第9話 「母さんのおかげ」
トゥールーズ。
僕はパリでは無く、フランス南西部に位置する都市で修行する事になった。
パリに比べれば田舎も田舎だが、テラコッタレンガを積み重ねた建物が連なる街はバラ色の都市とも呼ばれ、とても美しい街だ。
僕はとても気に入っている。
母さんの友達、ユリさんは直ぐに手紙を返してくれて、とんとん拍子に僕の渡仏が決まった。
ただ、修行をするにはこのトゥールーズの『ティエリ・ルトゥー』、当時ミシュランでは二つ星のシェフのところがお勧めと言う事で、パリには一週間ほど滞在して、僕は『ティエリ・ルトゥー』の門を叩く事になった。
シェフのティエリは、僕の五つ歳上。
現在三十三歳だ。
そう、僕はもう二十八歳になっている。
あれから約九年の歳月が過ぎているのだ。
「ユウ、日本が嫌になったら、いつでも戻って来いよ?」
「ハハ。もし戻って来るとしても可愛い嫁さんも一緒だから、チィーとは一緒に住まないよ?」
僕は二十三歳で既に二つ星をもらった若き天才シェフの元へ住み込みで転がり込み、店以外ではこうしてフランクに語り合う仲になっていた。
彼は独創的なものの考え方をする人なので、僕みたいな何も知らない外国人の思考にもいたく興味を持ってくれた。
何より歳が近い事もあり何かと良くしてくれたのだ。
僕もその好意に酬いる為にも必死で働いたものだ。
「トウカは良い子だからな。大切にするんだぞ? でも一緒に住むのはおいといて、戻って来る事は本当に考えておけよ?」
モモモモさんは卒業旅行だったり、卒業後も年に一度くらいこっちに来ていて、勿論チィーとも面識がある。
独身の彼は日本人女性の良さを知り、最近では日本人と交際しているのだ。
「ありがとう……シェフ」
「チィーで良いよ、チィーで。それより、これを餞別にやるよ」
「………」
使い古されたナイフだった。
彼が料理を志すきっかけになった人からもらったナイフ。
それは早くに亡くなった彼の父さんの形見だった。
普段は使っていないが、しっかり手入れがされていてピカピカと光っている。
今や三つ星レストランのシェフとなった、彼の原点とも言えるナイフだった。
「それは……」
「いいんだ。お前が持っててくれ」
「…………」
彼は有無を言わせずに、そのナイフを僕に握らせた。
彼からは何から何まで教わって、僕はもらってばかりいる。
彼はフランス語もままならなかった僕を一度も嫌な顔をせずに指導してくれた。
母さんの通訳でヒアリングは出来たが、それでももどかしかっただろうに。
「それにしてもユウは不思議なヤツだったよな?」
「どう言う事?」
「だってそうだろ?」
僕を覗き込むように見るチィー。
「だって最初の頃なんか、全く言葉が喋れないかと思ってたら、俺のメモしてたレシピを見て、それにアレンジを加えて斬新な料理を作ったりしてさ。あの時は喋れない振りでもしてんのかと思ったよ?」
そう言って可笑しそうに笑うチィー。
確かに不自然な事を随分とやっていたような気がする。
どれも母さんと一緒にやった事。
言ってみれば母さんが居てくれたから出来た事なのだろう。
それにしても彼は、勝手にそんな事をする僕を叱る訳でもなく、逆に面白がってくれたのが救いだった。
他の仲間が温かい目で見てくれたのも幸いだ。
ユリさんの旦那さんは本当に最高のレストランを紹介してくれた。全く、感謝しかない。
「なあ、ユウ。料理はパッションだぞ。それだけは忘れるな?」
「はい、シェフ!」
「だからチィーで良いよ、チィーで……ハハ」
思わず僕も笑ってしまった。
でも、何故か涙が出て来るのを止められない。
ふとチィーの横を見ると、母さんも目頭を押さえて泣いていた。
それを見た僕は益々涙が止まらなくなってしまった。
「おいおい、そんな泣いてどうすんだよ。今日でお別れとは言え、俺も結婚式には駆けつけるつもりだから、また直ぐに会う事になるんだぞ?」
「…………」
僕は泣き笑いで、言葉に出来ずに頷くことしか出来なかった。
そうして、母さんと二人三脚で走り抜けたフランスでの修行が、今日終わった。
足掛け九年。
長いようで短くもあった。
その間、随分と母さんに助けてもらった。
修業先に母さんと一緒に来るヤツなんでいないだろう。
それこそ「修業をバカにしてんのか!」などと言われ兼ねない。
でも、幸い僕の母さんは誰にも見えない。
だから声を大にして言える。
母さんと一緒だからここまで出来たんだ! と。
母さんには幾ら感謝しても足りないくらいだ。
本当にありがとう。
『本当にありがとう、母さん』
僕の念話で、母さんは声を上げて泣いてしまった。
でも、これは本心で、今言わなければいけない事だ。
母さん、ありがとう!
***
「どうしたの?」
「うん……」
僕を心配するのは花嫁衣装を着たモモモモさん。
とても綺麗だ。
今では「桃花さん」と呼んでいる。
「マリッジブルー……だったりするの?」
「い、いや、そんなんじゃないよ。やっとここまで来たかって、感極まってるくらいだよ……」
実際にそうだ。
彼女と再会し、付き合うようになって直ぐ渡仏した。
やっとの事で迎えた、待ち望んだ日なのだ。
これで満ち足りない事なんて何もない。
何もないが、ただ一つだけ足りないものがある。
母さんだ。
母さんは昨日、
「ユウくんは本当に頑張ったわね。本当におめでとう」
と、おもむろに言ってから、姿を見せなくなった。
今までも、ふいと姿を見せなくなる時はあった。
しかしそれも数時間の事で、半日以上姿を見せない事などなかった事だ。
ほぼ十年、毎日一緒にいた母さん。
そんな母さんが今、僕の側にいない。
あんなに自分の事のように楽しみにしてくれていた、結婚式当日にだ。
一体、何処へ行っているのだろうか。
居るとウザイけど、やはり唐突にいなくなると心配だ。
「おっ、様になってんじゃねえかよ?」
「おお、犬塚!」
そんな時に犬塚が控え室に顔を出した。
コイツと顔を合わせるのは渡仏以来だ。
少し老けたと言えば老けたが、あまり変わっていないのがコイツらしい。
「このまえは時間が合わなくてごめんな? 今や俺も妻子がいる身だからな」
「ああ。僕も帰国してバタバタだったから、合わせられなくてごめんな? でも、今日来てくれて嬉しいよ」
もうコイツには子供が二人いる。
そう考えると長い時間の経過を実感してしまう。
「しかし、本当に料理人になるとは思わなかったよ。しかも、あんな話して直ぐにフランスに飛んじまうんだからな?」
「ハハ、だってお前が料理の道以外は就職しても直ぐにクビになるだとか、お前には転職を繰り返す未来しかないとか言ったんだぞ?」
「そうだっけ?」
すっとぼけた顔をする犬塚。
やはり適当に言ってた事らしい。
でもそのおかげで踏ん切りがついたような気がしているので、今ではあの言葉に感謝している。
犬塚は犬塚で僕の予想通り、義兄の会社で敏腕営業マンとして活躍しているそうで、今や部長さんだ。
流石、口から生まれて来た男。
「とにかく今日はありがとう。食事会みたいなもんだけど、家族で楽しんでってくれよな?」
「おう。でも、お前が感極まって泣くところが見れるとあっちゃ、メシどころじゃねーだろ。三脚立てるしかねーな?」
「泣かねーし!」
僕の返しに犬塚は声もなく笑った。
そして、おもむろに僕のところへ近づくと、
「それにしても、モモモモ……いや、桃花ちゃんは綺麗だな?!」
と、耳打ちして控え室を出て行った。
だろ?
やっとわかってもらえる日が来たか。
なんだか無性に可笑しくなった。
「犬塚くんもあまり変わってないわね?」
「フフ、もって事は無いでしょ? アイツだけだよ、変わらないのは?」
現にアイツは小学生のアイツの身長が伸びてヒゲが濃くなったたくらいなので、当時のアイツを知っていたら、つい笑ってしまうだろう。
そんな犬塚の話題で少し笑いが生まれ、先ほどまでの心配事がすっと軽くなった気がした。
それからはすっかり平常心に戻って式の流れのお浚いをした。
「あ、恵里もティエリさんと一緒に着いたところみたいよ?」
「そうか。間に合って良かった……」
スマホの着信に気づいた彼女は嬉しそうに言った。
恵里さんとはモモモモさんと卒業旅行で遊びに来た大学の友達だ。
彼女は三年ほど前に再びモモモモさんと旅行で来て、いつの間にかチィーと付き合うようになっていた。
鈍感な僕はその事実に一年ほど全く気がつかなかった。
もっとも、チィーも僕に隠していたからしょうがない。
もし早い段階で気づいていたら僕は間違いなく恵里さんに警告していたから。
そのくらいチィーは女性にモテるのだ。
幾ら尊敬している男だとは言え、モモモモさんの友達を傷物にする訳にはいかない。みすみすフランス男の毒牙にかかるのを放っておけない。
そのくらい、チィーは女遊びの方も一流なのだ。
それに、恵里さんは和服が似合うような日本美人で、しかもお嬢様育ち。
当時チィーが手を出していると知ったら、確実にそれを阻止していただろう。
今では彼らも結婚まで秒読み段階と言っていい。
余計な事をしなくて本当に良かったと、今では胸をなでおろしているのだ。
チィーは急にパーティが入ったとかで、危うく日本行きは取り止めになるところだった。
今や人気のシェフになった彼が、僕の結婚式に駆けつけてくれるなど恐縮してしまう。
規模だってこじんまりしたものだ。
一部のネットでは彼の来日について取り沙汰されていたりする。
おかげで未だオープン前の僕の店も話題にあがっている。
彼はそんなところまで配慮しての来日なのだろう。
本当にありがたい事だ。
「準備はよろしいでしょうか?」
神父さんが声をかけて来た。
実はこの神父さんは母さんの友達のお父様だ。
父さんと結婚した時もこの神父さんの前で誓いの言葉を交わしたらしい。
優香さんには悪いが、これは母さんの希望でもあったので、是非にとお願いしたのだった。
「「はい」」
僕らの返事が重なった。
それを聞いた神父さんは笑みを浮かべながら頷いている。
ウチは父さんと優香さんに妹達。そして、犬塚の家族で八人。
一人っ子のモモモモさんは、ご両親に恵里さんとチィーの四人。
招待客は総勢十二人。
それだけ。
純白の花嫁衣装のモモモモさんに対して、純白の調理服を着た僕。
結婚式場は、オープン前の自分の店だ。
十五人ほども入ったら満席の小さなお店。
この控え室も将来は個室として使用する予定の六畳ほどの広さの小部屋だ。
あのアパートを思い出す。
「さあ、行こうか?」
「うん」
僕は母さん不在の動揺を落ち着かせ、妻になるモモモモさんに声をかけた。