52.pain
52.pain
いつの間にかそれは起こっていた。自覚などできるわけもなく、薬に犯された体、脳、そして心なんていうどこにあるかもわからないものも、パチン、と指を鳴らされてもないのに、いつの間にかかけられた催眠術は解けていった。ゆっくりと、ゆっくりと、確実に。
記憶が……。
彼は手を無意識に左目にあてる。最近はずっと、ここに来てからは特に、左目が痛む。それに意味はあるのか? もちろんあるだろう。ぼやける視界。失われる平衡感覚。
「……ズ! ……ミズ!」
揺さぶられる体。自分がソファーの上で寝ていることに気付いた。
「フラニー……」
ミズはちゃんとその名を呼んだ。目の前にいる、長い黒髪の女の子。
「どうしちゃったの? 急に倒れた!」
フラニーはどこか言葉遣いがおかしい。いつものことだが。
「ああ……、ごめん。どこだっけ? ここ」
ミズはフラニーの顔を確かめた後再び左目を押さえた。
「痛むの?」
「え? ああ、なんか、調子悪くて……」
何をしていたっけ? ミズは意識を呼び起こし、必死に自分の頭を整理していた。
「見て、これ」
フラニーは差し出した。ジャラッと音を立てたそれは、鉄でできた眼帯のようなものだった。薄い鉄に鎖がかけられ、フックで止められるようにしてあった。
「もしかして、これで楽になる?」
心配そうにミズを覗きこむフラニー。
「どこにあった?」
ミズは厳しい表情でフラニーを見た。フラニーは少し後ずさりしそうになる。
「あの机の上、ミズが倒れている間に色々調べてたの」
ミズは部屋を見渡した。ここに入ってきた状況を思い出す。白のビショップ。リアの顔。僕の前に跪いて……。
「ミズ……、ミズはもしかして……」
フラニーはおずおずと話す。特徴的な吃音は治っている。
「ま、待って……」
ミズは左目の視界がぼやけて再び倒れてしまいそうだった。
「ミズ!」
フラニーは駆け寄る。
「やっぱりこれ、眼帯だよ」
「ああ、とにかく左目を開いてられない。その眼帯で左目を塞ぐ」
ミズは重々しいその眼帯をとった。そして左目に付ける。どういうわけか、独特のディティールで、付けることに手間取りそうだったが、すぐに付けることができた。そして、特注品かと思うほどのものなのに、サイズがぴったりだった。
「はっ……!」
ミズはひんやりとした鉄の金属の肌を感じた。
「あ……、熱い!」
そして、次におそってきた鉄の熱に目が焼け落ちそうだった。ガリガリ、と左目の眼帯を手で引っ掻く。
「ミズ!」
フラニーは必死にミズをなだめようとするがミズは発狂してフラニーには止められない。
「早く取って! 取るのよ!」
「うぅ……!」
ミズは左目を貫通する焼けた鉄の棒に刺された……、そんな幻覚を見ていた。それは幻だとしても、ミズの体に実際に起こっていることだった。
「ミズ! 誰かっ! 誰か!」
フラニーはいてもたってもいられず扉の外へ駆け出した。
「誰かっ!」
ジャスティー!
その名を心の中で叫んでいた。ジャスティー、助けて! ミズが死んじゃう!
フラニーは廊下を走る。無機質な廊下。地下研究所は恐ろしく冷えていて、自分の足音だけが不気味に響いていた。ここには自分1人しかいない。ミズすらもいない。ここは、絶対的に孤立した空間だと、そう錯覚させる何かがあった。
しかし、人はちゃんといた。その証拠にフラニーは思い切りぶつかって真後ろに転がった。
「いっ……たぁ」
フラニーは後頭部を打った。
「地に足がついてないんじゃないの? しっかり踏ん張れば、そこまで倒れるような衝撃じゃないと思うけれど」
ぶつかった相手は平然とそこに立っていた。
「ま、たしかに痛いわ。私だってね」
フラニーは倒れたまま、相手を確認した。そして、すぐに身軽に体を起こした。
「あら」
リアは白衣姿でそこにいた。身軽に体を起こしたことになぜか感心なんてしたから、リアはすぐさま形勢逆転の立場にたたされることになった。
「くっ!」
苦い声が漏れる。
フラニーは持ち前の身体能力でリアに飛びかかった。短期戦ならジャスティーにも負けなかった格闘技術がフラニーにはある。一方リアはとことん苦手だった。不意も突かれたし。
「やっぱり……、お前……お前……」
フラニーはブツブツと呟きながらリアにパンチや回し蹴りをお見舞いしていた。リアは後ろに下がりはするが急所だけは守っていた。
「くそっ……!」
リアは自分の白衣のポケットにあるものを取り出したくてたまらない。
「お前……、ミズに何した!」
「ミズ?」
ひょいと出たリアの本当にびっくりしたような声にフラニーは思わず手を止めた。明らかに、ミズのこと、つけ狙っていた女なのに。その疑問があった。
「ああ、ミズね、慣れないから、その名前」
リアは薄らと笑った。
「何?」
フラニーは眉間に皺をよせる。
「それに、似合わないし」
「なんだと!?」
ミズの名前は、レイスターが希望を込めて付けた名前だ。ミズ以外にミズはいない。私が呼ぶ「ミズ」の響き、この世でいちばん美しい名前を呼ぶ。その時だけは、私は意味のある言葉を発していると思える。いつも、どうでもいいことばかり口に出してきた。あまりにどうでもいいから、言うか言うまいか言いながら迷ってしまう。フラニーの吃音の原因はその繊細さ、感受性の強さにあった。
リアの右頬を、フラニーの右上段回し蹴りが捉えそうだった。
「フラニー!」
フラニーはその声に止まってしまう。いつだって、どうしようもなくその声だけには敏感だった。
リアの顔がほころぶ。その表情をフラニーは見過ごす。フラニーは真っ直ぐにミズを見た。リアに後ろ姿を見せた。
「ミズ……」
そこに滴るものはなかった。
「ミズ……」
リアの手にあるのは注射器だ。ゆっくりと体を毒していく。
「血が滴って死ぬのなんてもう時代遅れなのよ」
リアは笑ってそう言った。
「ミズ……」
フラニーにリアの言葉なんて聞こえていない。ただミズへと一歩一歩近づいて行く。
ミズは笑っていた。いつだって、ミズは笑っている。どうしてあなたに惹かれたかはわからない。ただ、心がずっと好きだった。ミズ、あなたは、一度だって私のこと見てくれなかったよね? だって、軽く触れたことすらなかった。
倒れたあなたの肩を揺さぶるあの瞬間でさえも、私は幸せだったと思うと、
「フラニー」
ミズは、自分の胸まで辿りつき、そこへうなだれるように倒れ込んだフラニーを、支えてやることさえしなかった。
それでも、
あなたの胸の中で死ねるのなら、私にしては上出来かもしれない。
白い床に倒れ込んだフラニーは笑っていた。
「まぁ、幸せそうな顔。毒が脳までまわったのね」
リアが嬉しそうに言った。