その4
4.
伯爵令嬢の部屋を出た後、私は公邸の地下に向かった。廊下や階段には必ずバルダミアの部下たちが立っていて様子を伺っているけれど、今まで出入りや通行を咎められたことはない。
地下は一階のみで、その半分が図書室になっている。残りの空間は倉庫だったりする。
図書室の扉はわずかに開いていた。誰かいるのかと思いつつ中に入り、衛生や医療に関する区画を探す。
風通しがあまり良くないためカビ臭い。まぁ、学生時代、論文を書くために古い書庫に入り浸ってたからそれほど気にはならないけどね。
「……探しても無駄だよ、シャイラ。俺も今まで調べてたけど奇病についての本は見つからなかった」
「ロゼット! やっぱり来たのね。衛生や医療の区画にはなかったってこと?」
雪空の下、バルダミアたちと共に公邸に戻ったロゼットはさっそく図書室に来ていたのだった。
「そう。八番って書かれた区画なんだけど、たいした本はなかったよ。民間療法とか風邪の対処法とかそんなのばかり」
「さっきまでライナと話してたの。そしたらライナは奇病に心当たりがあるって言ってた。それは後で詳しく聞くとして、八番区画にないなら……」
私はバルダミアの言葉を思い出していた。
――外交官僚はともかく商工業省出身者が無知とはね。
つまり、この奇病は商工業省が所掌しているものに関係するってことだ。私は六番区画にロゼットを連れて行った。
「とりあえず、片っ端から見ていって。私が思い付くのは、家禽類の感染症なんだけど。まれに人間にも感染してしまうっていう報告があってね、全身に赤い斑点ができて高熱が出るの。薬が効かないから運良く助かるか、死ぬしかないっていう厄介な病気よ」
私は新人時代に配属されていた農林畜産局で得た知識を引っ張り出した。他にも狂犬病を思い付いたけれど、それは広く知れ渡っていて奇病というほどのものじゃない。
「なぁ、それって一番感染の危険があるのは畜産農家だよな。確か、マーレン大尉はあのロビってガキの父親は貧困層の労働者って言ってたぞ」
「え? ああ、そう言えばそうだね。でも、どこでどうやって感染するかはわからないから、絶対にあり得ないってこともないよ」
「ふーん」
ロゼットはあんまり納得していない様子で、適当に本を出し入れしている。
そして実は私もすっきりしない気持ちでいた。バルダミアはこの奇病のことがわかったら、なぜギュリド王国が辺境自治区を手に入れたいかという答えに近付くと言ってた。でも、奇病が家禽類の感染症のことだったとして、それが領土の割譲とどう結びつくのかさっぱりわからない。
私が後ろの書架に寄り掛かって溜息をついた時、今度は鉄鋼業関係の本を眺めていたロゼットが本を閉じて、ぼそりと訊いてきた。
「お前さ、ほんとに王妃になるの? 相手は暴君だぞ」
「どうしたの急に? カルダーンは暴君じゃないって何度も言ってるでしょ?」
「……知ってる。お前の話は信じるし、今回の件で直接、陛下とやりとりして、賢君だってことは俺も認めてる。カルダーン三世になら、俺は喜んで仕えるよ。それでも、王宮内には誤解してる奴がいっぱいいるし、先王の第四子が即位したことに快く思わない勢力もいる。おまけに即位して間もないうちに、今回の領土紛争だ。あの国王が進むのは茨の道だぞ。官僚としてやってきたお前は耐えられるのか?」
「………」
私に背を向けていたロゼットは、そのまま振り返って私の目の前にやって来た。
「王妃は社交界で注目されるし、慈善事業で忙殺される。それに、男子の後継者を産まなければ、陛下は第二夫人を娶らざるを得なくなる。官僚として培ってきた経験なんて何の役にも――」
「わかってるよ! でも、今、ここで問い詰めること? あんたは私を応援してくれると思ってたのに……」
語気を強めて言い募ってきたロゼットを見上げて、私は震える声で答えた。大きな図書室に沈黙が落ちる。
「もういい。私、先に戻ってるから」
私はロゼットの顔を見ずにその場を離れた。彼の指摘は核心を突いている。全てを納得して、茨の道でもいいと受け入れて、そしてカルダーンの求婚に「はい」の返事をしたかった。でも、私はそれができないまま、東方辺境自治区に来てしまった。ロゼットはそんな私の後悔と動揺に危うさを感じ取っていたのかもしれない。
図書室を出て一階に戻ると、私は大きく深呼吸をした。新しい空気を吸い込むと、気持ちが少し落ち着いた。なんとなくこのまま自室に戻る気がしなくて、私はまだ行ったことのない一階の南館に足を向けた。
南館は公邸の中では最も豪華な造りをしている。廊下には赤い絨毯が敷かれ、壁に掛かる燭台は黄金色に輝いていた。私はある両開きの大きな扉の前に辿り着いた。これは何の入口だろう。鍵が掛かっているかもしれないと思いつつも、私は扉を両手で押した。すると開く手応えがあり、私は上半身を突っ込んでその部屋を覗いた。
「うわぁ……」
私は思わず感嘆の声を漏らした。そして、素早く身を扉の内側に滑り込ませ、床から壁、天井へと視線をゆっくり動かした。床はぴかぴかに磨き上げられ、壁は汚れのない白、天井はシン教の多彩な神々の絵画で埋め尽くされている。ここは舞踏会用の大広間だった。
目を閉じると華やかな衣装に身を包んだ男女が優雅に踊る姿が浮かぶ。私はそっと溜息をついた。
舞踏会なんて物語でしか聞いたことがない。王宮で働いているといっても政治にしか関わらない女官にはとんと縁のない場所だ。外交省の女官なら舞踏会に関わることもあるかもしれないけれど、外交の王侯貴族を招待して、準備してというように事務仕事でしかない。
でも、王妃ともなれば話が違う。ロゼットがさっき言ってたように、社交界の中心にならなきゃいけない。きちんと踊れるように練習も必要だし、立ち居振る舞いも直さないと。
王妃になった暁のことを考えながら、滅多に使われないだだっ広い大広間を見回していると、私は突然、あることを思い付いた。
――王妃候補に考えてほしいことがある。白龍の乱舞に備えて俺たちができることは何か。
バルダミアからの二つ目の課題への答えを見つけたのだ。
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