分岐点
驚いたな、と彼は言った。
いつも通りの穏やかな表情で、自分の腹から噴き出す赤を見つめながら、僕を殺すのは「※※※」だと思ってた、なんて。
異常な人だというのは分かっていた。理解し合えないことも納得した上で、私は彼を好きになった。そんな彼を殺しているのは、私が彼とは別ベクトルで異常だからに過ぎない。
「怖がらないんですね」
いなくなるわけじゃないからね、と。殺している側が言うのもなんだけれど、間違いなく彼の方がおかしいと思う。普通に怖い。
「死ぬんですよ」
確かに僕は死ぬけど、死んだ人間は人の心の中で生き続けるって言うよね。……どうしよ、多分この人、別の意味で使ってると思うんだけど、何のことかさっぱり分からない。
それじゃあさよなら。もう一人に会ったらそっちもよろしく。……あと、「好きです」の直後に刺すのは結構意外性があっておもしろかったよ。
大学の図書室で本を読む。それは私の日課であり、彼を覗き見るための前提でもあった。
こうして彼を殺した後もここに来るのは、私なりの代償行為なのだろうか。益体もないことを考えながらページを捲っていると、何故か視点が一つの単語に釘付けになった。
強迫観念。
その四文字から視線が剥がれなくなって、たまらず私は本を閉じた。
愛憎。執着。アーキタイプ。クオリア。固定観念。クラウド。脳幹。細胞小器官。臍帯。魔法。共振現象。憧憬。鏡像。
まずいことに、私の脳内には何かが住み着いたらしい。得体の知れないものが内側で組み上がっていくにつれ、私が私を制御できない時間が増えていく。
それは私が特定の言葉を見る度に膨れ上がり、気づけば私を操作している。それが彼の残したものだと気付くのに時間はかからなかった。彼なら死んだ後にとり憑くくらいならやりそうだったし。ともかく、私にできるのはこれ以上新たな単語をそれに与えないことだけだった。
「へぇ、辞書か。確かにそれは効率的な方法だ。僕の想定外だったけど」
決意を新たにした次の瞬間には、私は図書室で国語辞典を読んでいた。声をかけてきた人物を見上げた瞬間、私は頭から血が引きすぎて倒れそうになった。
※※※。
彼と最も近しかった人物。
いつもはどこかシニカルに笑っていた彼女の顔は、死んだときの彼と全く同じ微笑みを浮かべていた。
「どうだい、思考を誘導された気分は。いや、その様子だと自分を喰われた気分は、かな。僕も酷いことをする、こんなに強力な忌み言葉、私だって知らなかったのに」
忌み言葉の意味は、何故か正確に理解してしまった。いや、それを理解したのは私ではなく、私の中の何かだったのかもしれない。
「脳って案外、簡単に外部から操作できるんだよね。僕は私からその発想を得て、独自に忌み言葉の手法を編み出した。言葉を繋げるだけで人間を狂わせることができる危険な呪文さ。魔法は存在するかという議論に対する答えとしては十分過ぎたけどね」
やれやれ、と彼女は首を振り、私と対面する席に座った。
その仕草は、彼がそうしていたのと全く同じだった。彼が乗り移っているとしたら、私じゃなくてこの人なのではないだろうか。それはちょっと残念ではある。
「昔、私はある実験をしようとした。結局僕が停めちゃったんだけどね。それが忌み言葉の開発に繋がったんだけど、私としても得るものはあった」
「それは何ですか」
「彼は私のバックアップにはなれるけど、私は彼を構築できない。ちょっとばかり、私は彼に対しての同一視が激しすぎた」
何の話なのか未だにさっぱりわからないけど、この人も彼と同類なのはよくわかった。彼を観続けてきたから分かる。容姿が違うだけで、彼とこの人の本質は全く同じだ。
「だから彼を先に失うのはちょっと怖かったんだけど……というか、性質的に私の方が先に逸脱の終着を迎えると思ってたんだけど。まさか君という外部要因が入ってくるとは思わなかったよ」
ああ。やっぱり私がやったと確信している。
彼女の話からすると、私は彼に呪詛みたいなものを仕掛けられたらしい。私に目印になるような行動を取らせるものだったのだろうか。我ながら完璧な殺人だったと思うのだけれど。
今思えば、彼が言っていた「もう一人」って、この人のことで間違いないよね。
「ともかく、失ったものは仕方ない。私は脳の中で彼を再現しようとして、予想通り失敗。線引きができなかったんだね。おかげで今は、僕と私が融合したようになっている。体が私寄りな分、仕草やメインの判断は僕が取り仕切っている状態だ」
私の中に仕込まれた何かは、彼女の言葉を吸収し、その意味するところを理解させてくれた。私のまともな部分は当然、それを狂っていると判断したのだが。
死んだら終わりなのだ。そんな方法を取ったところで、復活したことにはならない。なのに彼は死を消滅ではないと言い切った。
彼女は当たり前のように彼を復活させようとして、自我を他人と融合させても平然としている。
「控えめに言っておかしいですよね」
「好きになったから殺す君よりかな」
「あれ、そこまで分かるものですか」
「それ以外に思いつかなかったのさ」
私が犯人であることは、既に判っていたのだと言う。彼のことが好きだというのも、彼女の方が気づいていたのだと。しかしその二つを結びつけるものが無かったから、それを異常性という線で結んだ。
そんな推測で当てられるのだから、案外私ってわかりやすい狂い方をしているのだろうか。
「それで、私をどうするんです」
「放っておけば勝手に廃人になると思うんだけど、回避したいかい」
「それはもう是非」
「もう人を殺さないならいいよ」
「あなただけで満足ですよ」
「ならいいかな。じゃあ、」
彼女が何を呟いたのか、はっきりとは分からない。ただ、頭の中にいた何かが消え去るのははっきり認識できた。
「なんだかんだでできるものだね。研究すれば僕にも使えるかな、このタイプの忌み言葉」
使えると分かったら使う気満々だこの人。やっぱり怖いや……それでも。
私はそんなところも含めて彼を好きになったのだ。彼が彼女と融合しようと、ほとんど変わっていないこの人のことも、好きなままなのだ。殺したのに好きな人が生きている、これってきっとかなりの幸運だと思う。
まあ、私が逸脱していることが大前提なんだけど。
「そうだ。告白のお返事、聞かせてもらえますか」
「えっと、オリジナルの僕しかそれは聞いてないんだけど」
「じゃあ改めて。好きです付き合って下さい」
「いいよ。女の子の体でよければ」
「私、内面を見る女なので」
「ああ、腸とかそういう」
「ちょっ、茶化さないでくださいよ」
「冗談だよ。これからよろしくね。自分と違う人と一緒に歩むのは、これが初めてだ」
と。
ここまでが僕の終わりの物語だ。いや、終わってはいないか。僕は「僕」に統合され、彼女を補完するように存在し続けている。
それではここで語る僕とは何者か。もちろん、オリジナルの僕が運よく生きていたとか、霊体になっているということはない。
××××、僕を殺したこの子の頭の中に残された忌み言葉。それこそが僕だ。
脳をハード、人格をOSとするのなら、僕はこの子の脳に植え付けられた自己成長するハッキングAIといったところだ。ベースとなっているのはこの子が観察していた僕なので、「僕」に比べれば再現度は落ちると思う。しかし流石は恋する乙女というべきか、あるいは異常性のなせる業か。ほとんど同じ思考回路をベースにしているわけでもないのに、僕はオリジナルに非常に近い。ストーキングしすぎだとは思った。
オリジナルが僕を植え付けた目的は、高確率でこの子を乗っ取らせるためだったのだと思う。しかし、彼女が「僕」となり、この子を認めてしまった以上、僕が出現するのはいろいろとまずいだろう。
そういうわけで、現在はこの子の中で潜伏中である。決して「僕」によって解体されたわけではない。いや、少しばかりまずかったんだけども、ともかく消滅はしていない。
こうして存在している僕は、物語の選ばれなかった分岐である僕は、一体何をするべきなのだろうか。オリジナルがそうであったように自己保存欲求はプログラムされていない。なのに何故「僕」による解体から逃げ延びたのか。考えた結果、僕は自己改変を行った。
僕の宿主はこれから、「僕」と共に無数の危険に直面するだろう。多少おとなしくはなるかもしれないが、逸脱を好む志向は「僕」の素材である二人に共通だった。そんな異常者の道連れとして、普通に異常を恐怖できる常識の持ち主を付き合わせるのは忍びない。
なら、僕がその異常を担当しよう。
僕を分解し、彼女に組み込もう。
この子を「僕」の相棒として、全く違う思考を持ちながら同じ道を歩けるように作り変えよう。
きっとこれはオリジナルも、そして「僕」も予想しなかった展開だ。しかし自分の予想から逸脱するというのは、僕が取るべき道としてこれ以上なく正しい気がする。
さあ、計画を始めよう。
僕が「僕」へ向ける言葉は次で最後だ。
分岐点の先で君を待つ。