プレゼント
空気が変わった、と思う。
螺旋階段の先は未だに闇に包まれている。一歩ずつ降りていくたびに感じていた違和感が、急に相転換した。
気相から液相に。
此岸から彼岸に。
自分の呼吸音がやたら大きく感じる。生きているものが他にいないせいか。
……ああ、そうか。僕はもう、彼女が生きているとは思っていないのか。
「自分が死んでも世界は変わらない、そんな台詞があるよね。私もそう思うし、そうじゃないと願っている。自分は特別なんだと、そんな幻想を拠り所にしている」
君はどうだい、と訊かれ、僕は自分もそうだと告げた。
僕にとって、彼女は鏡だった。もはや何時、何故知り合ったのかすら覚えていない昔から、彼女は自分を構成する要素を抉りだし、僕はそれに共感してきた。最後に会ったこの日もそれは同じだった。
「……やっぱり、君が同じだと安心するね。自分だけが特別であることも、人間にとっては不安要素でしかない」
この前にも言っていたね、と返した。
「そう。だから、計画に君を加えようと思ったんだ。迷惑かな」
珍しいね、と言った。彼女は僕を振り回したことは多かったけれど、それについて僕に断ったことは無かった。覚えている限りでは、だけれど。
彼女は僕の言葉の意味を正しく取ったのだろう。一つ頷き、
「今回はいつもと違うんだ。私の行きたいところに君を連れていくんじゃない、君には私と違う視点に立ってもらわなきゃならないから」
どういうこと、と訊いた。
「私を主人公と置くなら、君は読者に。歴史と置くなら、記録者に。詳しいことは、きっとすぐに分かると思うよ」
抽象的な言い回しばかりして、概要すら掴めないのはいつも通りだった。
「頼むよ。私が無意味になってしまわないように、ちゃんと君が見つけてね」
彼女が失踪してから、二十四時間が過ぎた。
普通なら失踪届を出すのもためらう時間だと思う。ただ、僕はその話を聞いた瞬間、彼女を探し始めた。
彼女は意味を求めていた。僕がそうだったように。何故生きるのかではなく、何故ここに在るのか。配置されたその他大勢でありながら、自我というものを持ち合わせる意味を、漠然と探していた。
そのための逸脱。その終着点から、僕は目を背けていた。少なくとももう少し先のことだと思っていた。彼女はその地点を僕が思っていたよりしっかりと見据えていた。
この闇の先に行けば、僕もそれを直視することになるのだろう。
「魔法って、あると思うかい」
いつものように唐突に、彼女は切り出した。
僕は、ないと思う、と答えた。
「強気な発言だね」
じゃあ君はあると思っているの、と訊くと、
「……あると信じているよ」
微妙にニュアンスを変えてそう言った。
それだけで、彼女がやはり僕と同じ考えなのが分かった。
立ち入り禁止の廃ビル。手すりのない屋上の淵に座り、空に浮かぶ月を見ていた。僕達は塾にいるはずで、大人たちは皆そう思っていたと思う。つまりはいつもの逸脱。非日常を体験することで自分を確認する行為。高校生になるための儀式を目前に控えた僕達は、性懲りもなくそんなことを繰り返していた。
「じゃあ、魔法が使えたら……いや、やっぱりこの質問はやめよう」
僕は頷いた。その方がいいと思った。意見が食い違うのを、鏡像が崩れてしまうことを、この頃の僕達は病的に恐れていた。
このときの会話はそれでおしまいだ。始まった冬の寒さに意識を向け、ぼうっとする僕の隣で、彼女は僕の知らない詩を口ずさんでいた。
螺旋階段が終わった。
コンクリートの床に足をつけ、来た場所を仰ぎ見る。歪んだ二重螺旋に見える影に、きっと彼女もこれを見上げたのだと思った。
このビルに来たとき、地下には向かわなかった。彼女は地下があるとは言っていたけれど、今日は屋上に行きたいと言ったのだった。
魔法。
結局僕の考えは変わっていない。あれから三年近くが経ち、僕の背が伸び、彼女の痣が増えても、人類は物理の外にある現象を証明できていなかった。だけど、そう。魔法に限らず、常識を粉々にしてしまうような異常の存在を、僕は信じていた。
もし魔法が使えたなら。僕はそれを何に使おうとしていたのか、今も覚えている。
「人は死ぬとこうなるんだね」
首吊り死体を前にして、小学校高学年の彼女は言った。
「こうはなりたくないな」
僕は、そうだね、と返した。
鉄扉を開く。ポケットの中の懐中電灯に伸ばした手をひっこめた。
重い闇の中。電池式のランタンが五つ、円を描くように等間隔で配置されていた。その中央にはやはり、彼女がいた。
死体を見て綺麗だと思うのは初めてだ。床に朱で描かれた二重円と五芒星の中で静かに眠るそれは、生きていたときの彼女より穏やかに見えた。
「綺麗なものだろう」
いつの間にか、隣には彼女がいた。
「驚かないのか、ちょっと残念だね」
驚くはずがない。これは幻影。鏡像が砕けたことをまだ認められない、僕の妄想だ。
「まあその通りなんだけどね。それでは、主人公の死の描写が終わるまで、読者には読み進めてもらおうかな」
分かっている。そのために僕はここに君を探しに来たんだから。
狭い部屋はコンクリートで固められ、外に通じるのは扉とダクトだけ。部屋の隅には大きな鞄と、そこに入っていたであろう品が並べられている。よくわからない薬品が入った瓶や、首を断たれた鶏なんかもあった。こんなものどこで入手したのだろうか。
「ああ、それはもちろん盗んだよ。鶏は大変だったなぁ」
僕の想像を代弁する彼女を背に、僕はその他のものを眺める。
そして、タオルの上に置かれた、凝った装丁の本を見つけた。
「それは私から君への贈り物だよ。この儀式の動機と手法、目的について書いてある。地面にそのまま置くと埃とかで警察にばれそうだったからね」
勝手な推測を並べ立てる虚像に促されてそれを手に取る。驚きはしないが、大体そのとおりの内容だった。
「私の思考はほぼ正確にトレースできるってことさ。このビルを一発で引き当てたのも然り。こうして勝手に私がしゃべっているのも然り」
そうだろうか。僕は彼女が自分の命を使って何かを行うのは、もう少し先だと思っていたけれど。
「そう思い込みたかった、の間違いでしょ。君はきっと、私の逸脱が限界を迎え、破綻するのが近いと感づいていたよ」
きっと、なんて、僕の妄想にしてはあやふやな言葉を使う。
「さて、検分は終わったね。それじゃあ物語に幕を降ろすとしようか。かくして、現実からの逸脱と自分の価値の証明を望み、少女は異常な手段で死んだ。おしまい」
しかと見届けた。さて、僕は後日談まで読みに行くとしようか。
通報を受けた警察は僕に一通りの質問をしたが、家庭環境に悩みを抱えていたというありきたりな回答でお茶を濁しておいた。机の端に座った彼女は珍しく爆笑していた。日記はなんとか隠し通したが、内容は記憶してしまったのでそのうち燃やすつもりだ。
検死の結果、彼女の体は見た目以上にボロボロであったことが分かった。僕の証言もあり、彼女の両親が聴取を受けることになった。虐待から精神を病み、現実と妄想の区別がつかなくなった少女、というのが一般見解になるのか。
「私の思い通りだね。まあ儀式が不発だったのは残念だけど」
彼女が本気でやろうとしていた降霊術だが、もちろんそれは何の成果も産まなかった。魔法を証明して「特別」を目指すという目的の方は達成されなかったことになる。
「魔法が使えたら、の続き。私は日記の中で答えたよね。君はどうなの」
そんなことを考えていると、背後に浮いていた彼女が問いかけてきた。
魔法が使えたら何をするか。彼女は人類の歴史に爪痕を残すような大事件を引き起こそうと願った。
僕は、
「ははは、やっぱり食い違ってたね。思想や発想、感想は同じなのに、手段がずれるよね。それにしても規模が小さいなぁ」
妄想がうるさい。
ここのところ、この鏡像を模した虚像は起きてから寝るまで大抵僕の隣にいる。集中している時でさえ、視界の端に浮かんでいる始末だ。話しかけないでいてくれるだけありがたいというべきか。
「ときに。君は人工精霊について知っているよね」
虚像がそんなことを言った。
「私のオリジナルが貸した本に載ってたよね。思考の一部を独立させ、会話ができるほどに自立した「もう一人」を作る手法だけど。魔術に含められることもあるって記述があったの、覚えているかな」
その説明には聞き覚えがある。しかし、今の今まで忘れていた。
「私は君の人工精霊に近い。君の脳に住み着いた幽霊なのかもしれないけどね。オリジナルに限りなく近い思考ルーチンを持つ、もう一人の君というわけだ。君が忘れた記憶も引き出せるくらいには権限を持っているから妄想呼ばわりはやめてほしい」
ああ、この口調にも懐かしさを感じる。僕をさんざん振り回した後、ネタばらしのようにその理由を語るときのそれだ。彼女の語り口をここまで再現してしまう自分の脳が少し恐ろしい。
「とはいえ君が知っていることしか知らない私には、オリジナルの本当の考えは分からないんだけどね。それでも推理できることがあるんだよ」
ことここに至って残る謎は一つ。手帳に書かれていた彼女の目的……自分の存在を欠落させることで周りに影響を与える、魔法を証明し、あわよくば世界に自分を刻む、そして、
「自分が為したことを確認する。この記述が不可解だったんだよね」
そうだ。僕は彼女が生き、死んだことの証人として選ばれたのだと思っていた。しかしその文章からは、まるで自分がその結果を見届けるかのように読み取れた。
「そこで私は考えた」
僕ではない自分、彼女ではない虚像が、その推理を述べ立てる。
「私はオリジナルと同一ではないが、限りなく近い。そして君の五感を通してオリジナルが為したことを確認したわけだ。もし私を作ることが第三の目的を達成する手段だとしたら」
……つまり、死んでしまう自分の代わりに、僕に自分の複製を作らせて、そこから観察しようとした、と。
「普通の人から見れば狂気の沙汰だろうね。
他人に自分をトレースさせたところでそれは自分にならないし、そんな風に他人をコントロールできるはずもない。でも、私のオリジナルは違う。君なら自分を完全に再現できると確信していたし、君の全てを知り尽くしているとも信じていた。いや、知っていた」
鏡像。シンパシー。同位体。唯心論。人工知能。テレパシー。阿頼耶識。そんな言葉が脳裡をよぎる。あるいはそれも、彼女が僕に植え付けた言霊だったのかもしれない。
「というわけで、オリジナルは自分の死をトリガーに、君に私を作らせたわけだ。君に見せた本も前準備の一つだろうね。よってさっきの自己紹介に戻るんだけど」
僕が勝手に創り出した人工精霊か。
僕の脳内に住み着いた彼女本人か。
後者でないことは、僕も虚像もわかっている。でも、魔法があると証明するよりは、奇跡的に僕が彼女を完全再現することの方が現実味があると思う。
何せ、彼女は僕に似ていたのだから。
「ああ、思った通りだ。私も「信じる」よ。私こそがオリジナルで、死んだ後も君の頭の中に居座っているんだ、ってね」
真正面から彼女が笑うのを見たのは、これが初めてだった。
「……という筋書きだったんだけど」
胃の内容物を吐き出した私は、彼に背負われて螺旋階段を昇っていた。多少は薬を吸収していたのか、体がだるいことこの上ない。
「登場が早すぎないかな」
君のことはほぼシミュレートできるから、と彼は答えた。その答えは予想通りだったが、その行動力については評価を改めざるを得ない。
「おかげで死に損ねた」
本当にいなくなるつもりはなかったくせに、なんて言う。それはそうなのだが、おかげで「私」が見れたはずのものは全部見れなくなってしまった。
「あーあ、せっかく死ぬついでにいろいろやらかしてきたのに」
そこはそのまま自殺しようとしてましたって弁明すればいいんじゃないかな、と。
この男は私の鏡像だ。取る手段が違うとはいえ、根っこのところは同じである。穏便に済ます、とか、そういう発想は持っていない。ただ私より少し恵まれた境遇にいて、世渡りが上手いだけだ。
「そういえば、なんで助けたのかな。私の思い通りになるのが嫌だったとか、」
違う、と彼は遮った。丁度螺旋階段が終わり、薄くなっていた闇も剥がれ落ちる。
君、今日誕生日だろ。せっかくバイトしてプレゼント買ったのに、無駄になるじゃないか。
「ははは、何それ傑作」
初投稿作品になります。
もはや小説の体を成していない短編集です。
一応最後まで書いてあるので、その内完結できると思います。
彼と彼女には名前を設定していません。
わかりにくい表記になっているとは思いますがご了承下さい。