キョウフノミゾシル
急がねば――――
重苦しく響く靴音が、やけに耳障りだった。
家路を急ぐ自分の足音が、なんだか他人事の様に聞こえる。
点々と、規則正しく足元を照らす青い街灯の灯りが、自宅のマンションまで誘う誘蛾灯の様に思えた。
青い光が犯罪率を低下させるとの理由で、数年前から設置されたのだが、これが何とも気味が悪い。
薄青く、ぼんやりと照らし出される街並みは、人通りの少ないこの道を、見知らぬ異界へと変じるようだった。
じっとりと蒸し暑い夜だった。
ねっとりと纏わりつくような湿気が、身体を鉛の様に押し包んでいる。
まだ週の初めだと言うのに、身体が堪らなく重い。
これでもまだ、星の煌めきか月明りでも降りそそいでいるのならば、多少は気分も良いのだろう。
だが薄墨を流したような雲が夜空を覆い、より一層陰鬱な気分を刺激する。
それを振り切るように、野口薫子は足を速めた。
急がねば――――
一刻も早く自宅に戻らなくてはいけない。
汗で濡れたブラウスが背中に張り付き、冷たい。
今夜はいつもにも増して蒸し暑く、身体を流れる汗が止まらない。
「あっ!」
アスファルトのひび割れにパンプスの爪先がとられ、思わずよろめいた。
「痛ったぁ……」
転ばずには済んだが、足首を軽く捻った。
「もう、やだ」
薫子の眼に涙が浮かんだ。
こんなことをしている場合ではないのに。
一刻も早く自宅に帰らなくてはいけないのだ。
少なくとも夫――――圭太より先に……
薫子は料理教室の講師をしていた。
昼間は週に四日ほど、主婦層に向けた教室で、やや高級志向なひと手間かけた料理を教えている。
その他に週に三日、夜の部でOL向けの家庭料理と、男性向けの料理教室も受け持っている。
アラサー世代の薫子としては、親の世代に近い主婦向けの教室は少々やり難くもあるのだが、OL向けの教室と男性向けの教室は評判も上々であり、自分としても手ごたえを感じていた。
夫の圭太と結婚したのは今年のゴールデンウィーク。
新緑の綺麗な教会だった。
食品検査技師の仕事をする圭太とは、二年前に友人の紹介で知り合った。
お互いに、食に関係する職種という事から意気投合し、付き合いだすまでに時間は掛からなかった。
だが、圭太を結婚に踏み切らせたのは自分の料理の腕前だと、薫子は自負している。
大学進学を期に独り暮らしを始めた圭太は多分に漏れず、手作りの味に飢えていた。
食品検査を仕事にしている圭太は、職業柄食べる物に煩かった。
と言っても、味云々では無い。
勿論、美味しいものが好きで、二人で後学の為と言い訳をして食べ歩きも良くした。
だが圭太が煩いのは、食の安全と衛生面に関してだった。
常日頃、食品に含まれる微生物や細菌などを検査している圭太は、食の安全性に敏感だった。
特に衛生面に関しては、薫子以上にシビアで神経質だった。
外食の際なども、どんなに美味しいと評判の店であっても、店の外見が汚ければ絶対に入らなかった。
飲食店に入ったとしても、店内が汚かったり、従業員が少しでも不潔と思えれば、出された食事は絶対に口にしなかった。
だがそれは単なる潔癖症と言うわけではない。
その証拠に、独り暮らしの部屋はお世辞にも綺麗に片付いているとは言い難かった。部屋は片づけないし、掃除もしない。
唯一、キッチンや水回りだけは綺麗にしてあった。
そんな圭太であるから、薫子との結婚はある意味、安心して食事が食べられる保証が欲しかったからなのかもしれない。
結婚式を控えたある日のこと――――
「なあ薫子、この世で一番うまいものってなんだろうな?」
四〇〇グラムはあるステーキを頬張りながら、圭太が言った。
熱々の湯気を上げる肉にナイフで切れ込みを入れると、真っ赤な血が滴る。
圭太は表面を軽く炙っただけの超レアを好んだ。
「何よいきなり。そんな事言われても――――」
薫子はナイフを持つ手を止め、小首を傾げた。
一言で一番美味しいものと言われても難しい。
まず、人それぞれの好みがある。
生まれた国や地域によっても違うだろうし、何より同じ個人としても、その日の体調や気分TPOなどによっても感じる味覚は変わってくる。
つまり、一番美味しいものなど机上の空論、絵に描いた餅のようなものである。
少なくとも、薫子はそう思うのだ。
「料理の旨い不味いってさある意味、味の掛け算だろ?基本、引き算てのは無いじゃん。色々な素材を使って、味を重ね合わせて深みのある味を作るのが料理としての、ある種究極じゃないかと思うんだよね」
大きな口を開き、圭太が旨そうに肉を頬張る。
「その一方で、素材そのものの味ってのがあるだろ」
「そうね。色々と凝った料理をするよりも、塩だけで食べるのが一番美味しいなんてことも、実際あるしね」
料理を仕事としている薫子にとっては、なんとも矛盾した話ではあるが、これはある意味究極の真理である。
味の掛け合わせが、必ずしも素材の味を生かし切るとは限らない。
「そこで思ったんだけどさ、だったら素材そのものに、最初っから味を掛け合わせておけば、最高に旨いものができんじゃね?」
確かに、イベリコ豚など団栗だけを食べさせて育てるし、他にも餌を凝ることにより肉の旨みを増す方法は数多くある。
これは特に動物性タンパク質に多いように思える。
「だったらさ、一番色々食べている動物の肉が、色々な味が凝縮されていて、一番旨いってことにならね?」
圭太がいたずらっ子の様に微笑んだ。
「どういうこと?」
一瞬、薫子は身震いをした。微笑む圭太の眼を見たら、背筋に何とも言えぬ悪寒が走ったのだ。
薫子はナイフを持つ手を止めた。
「だからさ……人間じゃね?」
「えっ?」
「だからさ、人の肉」
大きめにカットした肉を口に入れ、圭太が豪快に咀嚼する。
「け……圭クン――――」
「人の肉を、熟成させたのが一番旨いんじゃねえのかな」
圭太が嗤った。
「――――ちょ、ちょっと……」
薫子は周囲を見渡した。
まさかステーキハウスでこんな話をするなんて、圭太のデリカシーの無さを疑った。
「なんてな、冗談だよ冗談。ごめんな」
手の止まった薫子を見て、圭太が両掌を合わせて頭を下げる。
「――――馬鹿っ……」
だがほんの一瞬、不覚にも美味しそうだと思ってしまった自分がいた。
新婚三か月。
掃除洗濯は、正直手を抜くこともある。
だが、夫婦共働きとしては、夫の手を煩わせることも無く良く頑張っている方だと自負している。
当然のことながら、料理だけは一切の妥協をしなかった。
朝は五時前に起きて、圭太のお弁当作りから始まる。
主菜に副菜に添え物と、彩りを考えて盛り付ける。
勿論、冷凍食品など使ったことは一度も無い。
何を作っても美味しいと褒めてくれる圭太だが、特に絶賛なのが牛肉の薄切りで牛蒡や人参や隠元を巻き、甘辛く煮た物だ。
この時、弁当のおかずにするときは、食卓に並べるよりも味を濃い眼にすることがポイントだ。
一番活力のある昼食用であることも理由だが、一番は腐りにくくするためだ。
西京焼きも圭太の好物の一つだ。
四季折々の旬の魚を選び、薫子が手作りの漬けタレに漬けるのだ。
この漬けタレは教室でも評判がいい。
ポイントはごく少量のニンニクを擦りおろして入れること。そして隠し味にごま油を少々。
これによりクセのある魚でも、まろやかに仕上がる。
この時期、太刀魚をこれで漬けこむと絶品だった。
酒の肴にもよく合うし、残ればほぐしてご飯に乗せ、濃いめのお茶をかけて茶漬けでも堪らない。
だが、大阪に出張に行っている圭太が帰って来たら、食べさせたいものが別にあった。
散々苦労して手に入れたある肉を、圭太の出張中に薫子が仕込んでおいたのだ。
それをじっくりと焼いて、存分に食べさせてやりたかった。
きっと圭太も驚いて、喜ぶこと間違いないはずだ。
それなのに、予定が狂った。
圭太からスマホに連絡が来たのは、午前の教室の後片付けが終わった直後だった。
予定よりも仕事が早めに片付いたから今夜帰るよと、圭太は言った。
本来ならば、大阪から明日の夜に帰る予定だったのだ。
「えっ?」
予定外の言葉に思わず漏れた声に、圭太が不満そうな声を出す。
「おいおい、新婚の旦那様が、新妻に会いたくて仕事を頑張ったのに、なんだよ」
圭太が不満を露わにする。
「まさか、俺が居ないからって浮気なんかしてないよな?」
圭太の言葉は本気とも冗談ともつかない。
「なに、馬鹿なこと言ってるのよ。そんなことあるわけないでしょ」
激しく脈打つ心臓の音が聞こえる筈はないのに、薫子の声は無意識に大きくなる。
「なんてな。冗談だよ、冗談。薫子に限ってそんなことは無いよな」
電話の向こうで圭太が嗤った。
「も、もう、馬鹿!圭クンこそ、出張なんて言って……自分こそ浮気してんじゃないでしょうね」
「ばぁぁか!」
電話の向こうで馬鹿にしたように圭太が嗤った。
九時半ごろには帰れると言って、圭太は電話を切った。
どうしよう――――薫子の心臓が早鐘の様に激しく脈を打った。
二時間は余裕がある――――薫子はそう思っていた。
今日は夕方の教室は無い。
定時の六時で仕事を上がっても、七時には家に着く。
二時間もあれば、例のアレを処分して、夕飯の準備をしても充分に間に合う。
お腹を空かせた圭太の喜ぶ顔を想うと、薫子の顔も自然と綻ぶ。
だが――――その前に、やらねばならないことが有る。
まず何よりも、その問題を片づけることが第一だ。
元々、圭太が明日帰る予定だったから、今夜片づければ良いと思っていたのが失敗だった。
だが、時間は充分にあるのだ。
心配することは無い。
そう思っていた矢先――――いつもよりも手隙だった薫子は、時計と睨めっこして定時を待った。
あと五分――――デスク周りを片づけた時である声を掛けられた。
事務長だった。
来月から始まる秋期生募集に向けての、キャンペーンの件だった。
無料体験教室を開くことで話は決まっていたのだが、その内容についてはまだ決まっていなかった。
予算の概算を立てる必要があるので、早めに献立を煮詰める様に言われていたのだが、ついつい先延ばしにしてしまったのだ。
そのことについて帰り際に事務長に捕まった。
新婚で気が緩むのは分かるが――――などと、薫子に言わせれば関係ない事まで持ち出され結局、小一時間は小言を聞かされた。
おかげで職場を出たときは、既に七時を回っていた。
大丈夫――――まだ時間はある。
腕時計で時間を確認し、逆算をする。
だが、予定外の不幸は続くものである。
跳びこみの人身事故で電車が遅れた。
薫子は気が気ではなかった。
圭太より先に自宅に帰らねば――――もし、圭太が先に帰って、アレを見られでもしたら……
例えようのない恐怖が、薫子の背筋を走った。
最悪、もしアレを口にでもされてしまっては……幸せな新婚生活は愚か、薫子の全てが終わりである。
それだけは、何としても避けねばならなかった。
薫子は恐怖で胸が押し潰されそうだった。
心臓が痛いほど鼓動を打つ。
駅の改札を潜ってからは、駆け足だった。
パンプスにスーツ姿などで走るものでは無い。
爪先は痛いし、タイトスカートで脚は開かない。
それでも腕時計を見ると、八時半を回るところだった。
「やばいよ……」
愛しい圭太の顔が、恐怖と絶望で歪む姿を想うと、堪らない恐怖が湧き上がる。
蒸し暑いはずなのに、薫子の全身に鳥肌が立つ。
バジッと、誘蛾灯に誘われた虫が、弾かれた。
人気のない路上を、ぼうっと照らす青い街灯が、薫子の家路を誘っている。
咽喉が乾く――――薫子は走った。
足が痛い――――薫子は走る。
絶望が心を揺さぶる――――薫子は走った。
恐怖が心臓を鷲掴みする――――薫子は転んだ。
薫子は立ち上がった。
あのことが圭太にばれた時の恐怖に比べれば、こんな痛み……
「いっ痛い!」
ストッキングが破れ、膝には紅い血が滲んでいる。
それでも、恐怖が薫子を突き動かした。
大丈夫、まだ九時前。
夕飯の支度はともかく、アレをどうにかする時間ぐらいは有る。
一刻も早く自宅へ帰らねば――――
青い街灯の向こうに、マンションの灯りが見えた。
二十階建ての分譲マンション――――十三階の西の角部屋。
三LDKの新居の窓に、明かりが灯っているのを見たとき、薫子の横で、誘蛾灯に接触した虫が音をたてて……落ちた。
「お帰り。腹が減り過ぎてさぁ――――味噌汁有ったから、先に温めて一杯もらったよ」
部屋に帰った薫子を、ネクタイをだらしなく緩め、汁椀を片手に微笑む圭太が迎えた。
心臓が鷲掴みされたように痛み、眼の前が真っ暗になる。
「――――なんで……まだ九時前なのに……」
するりと、黒いカバンが肩から落ちた。
「いやさ、職場に寄って、吉田たちと軽く一杯飲んでくるつもりだったんだけどさ――――」
……終わりだわ……間に合わなかった……
「――――それがいつも行く立ち飲みの、ほらカウンターだけの店あるだろ――――」
……幸せな新婚生活……楽しい家庭も……
「――――マスターの都合で、今夜は店明けるの十時からだって言うからさ――――」
……仕事も終わり……料理教室の講師なんて……もう……
「――――いくらなんでも新婚なのに、薫子をそんなに独りにするな、浮気されるぞって、吉田も言うしさ帰ってきたよ」
……吉田……こんな時ばっかり……
「で、薫子どうした?今日は夜の教室無い日だろ?ビールでも買いに行ってたのか?それなら土産に、旨い酒を買ってきたから大丈夫なのに――――」
そう言うと、薫子に背中を向け出張用のカバンに向かった。
「――――け、圭クン……まさか、その味噌汁……飲んだ……?」
「さすがだよな薫子、よく気が利くから。俺が好きだからって、出張前にも作ってくれて、今日帰るの分かったからまた作ってくれたんだろ?今日、麩のみぞ汁飲めるなんて感激だなぁ」
片手に持った味噌汁を啜り、圭太がカバンを開いた。
薫子の声が震え、涙ぐんでいることにも気が付かず、旨そうに味噌汁を啜る。
「圭クン……」
「でさ、この味噌汁またお前の新作なんだろ。ホント仕事熱心だよな。教室で教える新風味のみそ汁なんだろ。ヨーグルト?いやチーズかな?酸味が効いていて、お麩に良く合ってなかなか旨いぞ――――ん?どうした薫子?そんなところに座り込んで、夏バテか?」
……終わった……全て終わった――――
薫子は、がっくりと肩を落とし、床に座り込んだ。
二日前――――圭太が出張の朝。
圭太の好きな、車麩の味噌汁と太刀魚の西京焼きで送り出した。
その後、仕事に行く前の時間を使って、出張から帰った圭太にサプライズで食べさせる料理の仕込みをすることにした。
圭太に内緒で購入してあった、薩摩の黒豚の肩ロース。
これを塩麹で揉み、特製の味噌だれに漬けるつもりだった。
二・三日すれば、最高の熟成具合で食べごろになる。つまり、圭太が出張から帰る日に合わせて仕込むのだ。
結局、その日の朝は忙しく仕事に出かけてしまい、味噌汁の鍋を洗い忘れた。
運の悪い事に、その日は職場の飲み会。
翌日は学生時代の友人と食事。
今朝は胃が重く、野菜ジュースを飲んだだけで出かけてしまい、鍋は今夜洗うつもりだったのだ。
新妻として全力で頑張ってきた薫子の、ほんの束の間の息抜き。
夫の出張の間だけ、ほんの少し自堕落なご褒美の時間……
それが……まさかこんな事になるとは――――
「どうした薫子?お前なに笑ってんだ?」
床に座り込み、声を震わせる薫子に圭太が首を傾げる。
「……圭ちゃん、わたし――――わたしね、今日……麩の味噌汁なんか……作って無いのよ……」
「えっ?」
振り返った圭太の、あまりにも間抜けた顔を見たとき薫子は、ほろほろと涙を零しながら、微笑んでいた。
この数分後、潔癖症だがデリカシーと思慮に欠ける夫はトイレに閉じ籠ることになる。
その夜、女の啜り泣きと、男のうめき声がマンションの住人を悩ませた。
後にこの話が、マンションの七不思議の一つとして語り継がれることになるが、それは別の話である。
翌日から、圭太は職場を休んだ。
そして薫子が二日間漬けこんだ、薩摩の高級黒豚の肩ロースと、二人の夫婦仲がどうなったかは、誰も知らない……