愚者のための美
水滴の落ちる音が響いている。
相当広い部屋であるということは分かる。それ以上は、目隠しをされている私には分からない。彼女なら別かもしれないが、私はそもそも非日常に慣れていないのだ。たかだか一人殺したことがあるくらいで、そちら方面の経験値が貯まるはずもない。
現状、私は目隠しをされた状態で椅子に座らされ、腕と脚を厳重に拘束されている。よくある人質の図といえばいいだろうか。
こうなる直前の記憶は、探し物をしていたら背後から薬品を染み込ませた布を口にあてがわれたところで終わっている。こちらも、よくある誘拐の図というのが早そうだ。
「あのー、誰かいますか」
返事はない。うーん、困った。実のところ尿意がまずいことになりつつある。体を動かせなかったり、水音が聞こえていたりで、かなりまずい。いくらなんでも大学生にもなって失禁は駄目だろうと思うが、ちょっと危険だ。
身の危険が迫っているかもしれない状態でそんなことを考えているあたり、私もとうとう狂ってしまったのかもしれない。まあ彼女ほどではないとは思うけど。
「おーい、誰もいませんよね。信じますからね」
誰にも見られていないならまあいいか。誰かに助けてもらえたら、恐怖で漏れたことにでもしておこう。
ことの発端は、いつも通り彼女が無茶な提案をしてきたことにある。
そもそもこの平和な国において、死体だとか魔術だとか、そういった異常なものは人の目につかないようになっている。それを探そうというのだから、彼女の行きたいところは大抵闇の中だ。ここのところ、真っ暗なだけの闇と異常さを孕んだ闇の差異が肌で感じられるようになってきて、我ながら数ヶ月でよくここまで成長したと思う。
「今日は探し物があるんだ」
彼女はそう言って笑った。アルカイックスマイル。私が告白した日からどんどん自然になるその表情こそ、彼女に相応しい。二つの鏡像の合一、その成果を、私は心底美しいとおもうのだ。
「僕の知人……いや、ここは素直に友人と言おうか。その友人の友人が行方不明になった。その子を探したい」
「探し人じゃなくて探し物っていうあたり、そういうことですか」
「そうだね。まあそれは僕の分析の結果であって、間違っているかもしれない」
人が死んでいるかもしれないのに、その言葉には何の感情もない。というのは言い過ぎだが、少なくとも恐怖だけは微塵も感じられなかった。
「というわけで、探しに行こうか」
「あー、漏らしてる」
「ちょっと、見てないで解いてくださいよ」
「ごめんごめん、その鎖使って縛るのが早そうかな」
そう言いながら、彼女は私の目隠しを取り、次いで手足の拘束を解きにかかった。
ようやく解放された私の視界には、こちらを凝視している無数のマネキンが飛び込んできた。正直、追加で漏らした。これはホラーすぎる。
「ああこれ、ここの主の趣味。彼、マネキン作るのが趣味みたい」
「うわぁ。それで、私はなんで誘拐されたんですか」
「その腕。特に肘関節辺りが気に入ったんだってさ。流石に僕もそこまでのフェチズムは理解できないから、代わりに君に腕枕をしてあげたときの寝顔について語ってみた」
「え、えっと」
「そうしたら、「君の大切な人を傷つけるつもりはさらさらない。石膏で型だけ取らせてもらえないだろうか」って」
やけに紳士的な変質者であった。
いや、それなら何故鎖で縛りつけた上で、マネキンの群れに凝視させていたのだろうか。
……マネキンに人間の仕草でも学習させようとしていたのだろうか。
「あれ、そういえばさっきこの鎖を使うとかいってませんでしたっけ」
「「その鎖使って縛るのが早そうかな」、だね。その対象なら、そこに転がってる」
指さした先は部屋の入口。そこには、私達と同年代くらいの女子が倒れていた。
控えめに言って酷い状態で、ほぼ半裸だ。見える肌は痣だらけで、髪も一部引きちぎられている。
「あのですね。あれ、私達が探していた人物に似ている気がするんですけど」
「そうだね。私もそう思ったんだけど、言葉が通じなかったから物理で眠ってもらった」
間違いなく、会話が成立していたら「忌み言葉」を使ったはずだ。彼女の必殺技であるそれは、ものによっては聞いたもの全員を速やかに廃人にできるという。超能力でもなんでもなく、催眠術や洗脳の延長線上にある技術だというが、私が同じ言葉を発しても意味がないあたり属人的な異能に思える。
しかし、倒れているのはどこからどうみても我が国の人間に見えるのだが。言葉が通じなかったというのは、もしかして本来の国籍はお隣の国で偽名を使っていたとか、そんな話だろうか。
「ちなみに通じなかったっていうのは母国語がどうのって話じゃなくて、ようはラリってたってことね。服装、乱暴な注射痕、その他諸々から見てそういうことかな」
なるほど。自衛能力のない私のような女の子にとっては、マネキン大好きな異常者よりずっと怖い相手だ。
ようやく四肢を解放された私は、彼女が探し物を鎖で巻いていくのを横目で見ながら、マネキンコレクションを観察していた。近くで見ると、一体一体が違う顔で、しかしその全てが美女だった。体の各パーツも一体ずつ違う。製作者は天性の才能をお持ちのようだ。
「興味があるなら話していくかい」
「いえ、結構です」
流石に私は誘拐犯と話したいと思うほど狂ってはいない。彼女なら嬉々としてインタビューをしてきそうだ。
「ともあれ、探し物は見つけたわけですね」
「そうだね。それじゃあ帰ろうか。腕の型だけ取らせてあげて、さ」
誰もいなくなった部屋に、男が入ってきた。
彼が見つけた少女。明らかに通常という軸から外れた「匂い」のする彼女が座っていた椅子に近づき、申告通りの異臭に顔をしかめる。
ここは彼の所有する地下室。連れてきた客人を迎えるためのゲストルームだ。次の客人に失礼となっては困るので、彼は入念に掃除を開始した。臭いが取れるまで拭き掃除を行い、終わった後は掃き掃除だ。鎖は買い替え時か、とため息をつく。彼が誘拐してきたのは全て「匂い」のする人物だ。中には脳のリミッターを自力で外せるような人物もいて、鎖はその時にダメージを受けていたから、そのうち交換しなければならなかった。
部屋の隅々まで、マネキンを含めて掃除を終えると、彼は今も定期的に響く水滴の音の源へと向かう。部屋の奥、錯覚で偽装された横穴だ。
そこには、自分の指先から流れ落ちる血の雫を凝視する、美しい女がいた。
彼が狂った人間を客人として迎えるのは、彼女を発見してしまったからだった。それは人間の言葉を介さず、食べることと眠ること、そして自分から流れる血を見ることしか知らない。その在り方に自分とは全く違う「匂い」を感じたからこそ、彼はその他を蒐集することを思い立ったのだ。
結果として、彼らから集めたパーツを用いたマネキンが近々完成する。これまで他人に触れることなく作り上げてきた自分の理想達とは程遠い、均整のとれていない不格好な人型だが、それこそが自分の生涯最高の傑作になると彼は信じている。
今日集まったのは右肘と鎖骨だ。右肘の原型は彼が連れてきた少女で、こちらはなかなか歪でレアな「匂い」を纏っていた。しかしやはりその伴侶を名乗った鎖骨の少女こそ、彼にとっては特別であった。基本一人の人間からは左右片方のパーツしか選ばない彼が、両方のパーツをかたどらせてほしいと懇願したのはこれが初めてだ。
比翼の鳥を縫い合わせ、一つにしたような違和感。にもかかわらず、元から双頭の鳥であったかのような自然さと神々しさ。そしてそれそのものが訴えかける、異常さ。その全てを兼ね備える彼女から対称性を欠くことは、彼にはできなかった。
「君は美しいと思ったことがあるだろうか」
微動だにせぬ美女に、彼は語り掛ける。
「ああ、あの「匂い」を形にできれば、君にも見せてあげられるのだろうか」
「そうでした。どこで探し物を見つけたんですか」
「早々にネタばらしをしてしまうと、あのマネキンマスターが住んでいる建物の近く。あれ、一種の結界なんだよ」
「えっと、魔法かなにかですか」
「忌み言葉が魔法ならあれも魔法だね。簡単に言うと、正常な判断力を有する者には絶対に近づけないような配色や造形、環境音で構成された領域さ。僕はそれを理解する側だから、手掛かりになるかもしれないと思って踏み込んだ。そうしたら君が捕まってたりして驚いたけど」
「ああ、偶然だったんですね」
「まあね。で、件の彼女は結界に迷い込んでいた。加害者とはそれではぐれたんだろうね。正常なものを弾く結界は往々にして異常なものを招き入れるというから、そういう力が働いたのかもしれない」
「私達にとってはラッキーでしたね」
「生きてる方がつらい状態での回収になったけどね。あ、そうだ。マネキンマスターが言ってたんだけど」
「何ですか」
「「彼女を招くとき、後ろからガラの悪い不審な男三人が後を付けていたが、知り合いか」だってさ。これ、もしかしたらかなりギリギリだったかもしれないね」
「……今度マネキンマスターさんに菓子折り持っていきます」
「「誘拐してくれてありがとうございました」ってかい。なるほど、それは傑作だ」