その3
3.
大きく息を吐き出し、両腕を上にあげて背伸びをする。
「シャイラ様、大丈夫ですか? ご気分は?」
ガイアンが心配そうに微笑みながら、私を覗き込んできた。いつものように優しい双眸を見ると、自然と緊張が溶けていく。
「ありがとう。ぶち切れそうになったけど、決裂しなくて良かったわ。それより、あんたが激怒した姿、初めて見た」
資料を片付けているロゼットに話を振ると、彼はにやりと笑った。え、これって笑うことなの?
「バカだな、お前は。あれは演技だよ。ああやって激怒してみせることで、相手の交渉態度や内容を変えさせたの」
「え、そうなの?」
「カイは冗談とか言ってたけど、場合によっては王妃候補を人質にするっていう選択肢は本気で考えてただろうよ。結局は、交渉の継続に落ち着いたけど」
何なのよ、もう……。ロゼットとカイ将軍の全て計算尽くしのやりとりに、私はどっと疲れて、椅子に座り直してしまった。すると、会議室の扉が開き、マーレン大尉が入ってきた。
大尉は私の目の前まで来て止まった。
「あなたの客室へご案内します。同性の私が付き添った方が何かと安心でしょうから」
にこりともせずに言った副官は、私が立ち上がるのを待っている。少し考えた後、私は大尉に案内をお願いした。相手側の情報をできるだけ知りたいと思った私は、こういう場合、公邸の女中よりも副官に近づくべきだと判断した。ただし、同時にこちら側の情報も伝えてしまうことにはなるけれど。
マーレン大尉が軍服を脱いで、普通の女性の服装になったら、かなり美人なのではないかと私は想像した。化粧はしてないけど、声もそれほど低くはないし、ほのかに百合の香りを漂わせている。
三階へ続く階段の手前まで歩いたところで、後方からぱたぱたと足音が聞こえた。ロゼットかガイアンだろうかと思ったけれど、違った。
「待って、シャイラさん!」
宝石が零れ落ちてきたかと思った。駆け寄ってくるその若い女性は、私が知っている限り、最も華やかで美しく、辺境の地に不釣り合いなほど上品さに溢れていた。長い金髪が優雅に揺れ、豊満な胸と細い腰は同性の私でもドキッとしてしまう。そして、太陽のように笑顔が眩しかった。
「シャイラさん、私もご一緒するわ。隣国の副官よりも、自治区長の娘の方がこの邸のことはよくわかってるでしょ?」
そう、彼女はファース伯爵の一人娘のライナ嬢だった。
私なんかより、ライナの方がずっとカルダーンの王妃に相応しい――。この時、私はなぜだかそう思ってしまった。
ライナは正真正銘、伯爵の娘だ。商家出身の女官よりも遥かに高貴で、王妃の座を射止める資格がある。辺境という地に住んでいたためか、カルダーンの前には姿を見せていなかった美貌のお姫様。
「私のことはライナと呼んでね。マーレン大尉、あなたも何か不自由なことはない? ここにいる西域軍の中で女性はあなただけでしょう?」
私は辺境に閉じ込められた伯爵の娘を、薄幸で地味で可哀想な境遇の女性だと勝手に決めつけ思い込んでいた。でも、目の前にいるライナにはそんな影は微塵もなく、敵将の副官にすら気遣いを見せる度量の広い女性だったのだ。
軟禁している対象から優しい言葉を掛けられた大尉もちょっと戸惑っている。
「今のところは困ったことは特に……。外に転がって寝ることもあるので、それに比べれば不自由はありません」
「それならいいけど。ねぇ、シャイラさん」
「え、あ、あの、さん付けで呼ぶのは止めてください。シャイラでいいですよ」
「……王妃候補なのに? でも、その方が親しくなれるかしら。じゃあ、私たち三人は、名前で敬語を使わずにお喋りしましょう」
私の客室の扉を開けながら、ライナは私と大尉が驚くような発言をした。有無を言わせぬ口調は、さながら伯爵公邸の主だ。領地を占領され、自身は公邸に軟禁されているのに、毅然とした態度は敵の副官をも圧倒している。
「どうして私も含まれるのですか。私はあなたの父上の領地を乗っ取ろうとしてるのに」
「形だけでも仲良くしてたら、交渉が上手く行くかもしれないじゃない。カイ将軍は交渉する気はちゃんとあるんでしょ。明日以降、自治区の重要性を伝えていくって言ってたし」
あれ、どうして会議室にいなかったライナが会談の内容を知ってるんだろう? 不思議に思って、私はそのことをライナに訊ねた。すると、ライナはいたずらが見つかった女の子のように、肩を竦めて舌をぺろっと出した。……なんかずるいくらい可愛い。
「実はね、私、会議室の隣の部屋に忍び込んで、壁の穴から様子を見てたの! リン、お願いだからあなたの上官には黙っておいてね」
「あなたって人は……」
あけすけな暴露に、リンは心底呆れたように眉をしかめた。そして、私とライナを部屋に残し、彼女はすたすたと出て行ってしまった。




