心の一片なんだが
アリサとの模擬戦漬けの1週間。
結果は、俺の勝利が6割だった。
「うふふ!」
リビングのソファーに寝ころぶ俺の周りを、上機嫌でぐるぐるとアリサは回っている。
こっちは疲れているのに、静かにしてほしい……と思いつつ、俺は彼女をちょっと苛めたくなってしまう。
「アリサ先生、負け越しているのにえらい上機嫌だな?」
アリサは、ぐでんと横になっている俺の目の前で、腕を組み仁王立ちした。
「私はね、エドガーが順調に強くなっているみたいで嬉しいの!優秀な先生のおかげね!」
ドヤァ、と満足そうなアリサに、俺はこれ以上いじる元気もなくなる。
(――逆効果だ、コレ)
「実際、魔術師同士の戦い方もわかってきたし礼を言っておくよ、アリサ」
「どういたしまして!」
さらに嬉しそうに、エッヘン、と胸を張る。
***
アリサとの訓練で痛いほど学んだのは、魔術師同士の戦いは『先手が勝ちやすい』、ということ。
相手のイメージが追い付かなくなるまで様々な攻撃をし続ければ勝てるのだ。
攻撃側は、攻撃前に相手がそれにどう対処するかを考えることができる。そして相手の対処の仕方に合わせて、ひたすら攻撃するイメージをしていればいい。相手が倒れるか、自分の魔力が尽きるまで。
だが防御側は、相手の攻撃を確認したらとっさにそれへの対処を考えイメージしなくてはならず、もちろん防御をしている間にも攻撃は飛んでくる。それにも思考しながら対処し続けなくてはいけない。
また、反撃しようにも防御のイメージと同時に攻撃のイメージをしなくてはならない。
特に未知なる攻撃、いわゆる初見殺しには弱く、パニック状態になり、うまくイメージができなくなってしまう。
簡単に言ってしまえば、防御側は攻撃側より考えることが多すぎるのだ。
そこで、自分の魔法の性質を思い出す。
まず、この魔法は攻撃範囲の同じ者同士の戦いなら距離で先手を取ることができる。魔力で加速した物体を飛ばすことが出来るからだ。
さらにまた、自分の魔法は領域内での物質全て、つまり敵の魔法の壁すら動かすことで、自分の攻撃の補助も行える。
つまり、こちらから相手の攻撃範囲外から攻撃しつつ、相手の防御手段がこちらの魔法範囲内に入れば勝ちとなる。
対人戦において圧倒的に有利なのだ。俺の空間魔法は。
これを利用することでアリサから勝利をもぎ取っていた。
***
「それにしても、エド。あなた、恐ろしいスピードで魔力が増えているわね。
前なんてナイフ10本飛ばすだけでへばっていたのに」
「……確かにな」
――そう、召喚当初とは比べ物にならないほど、俺の魔力もずいぶん成長していた。
「普段の食事で魔獣の肉ばかり食べているからかしら。魔獣なんて普通ならそう多く食べるものでもないしもしかしたら……」
アリサが歩き回るのを止め俺の隣に座り、何やらぶつぶつと言い始めた。
(最近アリサ先生モードにも見慣れてきたな)
アリサには、考え事を始めると独り言を呟いて考えを整理する癖があった。
俺はそんなアリサの頭に、ぽん、と手を置く。
「――アリサ、俺はもっと強くなりたい」
――お前を守れるように。もう後悔しないために。
「……エド……」
それを聞いたアリサは、俺を見つめ――。
「……ずっと弱いままでもいいのよ?」
虚ろな眼で、ぼそっと言う。
そんなアリサの様子に、本能的に俺の背筋に嫌な予感が走った。
「……それは」
俺は――。
……いや、まだいい。まだ早い。
「……アリサ、ところで今日の晩飯は何だ?」
「シチュー。エド、好きでしょ?」
「ああ、楽しみだ」
そう答えるアリサはもう、普段と変わらない優しい笑みを浮かべていた。
この世界に来て確かに俺は強くなった。
普通の魔術師ではもう俺に太刀打ちできないだろう。
だが俺は――いや、俺の心は弱かった。
***
夕方。
アリサは、自分の内の何かと戦っていた。
……少し前にエドガーが風呂に入った。
アリサの眼の前にはエドガーの脱ぎたてのワイシャツがある。
まだ暖かく、しっとりとしていた。
それに、今日の訓練でそれがエドガーの汗を多く吸っているだろうことは想像に難くない。
とても濃いに違いない――エドの匂いが。
そう考えただけで、アリサの下腹部に甘い痺れが走る。
「……洗濯しないとね」
アリサはエドガーのワイシャツを拾うと――アリサの鼻を、ムッとした匂いが襲った。
それを吸い込んでしまったアリサの頭の奥がクラッとする。
(これは危険だわ。魔導士の私すらこんな簡単に追い詰めるなんて……)
アリサは目の前の『危険物』をまじまじと見つめた。
「……これは研究が必要ね」
(――まずは、より深く敵を知ることが大事よね)
「……私がやるしかないのよ、アリサ」
そう自分に言い聞かせ、決意を固めたアリサは、ワイシャツを自分の顔に押し付け――ギュッと抱き締めた。
「……ぅくっ♡」
ぷるぷる、と震えるアリサの体。
瞳はとろとろに潤み、柔らかい足の裏がぴくぴくっと震える。
――その時だった。
――ガラガラッ!
勢いよく、風呂場の戸が開き――そこから顔を出すエドガー。
目が合う、二人。
「――ッ!」
どちらの声かもわからない叫び声。
(エドに――見られた!)
よくわからない、しかしなぜか異様に激しい興奮がアリサを襲う。
( ――い、いや、大丈夫よ、落ち着くの、アリサ・フェオ・アステリア。
4人の魔導士が一人――“紫”の魔導士・アリサ。
どの場面にも氷のように冷たく冷静で、どの場面でも炎のように攻め、臆しない――その偉大なる頭脳をここで活かす!)
目を混乱でぐるぐると回転させ、わちゃわちゃと両手を顔の前で振りながら、アリサはエドガーに弁明を始めた。
「――え、えっと、あのね!違う、違うの!全くの誤解なのよ、エド!
これは、これはね!匂いを嗅ぎたくて嗅いでいたとかじゃなくて…。
……え、えっと、その……そ、そう、あれよ!
実は私、汗の臭いでその人の体調が分かるの!エド限定で!すごいでしょ!
エドの体調を見るためにわざわざきつい匂いの服嗅いであげたんだから、感謝しなさい!」
(――我ながら完璧な弁明だわ!流石よアリサ!)
自分のとっさの脳の回転に、脳内アリサが称賛を送る。
「ア、アリサ?匂いを嗅いだとか嗅がないとかはよくわからないが……」
「……ッ!」
アリサはエドガーの言葉に自分の顔が赤くなるのを感じた。
……最も、既にこれ以上ないほど赤くなっていたが。
「石鹸を」
「わ、わかったわ!すぐ持ってくる!ちょっとまってて、エド!」
ととととーっと廊下を走っていくアリサを見て、エドガーは呟いた。
「俺も疲れているみたいだ、アリサが匂い好きの変態だと思ってしまうなんて。
理由があるなら仕方ないよな、ハハハ……」
エドガーは日々の訓練の疲れのせいか、虚ろな目をしていた。
……正直に言うと、エドガーは見てしまっていた。
アリサが顔をエドガーのシャツに埋め、一心不乱にその匂いを嗅いでいるところを。
次の日にはエドガーはこのことを完全に忘れた。
本当に自然に忘れたのか、それとも忘れたかったのかは本人しかわからない。
一方、アリサは今後この研究は隠れてするよう決めた。
……彼女の研究は、今後も続いていくことだろう。