第1話 「母さんといっしょ」
「ちょ、ちょっ……」
「ど、どうしたの?」
「い、いや、アレが無いからコンビニで買って来ようと思って……」
僕はそう言うと、彼女を残してベッドから下りた。
「じゃあゴムと一緒にアイスも買って来てくれる?」
「う、うん。い、一緒にアイスもね……」
僕はそそくさとシャツを羽織りながら、部屋を出る前に目配せする。
そして、部屋を出てガシャリと鍵を掛けて溜息を吐いた。
「母さん。お願いだからこう言う事やめてくれる?」
「フフ。バレちゃったわね?」
「母さん、フフじゃないよフフじゃ……。バレるも何も、息子のこんなところを覗き見するなんてどうかしてるよ!?」
母さんはと言うと、頰に手を当ててぽっと顔を赤らめている。
未遂に終わったけど、覗きってある意味犯罪だよね?
このウブな仕草に行動が伴っていない。何を考えているのやら。
困った母親だ。
母親。
僕には母親が二人いる。
父さんと双子の妹と一緒に暮らしている義理の母親と、今、僕の目の前にいる実の母親だ。
産みの親であるこの母さんは、僕が一人暮らしを始めた日に、いきなり部屋へ転がり込んで来たのだ。
本当に困った母さんだ。
ただ、この困った母さんが本当の意味で困るのは、母さんが僕以外の人には見えていないと言う事だ。
そう、母さんは幽霊なのだ。
十二年前、母さんは妹達を出産する際に、妹達と入れ代わる様に亡くなってしまった。
未だ二十八歳と言う若さで死んでしまったのだ。
僕が未だ六歳の時だった。
ただ僕は、母さんが死んでしまった後も母さんが僕の側にいた事を覚えている。
幼かった僕は母さんは死んでなんかいなのだと思っていた。
そのくらい常に側にいてくれて、自然に僕の面倒を見てくれていた。
双子の妹達も見えていたはずだ。
当時の彼女達は未だ小さかったせいか、その時の事は良く覚えていないらしい。
しかし、妹達が母さんに遊んでもらっていた事は僕が良く覚えている。本当に自然に遊んでいた。
そして母さんが死んでから三年ほど経ち、父さんが今の母さん(優香さん)と再婚したのを境に、だんだん母さんは僕らの前から姿を現さなくなったのだった。
最近現れた母さんに、何故あれから出て来なくなったのかを聞くと、
「だって、賢治さんが新しいお嫁さんもらったんだもの。遠慮しなくちゃね?」
と、もじもじと体をくねらせて言っていた。
「賢治さん」とは父さんの事だ。
母さんは父さんが大好きなので、父さんが自分以外の人と幸せに暮らしているところなんか見てられなかったのかも知れない。
いや、新しい母親の優香さんが僕や妹達の面倒を良く見てくれる優しい人だったので、早く新しい母親に慣れて欲しかったと言っていたから、父さんや僕等の幸せを優先しての事だろう。
まあ、そのおかげもあって、妹達はすっかり優香さんを実の母親の様に思っている。
勿論、僕も本当の母さんの様に思っているのだが、妹達ほどナチュラルには思えない。
やはり、母さんが死んでしまった六歳まで、べったり甘えまくっていたせいかも知れない。
それに、死んでからも三年の間、生前と変わらずに甘えていたのもある。
そんな訳なので、僕は九歳までで完全に母さんっ子になっていた。
つまり、僕の中での母さんはこの母さんで定着し、不動のものになっていたのだ。
母さんは、そんな甘えん坊の僕が心配だった様で、僕が家を出て一人暮らしを始めたのを放っておけず、また姿を現したのだった。
あの日と、まるで変わらない姿のまま。
二十八歳の母さんは、僕の歳が近付いたせいか、より若く見えた。
そして、なんと言っても美人だ。
そんな美人な母さんは、僕を未だ六歳の子供の様な目で見ている節がある。
まあ、母さんの血を受け継いだ妹達と違って、僕は頭も良くないし、やることなすこと空回りする性分なので、単純に放っておけないのもわからなくはないが。
そして、今考えると母さんはハイスペックな主婦だったんだと思う。
一流大学を卒業し、専攻していたフランス語も喋れる。何より割烹料理屋の娘だからか、料理もプロ並みに上手いのだ。
そこへ来て美人と来てる。
今の母さん(優香さん)には悪いが、母さんと比べてしまうと全てが見劣りしてしまう。
いや、優香さんだけではない。大抵の主婦は見劣りしてしまうだろう。
生粋の母さんっ子ならではの激甘な採点かも知れないが、僕はそう思っている。
そんな母さんが何故あの父さんを?
今になって凄く疑問に思ってしまう。
そして、これも最近聞いてみた。
「だって、賢治さんって優しくて面白いしカッコイイし……。それに、子供の頃からずっと好きだったのは、お母さんの方だったのよ?」
と、顔を赤らめながら口を尖らせた母さん。
母さんと父さんは、小学校は同じ学校に通っていた。
頭の出来の違いと家庭環境で、その後は別々の学校へ進んだが、要は地元が同じで実家も直ぐ近くにある。幼馴染、と言う訳だ。
そして、母さんが言っていた事には、母さんフィルターがかかっている。
父さんは、優しくて面白いと言えば聞こえがいいが、馴れ馴れしいバカと取られてもおかしくない。
妙に人望があるので、悪い人間ではないのだろうが。
そして、何よりも決してカッコ良くはない。
どちらかと言うと悪役を演じる様な俳優面。
好きな人には堪らないのかも知れないが、絶対に一般ウケするカッコイイとは違う。
父さんは高校を中退し、暫く友達の家を渡り歩いて暮らしていたと言う。
そんな時期に友達の知り合いがラーメン屋を開店すると言う事で、住み込みで働く事になったそうな。
そこへ偶々友達と食べに入ったのが、当時大学生だった母さん。
二人は偶然の再会に驚き、そして直ぐに惹かれ合ったんだと。
そんな事を母さんは、照れ臭そうに、そして誇らし気に語っていた。
それから二人は付き合うようになり、暫くして母さんは僕を身ごもった。
しかしその頃の父さんはラーメン屋の住み込みな訳で、小遣い程度の給料しかもらっていなかったそう。
店の経営が上手く行ってる訳ではなかったので、母さんの妊娠を知った父さんは給料を上げてもらう訳にも行かず、偶々そこにいたお客さんに声をかけ、そのお客さんのペンキ屋に転職する事を決めたんだと。
そんなこんなで営業職として働き始めた父さんは、馴れ馴れしい性分を発揮して、会社にとっても新規を獲得するなど目覚ましい活躍を見せながら、僕を妊娠した母さんを十分に養ってくれたそうな。ちなみに父さんは順調に出世して今では部長さんをしている。
「賢治さんって凄いのよ!」
と、こっちが恥ずかしくなるくらいの母さんのドヤ顔が今でも記憶に新しい。
と、まあ簡単に説明すると、こんな感じの母さん。
僕も大好きな母さんだ。
成仏だとかを考えると微妙なんだけど、僕は母さんが幽霊であっても大歓迎である。
しかし、こうもべったりだと些か困りものである。
「でも、お母さんってば幽霊じゃない? だから覗き見とかじゃないと思うのよね?」
「いや、立派な覗きです……」
これだ。
なにかあると直ぐ自分が幽霊な事を理由に開き直るのだ。
「でもなあ……。やっぱりお母さんは、初めては大事にした方がいいと思うのよ?」
「え?」
急に何を言うのだ、母さん。
思わず立ち止まってしまった。
「だって、男の子だって初めては特別よ?」
「いや、だってって母さん……。って言うかなんで僕が童貞だって知ってるのよ!」
「フフ、知ってるわよ。だってお母さん、幽霊だもん」
「………」
またそれだ。
母さんの場合、なんでも幽霊で通ってしまうのかも知れない。
「それに、ユウくんだって、あの子の事好きとかじゃないんでしょ? そんなんでせっかくの初めてを捧げてしまったら、きっと後悔するわよ?」
「それは……」
確かにそうだ。
僕は童貞を卒業したいが為に、ただ焦っていただけだ。
何処かで「これで良いのか?」などと思っている。
あの子とは、数時間前に先輩のバイト先で会ったばかりの関係だ。
かなり先輩から彼女へ僕のチェリー話が行っている節があり、彼女はそれ目当てで僕に声をかけて来た感が否めない。
「ほら、図星じゃないの?」
「だから……。とりあえず母さん、コンビニへ急ごう」
立ち止まってブツブツ言っていたせいで、通りすがりのOLに変な目で見られてしまった。
とにかく外へ出た口実のミッションをこなさなければ。
母さんはクスクス笑いながら僕の横を歩いている。
時折通行人が母さんを通り抜けるのは、もう慣れてしまった……。
「レシートはご入用ですか? ありがとうございました」
僕は無事にミッションをこなし、コンビニを出た。
因みにアイスは母さんが選んだ。
「ねえねえ、考え直した方がいいんじゃない?」
「母さんの言ってる事もわかるんだけど、もう買ったんだよ?」
僕はコンビニ袋を持ち上げる。
アイスと一緒にボックスがくっきりと透けて見えている。
「そうねぇ……。確かに、女の子に恥をかかせる事にもなるわよね……?」
「いや、ここであっちの味方になるの?」
眉をひそめて僕を見る母さんに思わず拍子抜けしてしまう。
さっきまで僕の心配をしていたと思いきや、急に「お前は女の敵だ!」的な目を僕に向けないで欲しい。
「フフ。いつだってお母さんは、ユウくんの味方よ?」
「なんだよそれ……」
こうして満面の笑みでストレートに言われると、どうにもむず痒い。
「そっか。でも、ユウくんも今日で大人になるのね……」
「………」
少し寂しげな、そして感慨深げな面持ちで遠くを見る母さん。
こんな話、初めて事をいたす前に母親とするものでは無い。
無いからこそ、「母親はこんな顔をするんだ」と、何だかこちらも妙な感慨を覚えてしまう。
しかしそんな僕の感慨も、母さんを素通りするオジサンを目にしてた途端、一気に現実に引き戻される。
「母さん、わかってるとは思うけど、戻ったら中へ入って来ないでよ?」
「フフ。それは振りかしら?」
「全然振りじゃないからっ!」
「フフ。でも初めてなんだしょ? やり方とかわかるの?」
「わからなくったって、母さんに補助を頼む訳ないでしょ……」
全く、母さんは何を言っているのやら。
一人で楽しげに笑っている母さんを見ながら、ひたすら憂鬱になって来る。
本当に覗かないだろうか……?
「お待たせ……って、どうしたの?」
僕は部屋のドアを開けた途端、その光景に動揺してしまった。
さっきまでベッド状だったものが、ソファに様変わりしていて、そこで例の女の子がスマホを弄っていたからだ。
「良かったー。ちょっと呼び出しかかっちゃったから、帰ろうかと思ってたとこだったのよ?」
「そ、そう……」
僕の顔を嬉しそうに見ながら言う彼女。
僕はコンビニ袋を所在無げにぶら下げながら、ただ相槌を打つしかない。
「せっかくアイス買って来てもらったのにゴメンね?」
「い、いや……。良かったらお土産にどうぞ」
僕はボックスを見られないようにしながら、素早くコンビニ袋からアイスを取り出した。
「ありがとー。じゃ、今日は帰るねー」
「はあ……」
あっさりとアイスを受け取りパンプスを履く彼女。
本当、あっさりとしたものだ。
スマホを手にバイバイする彼女をドアが閉まるまで呆然と眺めてしまった。
「良かったじゃないの?」
「うわっ」
いつの間にか母さんが後ろにいた。
って言うか、覗く気満々だったんじゃなかろうか。
「まあ、良かったっちゃ良かったのかもだけど……」
「良かったのよ。うんうん。ほら、アイス食べましょ?」
「………」
僕は無言でアイスを出し、ボックスの入ったコンビニ袋はそっとソファの下に滑らせる。
そして母さんと並んでソファに座った。
因みに、母さんは幽霊だけど普通に飲食が出来る。勿論、飲まず食わずだからと言って死ぬ事もない。ただ、何を口にしても味覚はないそうだ。
「あら、このアイス当たりだわ。美味しい!」
「そ……」
僕に気を使っての事か、味覚もないのに白々しく盛り上がってみせる母さん。
こんな状況だと幽霊であっても母さんがいてくれてありがたい。
一人よりかは幾分救われた気分にもなる。
「あのね、賢治さんとお母さんの初めてはね……」
その後母さんは、僕としてはあまり聞きたくない両親の初めての話を永遠に話し続けた。
恥ずかしそうに、そして懐かしそうに。
でも話を聞き終えた僕は、「なんか良いな」と、思ってしまった。
そのくらい僕の目には、母さんが幸せそうに映っていたのだ。
鬼嶋雄。
もう直ぐ十九になるフリーター。
僕はこうして幽霊の母さんと暮らしている。
決してマザコンではない。母さんは幽霊だし。