その4
4.
「顔を上げろ、シャイラ。あんたにそんな表情をさせたくて交渉に臨んでるわけじゃない」
半ば強制的に顔を上げさせられた私は、一層速まった鼓動を感じていた。バルダミアの茶色い瞳が私を優しく覗き込んでいて、視線を外したくてもなぜか引き込まれてしまう。
バルダミアはさっきとは全く違う穏やかな微笑みで、私に言った。
「せっかく二人だけの時間があるんだから、向こうに移動しないか?」
え、ちょ、ちょっと待ってよ! 交渉はこれで終わり?! しかも、向こうって休憩用の別室じゃない……。
「嫌なら無理にとは言わんが。俺は今夜は酒は飲まないつもりだし、甘いものがよければ用意してある。それとも軽食の方がいいか?」
「……バルダミア、あの、もしかして世間話的な何かをするってことなの?」
「うん、今までじっくり互いのことを話す機会がなかっただろう? この机じゃ大きすぎて、よそよそしい。向こうの部屋なら小さい食卓があるからな」
ああ、びっくりした。いきなり何を言い出すのかと思ったじゃない。
バルダミアが続きになっている隣室の扉を開けると、既に飲み物やお菓子が置かれた食卓が見えた。どうやら別室は普段、バルダミアが簡単な食事を取る場所らしい。
私は椅子に座ると、ほうっと溜息を付いた。こうやって夜にお茶をしながら、カルダーンとお喋りをしていた日々があったんだなと思い出してしまったのだ。
「どうした? 疲れてるのか?」
「ううん、ごめんなさい。ちょっとうちの国王のことを思い出したの。毎晩、一緒にこんな風に話をしてたなって」
「そうか。それは羨ましい限りだ。あんたは……カルダーン三世を愛してるのか?」
「もうっ、いきなり恥ずかしいこと訊かないで……。私、王妃候補なのよ。カルダーンは誤解されてて暴君なんて呼ばれてるけど、全然違うの。とても真面目だし、新しいことにも興味があって、だから私の提案した妥協案も受け入れてくれると思うわ。開かれた貿易の話は特に興味を持ってくれたもの」
私は少し赤面しつつ、一息に答えると、紅茶に口を付けた。バルダミアは温かい檸檬水を飲んでいる。
「ところで、あんたが開かれた貿易に注目するようになったのはどうしてだ?」
「それは私の実家が商家だからよ。フェディオンは伝統的に国家が独占して物流を押さえてて、多くの商品は大貴族の管理下で生産されてる。長いものに巻かれてしまえっていう商家なら大貴族の傘下に入って甘い汁を吸えるけど、ミランド商店は創業以来、貴族に尻尾は振らない主義でやってきたのよ」
それで祖父の代に商家としての格を落とされてしまったのだ。
「そもそも、豊かな国なのにいつまでも国が物流を管理して、貴族ばかりに生産を任せるのは非効率よ。うちみたいな商家なら、もっと安くて質のいいものを売るわ。それでね、私には弟がいるの。家業は弟が継ぐから、私は女官になった。商工業省に入れば、いつか現状を変えられるかもって」
バルダミアは椅子の背にゆったりともたれながら、私の話を興味深そうに聞いている。自分が王宮に入ろうと思ったきっかけを誰かに話すなんて随分久しぶりかもしれない。それに、実家にもしばらく帰っていない。私が国王に気に入られて王妃候補になったことも直接伝えてないし……。
「父と弟は結構やり手の商人なんだけど、そうじゃなかったら貴族たちの圧力をはね退けられないわよね。母はその代わりに慈善事業に力を尽くしてて、孤児院の運営を手伝ってるの。あと、母は西大陸から新薬を輸入しようとして、でもなかなか国から許可が下りないみたい」
「新薬?」
「子供の呼吸障害に効くらしいんだけど、フェディオンって民間療法や迷信が強いからかえって危険視されてるって」
「なるほどな……」
バルダミアは珍しく頬杖をついて、私を真っ直ぐ見つめている。その物憂げな瞳に、私の心は一瞬にしてかき乱されてしまった。さっきから私なんかおかしいよ……。でも、不思議とこの感覚は嫌いではなくて、それが更に私を混乱させる。
私は話題を変えようと口を開いた。
「バルダミアの家族のこと、訊いてもいい?」
するとバルダミアは少し驚いた顔をして笑った。
「別に面白くはないぞ。俺の両親は片田舎で静かに暮らしてる。もう何年も会ってないが、手紙のやりとりはしてるよ。父は軍人だった。と言っても、下士官の上級曹長で退職したけどな」
「じゃあ、バルダミアは父上を倣って入隊したのね。その若さで将軍に上り詰めたんだから、ご両親は鼻が高いんじゃない?」
「そうだなぁ。自分では父親のことを意識したつもりはないんだ」
「ねぇ、兄弟はいるの?」
「妹が一人。ちょうど、あんたと同じくらいの年だ」
男兄弟かと思っていたので、妹というのは意外だった。どんな女性なんだろう……。
「妹さんは何をしてるの?」
「あいつは……王宮で働いてるよ。国王に近いところでね。まぁ、雑用とかしょうもない仕事ばかりさせられてるが、今のところ逃げ出したりしてないから根性はある」
そう言って、バルダミアはにやりと笑った。きっと妹さんのことが可愛いんだろうな。ちょっと羨ましいなと思いつつ、私も微笑みを返した。
敵将との世間話の時間はあっという間に過ぎてしまい、執務室の置き時計に目を遣るともう二十三時を回っていた。私が「ご馳走様」と言って立ち上がると、バルダミアは先に執務室に入っていった。
「交渉の件、なるべく早く答えを聞かせてね」
私は扉を開ける前にバルダミアに念を押した。相手は敵将なんだから、こういうところはやっぱり気を抜いちゃいけないんだ。すると、バルダミアは真面目な顔をして頷いた。
「おそらく数日内に白龍の乱舞が小康状態になるだろう。あんたに見せたい場所がある。そこに行けば、奇病の全貌と俺の国がどうしてこの自治区を必要としてるのかが一目瞭然で理解できるはずだ。さっきの交渉の返事もそこで言う。だが、王妃候補のあんただけを連れて行く。それでいいか?」
私は二つ返事で承諾した。というか、拒否する理由なんかない。やっと敵方の侵略の意図という核心に迫れるのだから。
「いつでも行ける準備はしておくわ。あなたと話ができてよかった。楽しかったって言っていいのかわからないけど……」
バルダミアは驚いたような困ったような顔をした後、優しい瞳で私を見下ろした。そして、扉の取っ手を引こうとした私は不意にバルダミアの片手で抱き寄せられてしまった。大きな掌の熱が私の肩に伝わり、私の顔が急激に火照る。
「あ、あのっ……?」
私は状況を把握しようと顔を上げた。でも、バルダミアはさっきと同じ優しい瞳で微笑んでいるだけだ。それからバルダミアはそっと私の肩から手を外すと、私に問うてきた。
「もし、俺とあんたが同じ国の将軍と女官で舞踏会で出会っていたら、あんたは俺と踊ってくれるか?」
「……あなたは不意打ちが好きね」
「それは答えになってない」
「そういう仮定の質問に答えることは控えさせてもらうわ。これが答えよ」
私は必死に動揺を隠してバルダミアを見上げた。この心臓のドキドキはすぐに鎮められそうにない。だって、バルダミアが訊いてきた時、私は迷うことなく想像してしまったのだ。王宮にあるような豪華な舞踏会会場で、目の前にいる長身の将軍に涼やかに微笑みかけられて、甘い気持ちでその手を取ってしまった自分の姿を!
こんなの背徳以外の何ものでもない。だから、たとえ仮定の質問でも肯定できない。でも、私は自分の中に芽生えていた気持ちに嘘をついて、完全に拒否する答えを告げることもできなかった。
「あんたらしい返事だな。王妃候補の前に立派な官僚だよ」
バルダミアは妙に感心したように言いながら、区長室の扉を開けてくれた。
「おやすみ、シャイラ」
廊下は火の気がなくて冷たいはずなのに、バルダミアの深い声に私の顔の熱は益々強まったのだった。
【第7章へ】




