ポリバケツの誓い
わたしは目を覚ました。
いつものように、ポリバケツをかぶったまま。
わたしは幼い頃からこのポリバケツと一緒に生活している。
昨日は確か、母親に「念のためポリバケツをかぶって寝なさい」と言われて寝たような気がする。
ここまで見て、今このポリバケツを馬鹿にした人も少なからずいるんじゃないかと思う。
でもこいつは本当にすごい奴なんだ。
だがその話はもう少し後にしよう。
それよりも。
わたしはたった今目を覚ましたところなのだが、気付けばわたし以外の、辺り一面が黒焦げになっていた。
周りには家一つない。
と言うよりも、元々は家だった物が数限りなく散乱している。
勘のいい人はある程度理解してくれたと思う。
まあ、いわゆる戦争ってやつだ。
わたしの住む街は一晩の空襲で無くなった。
そう言えばわかってもらえるだろう。
この瞬間からわたしは家族を失ったということになるのだ。
みんな防空ヘルメットなんかかぶってるから……
いや、この場合何をかぶっていても意味はなかっただろう。
わたしはとりあえず起き上がる。
体操座りのまま、ポリバケツを頭からはずす。
朝の日差しが、目覚めたばかりの目に眩しい。
空は、ポリバケツが溶け込みそうなほどの鮮やかなブルーだった。
遠くで蝉の声がする。普段は聞き飽きるほどにうるさいだけだが、生き物の気配を少しでも感じられる事に今は感謝した。
わたしを守ってくれたポリバケツは多少の黒炭は付いていたものの、まだ綺麗と言えるほどだった。
このポリバケツの何がすごいかというと、わたしにもよくわからないのだが、そこらにあるヘルメットよりは相当硬い。
しかしそのような「硬い」という表現では、大きな爆発や爆弾の直撃からもわたしを守ってくれたこのポリバケツに失礼だろう。
頭にかぶってさえいれば、まるで何かしらのバリアが張られたかのごとく、かすり傷一つ負わないのだ。
まさに「無敵」という表現がぴったりである。
わたしは小さいころから命が危ない時はいつも、このポリバケツをかぶっていた。
家族も、このポリバケツをずっと信じてわたしにかぶせていたんだと思う。
そう思うと不意に涙が溢れた。
周りには人っこ一人いないのに、わたしはポリバケツを深くかぶって泣いた。
恥ずかしかった。
でも、そんなわたしを見て声をかけてくれる者は、今や誰もいないのだった。
ポリバケツはいい。
水を蓄えることができる上に、遺骨を拾う際にも役に立った。
家族の遺骨は、わたしの家の庭にあたる場所に穴を掘って埋めた。
不思議ともう涙は止まっていた。
昼ごろ人の群れを発見したので近寄ってみる。
壊れた水道管から水が出ていた。
みんなボロボロのバケツやタンクに水を蓄えていた。わたしもその列に並ぶ。
こんな状況でもきちんと列を乱さずに並ぶ人々の姿は、この国のもたらした産物だろう。わたしも少し、勇気をもらった。
ところが後一人というところまできたとき、急に水の出が止まった。
わたしの前で水を汲み終えた男の子が申し訳なさそうにその場を去ろうとした。
「あの、待って下さい」
男の子は立ち止まり、恐る恐るわたしを振り返った。
「あの……よかったらお水分けて下さい」
わたしは顔が赤くなるのがわかったので、慌ててポリバケツをかぶった。
「俺にも分けてくれ!」
「ずるい、私にも分けてちょうだい!」
わたしの後ろに並んでいた人達が一斉に騒ぎ出した。
堰を切ったかのように押し寄せてくる悪意の塊。
先ほどもらった勇気は、無残にも散ってしまった。
わたしはどうしようもなく、ただうろたえていた。
すると男の子の手がわたしの腕を掴んだ。
そしてこちらを振り返る事なく、走り始めた。
わたしもその手を頼りに走った。
押し寄せる悪意を振り払うかのように。
いくらか走ったところで、彼は急に足を止める。
「やべ、おれのバケツ穴開いてやがる」
バケツの水は半分くらいに減っていた。
「あ、わたしのでよかったら使う?」
彼はバケツの底から滴り落ちる水と、わたしのポリバケツとを見比べていた。
「君のバケツ……やけに綺麗だよね」
「……でしょう? 自慢のポリバケツよ」
彼は笑って、わたしのポリバケツに水を移し替え始めた。
彼の名は田中鉄平というらしい。
十七歳で母親と弟と暮らしていたそうだ。
しかし、昨晩の空襲ですべてを無くしてしまったのだ。
わたしと似てる。
そう言うと彼は笑った。
よく笑う人だと、わたしは思った。
「空襲の日に伝令がきたんだ。あと二日で軍に合流しなきゃならない。死ぬ前に帰る家が無くなって、余計に死ぬ決心がついたよ」
わたしはその言葉に深い悲しみを覚えた。
「そんなこと、生きてるうちに言わないで……」
彼はわたしの顔を見て、はっとしたように目を背けた。
「……ああ。悪かった……」
わたし達に帰る家はない。
壊れた防空ごうに二人で寄り添った。
わたしが彼の手を握ると彼は泣いた。
悪いのは彼ではない。
全て戦争が悪いのだ。
わたしは次第に意識が朧気になるなか、わたし達を見守るポリバケツの水が静かに揺らめくのをずっと見つめていた。
轟音とともに目が覚めた。
いつの間にか朝になっていた。
わたしは音の正体を確かめるべく、崩れかけた防空ごうの入口から外を見る。
大きな炎が街外れの漁港付近に上がっていた。
咄嗟に防空ごうの中を見渡す。
田中鉄平はいない。そしてあのポリバケツもない。
あるのはただ、防空ごうの陰にできた闇だけ。
そういえば、まだ外が薄暗いほど朝早くに鉄平の声を聞いた記憶がある。
確か食料がどうとかなんとか言っていた。
その時、なぜ起きて一緒についていかなかったんだろうと後悔した。
今まさに彼はあの空襲に巻き込まれているのではないか?
そんな不安が頭をよぎる。
鉄平の事がとにかく心配になった。
ポリバケツがないのは不安だが、思いきって外に出てみる。
空襲の起こす爆音が耳に入ってくる。
わたしは震えが止まらなくなった。
防空ごうを少し出たところで、わたしはへたりこんだ。
いつもそばにいてわたしを守ってくれたポリバケツが今は無い。
わたしは、ポリバケツがないと何も出来ない人間だったのだ。
今さらそんなことを知っても、脚がすぐに動く原動力になるわけがないのに。
そんな時だった。
「ニャア!」
いつの間にかそばに猫がいた。こっちを見て「餌くれ」とでも言いたげだ。
今はそれ所じゃない。……ていうかあってもあげるわけないじゃないか。
わたしのお腹も「餌くれ」と言わんばかりに鳴いているというのに。
「ミミ! 何してんの」
後ろから声が聞こえたので驚いて振り返った。
すると防空ごうの中から小さな女の子が現れ、小走りで「ミミ」と呼ばれた猫に駆け寄った。
わたしは唖然として女の子と猫を見た。
「あなた達、誰?」
女の子がはっと息を飲んでわたしを見つめる。
「ずっとこの防空ごうにいたの?」
女の子はこくこく頷く。
気付かなかった。
恐らく、陰の濃い所でずっと動かずにいたのだろう。
いつから居たかわからないが、鉄平はこの子たちの存在には気付いていたのだろうか?
とにかく、詳しい話を聞きたかったので女の子と猫を防空ごうの中に連れていく事にした。
女の子は川西ちさと名乗った。そしてペットの猫は、耳が大きく見えるからミミとつけたそうだ。
二人の家族は、彼女がお遣いに行っている間に爆撃され、家ごと無くなってしまったのだと言う。
この街の子ではないらしい。
八歳の可愛い子なのだが、泣きながらぐずぐずと話すものだから「いつまでもメソメソするなぁー!」と思わず一声上げてしまった。
まぁ、効果があるどころか余計に泣きじゃくるので、しばらくそっとしておくことにした。
わたしは防空ごうの壁にもたれかかり、できるだけ体を動かさないようにした。
食料が無い今、無駄な体力を使わないようにするためだ。
「お姉ちゃん……?」
ちさが口を開いた。
彼女はわたしと正反対の壁にもたれかかっている。ミミは彼女の膝の上で大人しくしていた。
「お兄ちゃん……鉄平お兄ちゃんはどこに行ったの?」
もう泣いてはいないが、震えた声でわたしに言った。
鉄平を知っているということは、わたしが眠りに就いた後、彼女はこの防空ごうに来たのだろう。
気の優しい鉄平の事だから快く招き入れたに違いない。
となれば鉄平は早朝、わたしにもちさにも行き先を告げず、ポリバケツを持って出て行ったという事になる。
「わたしにもわからないよ」
そう言うと、「ぐぎゅ~……」という音が、防空ごうにこだました。
ちさのお腹の音だった。
「お姉ちゃんは食べ物持ってる? ちさお腹空いた」
「ううん、持ってない。でもきっと鉄平お兄ちゃんが食べ物持って帰ってきてくれるよ」
「ほんと!?」
わたしは立ち上がり、彼女の隣に寄り添って頭を撫でてあげた。
「本当よ。わたしを信じなさい」
彼の手にはわたしのポリバケツがある。それがある限り、絶対に大丈夫なはずだ。
彼女は少し間を開けたが、「うん」と力強く応えた。
心配する気持ちは誰だって同じだ。
今はこの子でさえも、隣にいてくれるだけで心が安らぐのがわかる……
「お姉ちゃんお水いる? 朝、鉄平お兄ちゃんが分けてくれてたの」
そう言ってちさは肩にかけたボロボロの水筒をわたしによこした。
「最初、お姉ちゃん怖い人だと思ったけど本当は優しい人なんだね」
そう言うとニッコリ笑ってわたしに抱き着く。
わたしは水を一口だけ貰い、水筒を返した。
「もういいの?」
わたしは何も言わずに彼女をぎゅっと抱きしめた。
すごく温かかった。
わたしの頬から流れ落ちた水滴を、ミミが不思議そうに嘗めていた。
「ねぇ、なんでポリバケツが無敵なの?」
ちさがしつこく尋ねてくる。
「わたしにもよくわからないの! 物心ついたときから一緒だったし……」
本当になぜこんなにも丈夫なのか。
周りの人は弾丸や爆炎を浴び、有無を言わさず灰と化す中、わたしはこのポリバケツをかぶっているだけでいつの間にか生き残れているのだ。
前の街にいた時、学校で空襲を受けたことがある。
ポリバケツを馬鹿にしてきたいじめっ子も、一緒に遊んでいた仲良しの子も、厳しかった先生達もみんな炎に焼かれてしまったが、わたしだけ無傷で生き残った。
ただの偶然、と決めつけてもいいかもしれないが、何度も同じ体験をしたわたしにとっては「当たり前」とまで言えるほどの自信と信頼を持っていた。
「そういえば、お姉ちゃんの名前なんていうの?」
ちさが急にそんなことを聞く。
そういえば、鉄平にもまだわたしの名前を教えていなかった。
でも、今更教えるのはちょっと恥ずかしい気がする。
その時だった。
「ただいま」
昨日ずっと聞いてたはずなのに、今その声を聞くとなんだか懐かしい気持ちになった。
防空ごうの入口に人影ができた。
それは紛れも無く田中鉄平の人影。
彼は生きて帰って来たのだ。
「水と食い物適当にかっぱらってきたぜ」
彼の手にはわたしのポリバケツ。
中には魚や米、水、そしてなぜかドッグフードが入っていた。
わたしは鉄平に飛び付いた。
「わっ。どうしたんだよ一体?」
「よかった、生きてて……」
わたしは彼の腕で子供のようにわんわん泣いた。
いけない。さっきちさにメソメソするなと言ったばかりではないか。
「急にいなくなって悪かった。住人が増えたから食料の調達に行ってたんだ」
いつの間にか、ちさも鉄平の足にしがみついてぐしゅぐしゅと泣いていた。
良かった。泣き顔は見られていないみたいだ。
「朝空襲があったみたいだけど、鉄平怪我してない?」
わたしは顔を上げて、涙を指で拭いながら聞いた。
鉄平はこくんと一つ頷いて、ポリバケツを頭にかぶってみせた。
「かなり酷い空襲だったけど、こうして逃げてたらいつの間にか空襲が止んでた。生き残れたのが不思議なくらいだよ」
鉄平は知らないだろうが、わたしは知っている。
無敵のポリバケツはわたし以外もちゃんと守ってくれるみたいだ。
わたしはくすっと笑ってポリバケツをかぶった鉄平を静かに眺めていた。
「さあ、飯にすっぞ!」
急にポリバケツを外して叫ぶものだから少し驚いたが、その一言でわたしたちは一斉に夕食の準備を始めた。
近くの家の残骸からカセットコンロと土鍋を探しだし、米を洗ってご飯を炊く。誰かが避難用に置いていたのか、防空ごうの奥にガスボンベがいくつかあったのが幸いした。
コンロの火を使って薪に着火し、魚を三匹焼いた。
外は夕刻の日の光で真っ赤に染まっていた。
「いい匂い~」
と、三人でよだれを垂らしながら呟く。
ミミは猫のくせにおいしそうにドッグフードを食べていた。
「いただきまーす!」
わたしたちはご飯と魚に夢中になった。
途中、鉄平がむせたらしくご飯を盛大に吹いた。
それを見たわたしとちさも、堪えきれずに同じように吹き出す。
そこにミミがすかさずやってきて、吹き出したご飯をぱくぱくと食べて見せる。
わたしたちは笑った。
戦争というものが始まって以来、こんなに笑った事はなかったと思う。
つい最近出会ったばかりなのに、何故こんなにも温かいんだろう。
人間は笑う事のできる唯一の動物だと聞いていたので、今のうちに沢山笑っておこうと思う。
こんな時間がずっと続けばいい……
そう思えるこの瞬間が、何よりもいとおしかった。
ちさが眠りに就いたころ、鉄平がわたしに言った。
「明日朝早く出る。おれの家に軍用車が迎えに来るらしいんだ」
健康な男子は、成人すると徴兵されると聞いたことがある。
鉄平の言葉は、徴兵される年齢が十七歳にまで引き下がっている事実を突きつけるものとなった。
わたしは鉄平を見る。
彼は寝転がり、天井を眺めていた。
「明日で一旦お別れだ」
聞くのが辛い……
「どうしても行くの? 家が無いんだし、このまま死んだことにして一緒に生きることだってできるのに……」
「いや、おれが戦地に行くことによってこの戦争が早く終結するのなら、君やちさを守ることに繋がるんだ。だから……行くよ」
「いつ……帰ってくるの……?」
「わからない。でも絶対生きて帰る。これは君達がいたから、そして君達に出会ったからそう決めたんだ。おれは死なない。必ず戻って来る」
出会った頃に聞いた「死ぬ決心」という言葉は、生きて帰ってくるという決心に変わっていた。それだけでもわたしは救われた気持ちになる。
「信じてる。わたし、ずっと鉄平を信じて待ってるから……」
鉄平の腕がわたしの身体を強く抱きしめた。
「また三人で、いつまでも笑っていられる世界で暮らそうね……」
わたしも鉄平の身体に腕を回す。
彼の胸に耳をに当てると、心臓の音が聞こえた。
トクン……トクン……
ねぇ、ポリバケツ。一つだけあなたにお願いがあるの……
それはね………
わたしたちは、互いに抱き合ったまま、眠りに就いた。
日の出とともに、わたしたちは防空ごうを出た。
ちさはまだ眠たいらしく、うとうとした状態でわたしと手を繋いで歩く。
鉄平は先頭にたってわたしたちを誘導していた。
ミミはちさの後ろに続く。
わたしは朝日に照らされた街の景色を眺めながら歩いた。
わたしたちの暮らしていた街は、ただの瓦礫の山と化していた。
街の中心にあった威圧感のある建物が、軒並み崩れ落ちていた。建物があった頃は狭く感じたこの街も、本当はこんなに広かったんだと思い知る。
人の気配が感じ取れない。
正確な時間もわからない。
彼の家に到着したとして、本当に軍用車が来るのかどうかも怪しく思えた。
三人は無言のまま歩き続けた。
小高い丘のふもとを迂回する。
鳥居が倒れ、長い石でできた階段があらわになっていた。
ここは神社か祠の類があったのだと想像する。
ふと、鉄平が足を止めた。
「田中鉄平! 田中鉄平はいるかー?」
中年の男性の声が耳に届く。
わたしは頭が真っ白になる。
「生きていたら返事をしろー!」
と、瓦礫に向かって声をかけていた。
男性の後ろには鉄の塊のような軍用車が一台、うるさくエンジン音を鳴らしながら停車していた。
わたしは軍用車を初めて見るが、こんなにも屈強な作りだとは思わなかった。
これなら爆弾の一つや二つ受けてもびくともしないだろう。だがこの軍用車でも、ポリバケツほどの頑丈さは無いのだ。
そう考えるとポリバケツ以外は、本当に心許ないことがよく分かる。
「ここにいます!」
鉄平が叫んで男性の元に駆け寄る。
わたしは、気付いたら手を伸ばしていた。
しかし、わたしの指先は彼の服をかすめただけだった。
もう、彼は行ってしまう……
二人は何事かを真剣に話していた。
鉄平は終始男性の言葉に頷きながら「はい!」と何度も大きく返事をしていた。
わたしとちさは顔を見合わせる。ちさはもう涙目になっていた。
かくいうわたしも既に涙目だ。
わたしは彼女の頭にポリバケツをかぶせてあげた。
話を終えたのか、鉄平がこちらに駆け寄って来る。
「ここでお別れだ」
わたしは彼の顔を直視できなかった。
ぼろぼろと、留まる事なく涙が溢れる。
「おいおい。そんなに涙流したら水分が勿体ないだろ」
彼が笑ってそう言う。
「そんなこと言われても……」
横にいたちさが震える両手で、かぶっていたポリバケツを鉄平に差し出した。
「こ……これ、無敵のポリバケツなんだよ。お姉ちゃんから聞いたの」
鉄平がわたしに向き直る。
「これ、君のポリバケツだろ……?」
わたしは小さく頷く。
「いいのか?」
わたしはちさの手からポリバケツを取って、素早く鉄平にかぶせた。
顔を見られないように、おもいっきり深く。
彼は小さく「いてっ」と呻いた。
「わたしの名前……ポリバケツに書いてあるから……」
わたしは今朝、ポリバケツに拾ったマジックで自分の名前を書いた。
彼はまだわたしの名を知らない。
ちさもミミも知らない。後で教えるつもりだ。
今教えてもいいではないかと思うだろうが、面と向かって言うのはなんだか恥ずかしい。
「これ、わたしだと思って大切にしてよね。無くしたら嫌だよ……?」
わたしは昨日から、このポリバケツを彼に渡す事を心に決めていた。
今までわたしを守ってくれたように、ポリバケツは彼を守ってくれるはずだ。
わたしはポリバケツの口を少し上に上げて、彼の口元にキスをした。
彼は何が起きたのかわからず戸惑った様子だった。
「もう、行くね……」
わたしは彼が何かを言う前に、ちさを引っ張って振り向かず、ひたすら走った。
これ以上、彼を好きになってはいけない気がした。
好きになればなるほど、一緒に過ごせば過ごすほど、居なくなった時の悲しみはとてつもなく大きくなるのだから。
どこまで走っただろうか。汗だくになりながら、息が上がるのがわかる。
もう鉄平どころか、あのでっかい軍用車も見えない。
いつの間にか上空には戦闘機の影が幾つも現れていた。
こいつらは人の動きを察知して爆撃する最新鋭の戦闘機。
わたし達は奴らのレーダーに捕えられてしまったみたいだ。
朝から戦闘機に見つかるなんて、運が悪い。
これもポリバケツが無くなった影響なのかもしれない。
三人で過ごした、あの崩れかけた防空ごうまでまだ五キロはあるだろうか。
急に遠く感じる。
近くで大きな爆発が起きた。
わたしは汗ばんだ両手をぎゅっと握りしめる。
わたしはちさを抱き上げて走りだした。
彼女は想像以上に重い。
これが命の重さなのだろうか。
「ちさ、頭伏せておいて。ミミ、ちゃんと付いてくるのよ!」
爆音で、ミミにわたしの声が届いているかどうかまで確かめる余裕などなかった。
こんなところでくたばってなんかいられない。
わたしはちさを守る。そして、生きてまた三人で平和な暮らしをおくりたい。
わたしは鉄平にポリバケツを渡した時、わたし自身がこの子にとっての「ポリバケツ」になる事を誓った。
だから、ポリバケツもわたしの大切な人を守ってくれる……
そう、強く信じていた。
わたしは上空に向かって力の限り叫んだ。
「おまえたちなんかにこの子の命は奪わせない! わたしたちは絶対に生き残って、また三人で幸せに暮らすって誓ったんだから……!!」
そう言い終えた瞬間、わたしの目の前でまばゆい光が炸裂した。
ポリバケツの誓い ―END―