その3
3.
その日、私たちは農業・畜産地区の視察も行った。町中とは違う独特の臭いに、ロゼットは鼻を抓んだりしていたけれど、私にはちょっと懐かしいものだった。
「お前、よく平気だなぁ」
「凄いですね……。私もちょっとこういう臭いはダメです」
ロゼットに加えてガイアンも眉根を寄せている。西域将軍と副官はいつものように無表情なので、慣れているのか涼しい顔して我慢しているのかはわからない。
「ほら、私、最初の配属が農林畜産局だったから上司たちの出張の随行で大農家や牧場主のところに行ってたの。さすがに家畜の世話の体験とかまではしてないけど。ああ、懐かしい。そういえば、あんたは一年の半分くらいは海の向こうに行ってたわね」
「楽しかったぜ。基本的に友好国への出張だったしな」
旧友が海外出張を繰り返している間、私は農林畜産局から鉱山資源局に異動し、その後、水運局に配属された。専門分野が定まらないまま今に至ってしまったような気がする。でも、これから……と興味のある分野の仕事を考えて、ああ、私は王妃候補なんだという現実に返る。
ともかく、辺境自治区の農業・畜産業はそれほど奮ってはいないようだった。山岳地帯なので耕作に適した土地が少ないので、仕方ないかもしれない。
「あれ……?」
夏の高地野菜の畑を見学していた私の頬に冷たいものが降り掛かった。それから間もなく、晴れ渡っていた空が灰色の幕が引かれたように暗くなり、畑を吹き抜ける風も冷たいものに変わった。
今朝は暖かくて厚手の外套をライナに渡してしまった私は、急激な天候の変化に身を震わせた。雨が降りそうというより、この分厚い灰色の雲は雪の到来を告げている。
くしゅん。思わず私は小さなくしゃみをしてしまった。そして、両腕で自分の体を抱き締めようとした時、何かが私の背中に被さった。
「王妃候補に風邪を引かすわけにはいかないからな」
深い声が頭上から降ってきて、私は反射的に顔を上げた。バルダミアの焦げ茶色の瞳と視線がぶつかる。そのままバルダミアは私の正面に来ると、私の肩に無造作に掛かった自分の外套をきれいに掛け直し、首元が寒くないようにしっかりと閉じた。
目線のすぐ下にあったバルダミアの手は大きくて、ごつごつしていて、いかにも戦いを生業とする男のもので、私は落ち着かなくなった。
「……あなたは寒くないの?」
「俺は軍人だぞ。しかも将軍。見くびるなよ」
そっけない言い方だったけど、バルダミアの顔には笑みが浮かんでいた。それは嘲笑ではなく、私をからかって面白がっているような感じ。
「敵将の外套だなんて、戦利品ね。国王陛下に送って褒美をいただこうかしら」
毛皮の外套は冷たい外気から私を守ってくれている。でも、ありがとうなんて言わない。さっきから胸がざわついて、私は息苦しくなった。
「シャイラ様、冷えてしまったのでは? ここの地主に頼んで、馬車を呼びました。公邸に戻りましょう」
さっきから姿が見えなかったガイアンは素早く馬車を呼びに行ってくれていたのだった。私はバルダミアから引き離されるようにしてガイアンの後についていき、馬車の後ろに乗せられた。ロゼットが将軍たちと一緒に置き去りにされてしまったのはちょっとかわいそうだったけど……。
公邸に到着し、玄関に入ると待ち構えていたようにライナが抱きついてきた。
「急に天候が変わったから心配したのよ。……あら、それ将軍の外套じゃない。やるわね、あの男」
「……戦利品よ。あいつからぶんどったの」
私は適当に返答すると、外套を脱いでガイアンに預けた。戦利品だから私のところで保管しておくのだ。
「私の部屋に来て、温かい檸檬水でも飲みましょう。蜂蜜をたっぷり入れるとすっごく美味しいんだから」
「シャイラ様、どうぞ行ってください。今は暖まる方が先ですよ」
「うん、ありがとう」
三階のライナの部屋、と言っても客室には初めて入った。最低限必要なものが置かれている以外は何もない。軟禁されているものの、実質的には公邸内は自由に出歩けるため、部屋に物を溜め込む必要がないかららしい。
それでも、暖炉の上に高原の花が飾られていたり、上品で繊細な柄の食器が並んでいるのは伯爵令嬢っぽさを表している。
ライナが用意してくれた檸檬水が体の中に染み渡り、そのうちに手先までぽかぽかと暖かくなった。風が強くなったのか、窓の外から見える木々が横に揺れている。これから本格的に白龍の乱舞が始まってしまうのだろうか。
「強風でちょっと雪雲がなくなったみたい。夕日がきれいね。山が赤く染まってる……」
「晴れた日だと山全体が端から端まで真っ赤になるのよ。この辺では、ルトガ山脈の別名を赤い山脈って言うの。通説ではこうやって夕日色に染まるからなんだけど、別の由来があるらしいわ。残念ながら私は聞いたことがないんだけど」
「へぇ、そうなの」
焼き菓子をつまみながら、ライナと雑談をしていると、暖炉から少し離れた壁際に置かれた両手で抱えるくらいの大きさの楕円形の籠が目に止まった。白くて柔らかい毛布が入っている。何だろうとじっと見ていると、突然毛布がもぞもぞと動いた。
「えっ……?」
思わず私が声を上げると、ライナは軽快に笑った。そして立ち上がって籠の方に歩いて行く。ライナは毛布をかき分け、その中から何かを取り出して私に見せた。
「かわいい……。子猫だったのね!」
ライナの胸のあたりで、耳だけが白い、灰色の子猫がまだ眠たそうに丸まって、小さな前足を動かしている。なんだか久しぶりに愛らしいものを見た気がして、私は自然と微笑んでいた。
「名前は? まだ小さいけど、ここで生まれたの?」
「名前はメイネ。この辺りの古い言葉で希望という意味よ。我ながらいい名前だと思うわ。生まれた場所はわからない。だって、カイ将軍が拾ってきたんだもの」
「バルダミアが?」
信じられないという気持ちと、町の子供たちに慕われていたり、私に外套を貸してくれたりしたことからそれは当然かもしれないという気持ちが同時に沸き起こった。ライナは経緯を説明してくれた。ちょうど私たちが辺境自治区に到着した日の朝、巡回から戻ったバルダミアが公邸付近の木の上で、ミーミー鳴く声を聞き、木から降りられなくなっていたメイネを助けて持ち帰ったそうだ。
「周囲に母猫がいなかったから、放置しておくわけにもいかないだろって。それで私に託されたの。母猫が見つかったら返してあげるけどね」
私はライナがどうして将軍は悪魔ではなさそうだと言ったのか、理解した。私が自治区に来る前に、子猫の件があったからだ。
メイネは椅子に座り直したライナの膝の上で夢を見ている。
私はライナにさっきの視察の間に見聞きしたことを全部話した。バルダミアが二つの課題を出してきたこともだ。
「なんだか、区長のお父様よりよっぽど頼りになるわね」
話を聞き終えたライナがぽつりと呟いた。
「奇病の話はちょっと心当たりがあるから、ロゼットたちとも一緒に考えましょう。もう一つの救済策はすぐには思いつかないわ」
「ううん、いいの。これは王妃候補の私がしっかり考えるべきことだし。それに……」
バルダミアの憂いを帯びた双眸の奥にあるものを、私も見なきゃいけない気がする。カルダーンが暴君ではなかったように、バルダミアもまた野蛮な将軍ではないのだとしたら……? バルダミアが時折見せる微笑みを思い出して、私の胸はきゅっと締め付けられた。




