそれにじっと耳を傾けながら、僅かに目を伏せた。

 なんと、楽なのだろう、学校というのは。

 足元からクラゲのようなあいまいな存在が充満して、つむじまで隙間なく埋まっていく。外にもそれが溢れている。

 切れ間なかった。意味もなく、切れ間なかった。

 休み時間はすることもなく、ただユーリに合わせる。それが苦だと昔は思っていた。けれどほんの最近、気が付く。

 苦痛ではなく、本当に暇なのだと。

 どうでもいいこと、つまらないこと。

 私にとってユーリとの時間はそれに分類されているのだ。

 景はそれは仕方なく、変えようのないことだと諦観の息をはく。

 自分をこのクラスの人間と別種に位置付けたいわけではない。でも景はやはり理解できなかった。

 昼食時、景はぼんやりと椅子に座っていた。ユーリは前席の椅子を反対にして、景の机にお弁当を置いている。

 景は給食を頼んでいた。

「そろそろ夏休みだねー。花火見に行きたいねー」

 適当に相槌を打つ。

教室の扉が開く音がして、係の人間が給食を運んできた。お弁当形式のそれの中身はあまりおいしそうには見えない。クラスで給食を頼んでいるのは男子がほとんどで、女子は景を含め三人。

 実際、味はまあまあだ、と景は思っている。

 教室の真ん中あたりの自席から、机の間を縫って、そこまでいく。

 男子がぞろぞろと前でお弁当を取っている。景の番が来て、一つ手に取る。ふと次の番の男子に場所を変わったとき――――男子が無造作に二個のお弁当をとった。

 景は思わず、お弁当を二度見して、顔を上げて男子の顔を見る。

 クラスでも目立っている男子で横塚よこづかという、サッカー部の男子だった。

 今日、休んでいる人はいない。弁当は人数分しかない。

 じゃあ足りなくなる。

 当たり前の発想が脳内を駆け巡り、次に、誰かから貰ったのではないかという発想がおこった。取りあえず、と思ってその場で立っていると、困惑したように立ちすくむ女子がいた。

「もしかして足りない?」

 景が尋ねると、その女子相坂が、戸惑いがちに頷く。

「さっき、横塚が二個持って行ったよ。返してもらいなよ」

 相坂は何の返事もしないまま、ウロウロと給食が入っていた籠かごなどを眺めながら「えっ……どうしよ……えっ……」とつぶやいている。

 景はもう一度、「横塚だよ」と教える。ぐるぐるとしているような目が一度、向いたが逸らされて、教室の端の方の女子の集団を見ている。その女子たちは相坂の方を見ていない。可愛いお弁当箱を広げて、何か話している。それは相坂がいつも昼食をとっているメンバーで、彼女たちは給食を取りに行った友達が帰ってこないことを気にせず肩を寄せ合って笑っている。

 景が横塚を探すと、彼は二つのお弁当を同時並行で食していた。

「相坂」

 景は呆れてから、トントンと相坂の肩を叩いた。

「ん、何?」

 驚いたように振り返ってくる。平静そうに何? と問いかけてくるが意識は友人たちに向いているよう。

「お弁当どうするの?」

「えっ、お弁当……。どうしよ……」

 良く分からない笑みが相坂の口に浮いている。 

 景は本当にこういう時、こういう人間の感情が一切分からなくなる。

 真顔でこう問いかけたら、分かるのだろうか?

『何、テンパってるの?』

 と。

 普通に即座に行動すれば、いい。

 横塚にお弁当を返してもらって。

 でも、それができないのだ。

 そうして友人の方を無意味に見たりして。

「給食室、予備のお弁当くらいあると思うよ」

 景は自身の声に、陰湿な無関心さと冷たい軽蔑を感じる。なんという声だろう。

 しかし、相坂はそれにも鈍感なようだった。

「うっうん」

 一切、助言した景に関心を向けることすらなく、友人たちを延々と窺いながら、彼女は教室から出た。

 相坂が出ていった先を、じっと見つめる。

 こういう人間はどうしてこんなに多いのだろうか。

 訳の分からない苛立ちがこみ上げて、次の瞬間、また赤い唇が不気味に浮かび上がる。

 景は首を振る。


 わたしの冷たさはどこから来るのだろう、こういうような一文を本で読んだような気がする。景は本の題名を考えながら帰り道を進んでいた。

 ゴミ捨て場を通り過ぎたときだった。

 思わず、景は立ち止まる。

 あの男は――――。昨日のニートの男ではない。市営住宅でも有名な、人間だ。

 例えば、飴おじさんとか、そんな風に呼ばれる人だ。

 悪い人じゃないんだけどねぇ、階下の老女の言葉が思い出される。

 あの人おかしいから。

 例えば景だって、この市営住宅に来たとき何度も嫌な目にあった。

 市営住宅では色々としなければならない役職がある。たとえば、夏祭りの手伝いや、市営住宅の清掃。

 父が仕事で行けなくて、弟なんて論外で、そういう時に小学五年生だった景が地域の掃除をしたり、行事を手伝ったりしていた。

 優しくしてくれる人は年輩に多かったけれど、中年の人は本当に最低としか思えなかった。仕事をさぼったり、押し付けたり。例えば地域の地蔵盆じぞうぼんで、景が走り回っている時に小さな子供を景に押し付けて、平然と言うのだ。

『ちょっと忙しいから、面倒みておいて』

 と。焼きそばやジュースと変えられる券を押し付けて、『もらっておいてくれる?』と。

 腹が立って仕方がなかった。でもそういう人が、発言権があったりした。睨まれたら、大変な役職を押し付けられて、父が仕事を休まなくてはならなくなる。全部が全部景がやるというわけにはいかなかった。

 そしてそれよりも、もっと嫌だった、いや怖かったのは。

 景が本当に普通に学校から帰ったとき、四階の自分の家の前に白い帽子をかぶった男がいたことだった。四階に上がった瞬間凍りついた。

 男は六十代くらいで、じっと顔を伏せていた。

 景は普通ではない雰囲気に気が付いた。

 まるで生気がなかったから。持っているものも、子供が持っているような、キャラクターの鞄。

 景はその瞬間、階段を駆け下る想像をしたが、すぐにそれは却下された。追いつかれる、という可能性があったからだった。おそらく、そのとき景の判断は間違っていた。景は男の横を通り過ぎ五階に上がり、五階の部屋のピンポンを鳴らした。挨拶をするくらいの仲だったが、事情を話せば家に入れてくれると考えたから。

 そして何気なく階段の方を見て、景は血の気が引いた。男が4階と5階の間の踊り場まで上がって、まるで睨むようにこちらを見ていたのだ。

 そのとき景は自分が悲鳴を上げたのかは覚えていない。

 ただ、男の狙いは自分だと確信したのは覚えている。

『お嬢ちゃん、ちょっと道に迷ったようなんだ。方向音痴でね、できれば』

 淡々と、はにかむように右手で帽子を掻く真似をした。マンガのようなしぐさが、不自然で奇妙だった。口は動いているのに、それ以外の部分は微動だにしなかった。

 男は一段づつ階段を上ってきた。

 後三段というとき、景は男を突き飛ばして逃げた。男はあっけなく倒れた。

 階段を下りている時、完全に何も考えていなかった。あるのは怖いという感情だけだった。耳が異様に熱くて、心臓も同様だった。他の部分は――全力で動いていた足でさえ――まったく感覚がなかったのを覚えている。

 それからは本当に何も無かった。その時は絶対に警察に通報するつもりだったが、父に心配を掛けたくなかったし、もう一度現れることもなかったから、出来事は自分だけに留めておこうと決めた。そして、そのときの経済状態では市営住宅から出られなかった。

 だから――あの人おかしいからという言葉で我慢した。

 あの男はおかしいだけで、おかしいから、別に何の目的もなかった。

 ――――その男、だった。

 ぞっとして、景は後ずさった。距離は離れていたから逃げられそうだ、と思ったとき、男の横に女の子がいることに気づいた。

 まだ夏でもないのに、ノースリーブを着た女の子。

 あの子、景は思い出す。

 小学生のとき、たんぽぽ教室というところにいた子だった。普通学級ではないところで授業をしていた子。嫌な予感がして、動けない。

 緊張で固まる景の肩に、誰かが触れた。

 振り返って、目を見開く。そこに無造作に立っていた少年はしっと薄い唇の前に人差し指を置く。

 そして、面白そうに笑った。

「変態野郎」

 低い声でそう吐き捨てると、まるで気負いがなく男と少女のところまで行って、男に突然殴り掛かった。驚いて近づく景の方を見ず、一発で倒れた男の腹や顔を無表情で蹴り、踏みつける。

「本城君」

 名前を呼んで肩を抑えることで、やっと少年――本城の動きが止まった。

 少年は先ほどまでの奇妙なまでの無表情を消していた。ごくわずかだが微笑している。

 弟の同級生に、景は眉を寄せる。きょどきょどとしている少女に家に帰るように告げてから、本城に向き直った。

「どうして殴ったの?」

「この人間は何度だってやるよ。実際やってる。足を殴って折って、障害でも残しておけば、病院にもいけないきちがい野郎だ、うろうろ出歩かなくなる」

 眉を寄せる。一瞬、目の前にまっ黒な壁が置かれたが、静かに目の前の少年を眺め続ける。

「救急車呼ぶから」

「ん」

「ここから離れなよ、適当に言っておく」

飴おじさんを見下ろす。

「たぶん、何も言えないだろうし」

 景はこの老人を放っておくのは気が引けたが、それでも本城に対してこの人を殴ったことの罪を問う気には到底なれなかった。

私が決めることでもないだろうけど、景は苦笑した。

本城は嬉しそうに笑い、いいよ、と言う風に手を振る。

「あんたが面倒だろ。この前のこと、俺は嬉しかったんだ。まあ感謝もしてる。

 そうだ、あんたの名前は?」

「三上みかみ景」

「じゃあ、景。あんたはもう帰れよ。俺にまかせて」

 笑っている。優しい笑いだった。

 この前の事、この人は覚えていたようだった。本城と弟とのいざこざ、そしてその解決。

 首を振る。景にとっては苦い記憶だ。

「そういうわけにもいかない。」

 一息で言ったときだった。後ろからぼそぼそとした声が聞こえた。

「しょ、そっそこのやつは、び病院」

 病院、と繰り返す。引っ掛かりを覚える声だ、そして気が付いた。

「下の階の」

 ニート、老女の孫だ。彼はいつのまにか集合ポスト辺りに、そわそわと立っていた。本城は表情一つ変えず、無言で立っている。そして、首を傾げて尋ねた。

「何?」

 ニートはびくっと震えた。顔を見て、景は男が案外若いことに気が付いた。三十代後半と思っていたが、前半もしくは二十代後半のように見える。

「そのっ! へっヘルパー、頼ん、んでるから、たったぶん異変にき気づくっ」

 そしてちゃんと病院に行く、ということがいいたいらしかった。

 景は何故そんなことを伝えに? と疑問に思っていると、ニートは何やらごそごそと背中のリュックを漁って、手のひらサイズの機械を取り出した。

 何かボタンを押すと、その機械から『飴好き、かな?』『んー。わかんない』というような声が聞こえ始めた。景は誰の会話か気づく。

「こっこれ、ばらされったくなかったら、このこと、だ黙っておっおけ!」

 足を抑えて、先ほどから呻いている老人は内容を全く理解できないようだった。ニートは機械を右手で掲げたまま、固まってそれを流し続けている。間抜けな音声が沈黙のよく響く。

景はそんなことをしなくてもこの老人は何も話さないだろうに、と思った。せいぜい、そのヘルパーとやらに、殴られたということを伝えるくらいだろう。

 本城がため息をついて、老人に近づき、耳元で何か囁く。びくっと大げさに老人の身体が震える。本城は男の身体に勢いをつけて飛び、踏みつける。

 そして本城は痙攣している姿を満足げに眺めて、「分かったな!!」と恫喝どうかつした。老人はこくこくと頷いた。

 景はぼんやりそれを眺めた。いつもなら警察に通報するが、昔の出来事がそれを遮った。

 ニートのそばに寄って、「どうして」と聞いた。

「どうしてああいうことを教えてくれたんですか」

 至近距離にいる景を見て、一瞬顔をひきつらせたが、もごもごと理由を話しはじめた。ニートの語り口は行き当たりばったりで、何を言っているか分からず、話にもまとまりはなかった。

 けれど、おおまかな部分はわかった。

 本城は一つ頷いて、「俺に用があったんだ」と意外そうに眉を上げた。

「ああ、ああ」

 ニートが言ったのは、簡単なことだった。

『俺の書く小説のモデルに本城号をしたい』


 本城号ごうはこの市営住宅で、相応に有名だ。

 景は弟の同級生であったから、少し気にしていた部分もあって、彼のことについてはそれなりに知っていた。彼は母子家庭で、母親は家には全く帰ってこない。実質一人暮らしのようなもので、その一人暮らしの部屋に訳の分からない子供を連れたりしていて、また近所の高校生をぼこぼこにした事件は一時期話題になった。勿論、市営住宅の住人は彼が犯人だということを知っていたが、積極的にそういうことも言わず、高校生の方も何も言わず、うやむやになった。

 ともかく本城と言うのは普通の人間とは異なる経歴をプラカードに下げているような人で、それにニート――松谷雫しずくが興味を持ったのだろうな、と景は考えた。

 松谷が何故、あの老人のヘルパーについて知っていたのかという疑問も簡単に推測できた。彼と二人暮らしの祖母は介護職に就いている。

 もう一つの疑問、何故タイミングよく松谷が現れたのかは本人が言った。

『盗聴器、ポストにつ、けてたから』 

 外出するとき、誰にも会わないように。

 景はそれにそう、と言ったら、本城は可笑しそうに笑った。

『歪んだ臆病さだ』

 本城の言葉には頷けた。

 しかし別に何も言わなかった。景は他人の考え方に干渉するのが嫌いだった。ただ一言『それ犯罪ですね』と言っただけだ。

 松谷は俯いて、『も、もう外、す、外したよ』と言った。景はそれが嘘だと分かったが、うなずいた。

色々話を聞いた結果、松谷は本城のことを祖母からの会話で知り、そしてポストに仕掛けられた盗聴器で、景と本城との会話を聞いたらしい。そして本城と話せる機会だと踏んだのだ。

そんな行動力があるなら、あの少女が飴おじさんに話しかけられている時にでも助ければよかったのに、景はそう思った。

 三人は少し話して、その場で別れ、そして景は今会話を思い出しながら右手で瞼を抑えて、小さくため息をついた。

「なんだろう、嫌いだな。松谷さんのこと」

 ぽつりと吐き出す。景は一般的な人間と同じように、犯罪者は嫌いだったし、暴力をふるう人間も嫌いだ。けれど本城よりも、松谷という引きこもりの人間の方を嫌っていた。

「なんだろう、どういう気持ちなんだろ」

 ふと、気付いた。

 あのおじさん、昔は家の前のいて、すごく怖かった。全然今はどうでもいい。被害者が自分ではない、とか。年齢が上がったとかではなく。

 しばらく自身の感情の変異について考え、気付いてしまって、景はただ仕方ないなと思った。

 自分が変わってしまって感情が変わってしまって、仕方ない。

 どのくらい瞼を抑えていたのか、気づけば弟が景を見下ろしていた。

 憮然とした表情で、横になっている景を観察している。

「おかえり」

「……」

 弟は不機嫌そうに口を曲げて、姉がまったく動く気はないと気づいたのか、「父さんは」と聞いた。

「知らないよ。仕事でしょ」

「なんだよ知らないってっ。教えろよ」

「知らないって。なんで私がお父さんのシフト把握してると思うの?」

 むっと黙る弟に、相手にならないという風にもう一度瞼の上に手を置く。

「なんだよ、その態度」 

 態度? 繰り返して、笑いたくなった。弟は自分のことを何だと思っているのだろう?

 次の瞬間、弟に右手を思いっきり引かれた。

 痛みで眉を寄せる。目の前で、不機嫌そうな顔が少し怯える。

「いたい」

 景の言葉に、まるで投げるように手を放すが、手はゆらゆら宙を揺れただけで、たたきつけるという威力は到底ない。ぼんやりと手が布団に沈む。

 逆らいきることができないのだ。

 父にも姉にも。でも。

「気づいてないんだね、敦」

「はっ?」

「……ご飯は自分で作って。食欲ないから」

 舌打ちして、景に背を向ける。

「自己中ばっか。お前らは、いっつも」

 まじで、死ね。弟はそういった。




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