(1)
そこは部屋というにはあまりにも無骨で、ひどく冷たい石が剥き出しの場所だった。用を足すための穴と、毛布にも見える薄い敷き布団と防寒になるのかすら怪しいほどお粗末な布の切れ端のような掛け物。そして、人間を繋ぎ止めるには太すぎる鎖。部屋に備えられたものはそれだけだった。
そこには少年が一人、その太すぎる鎖に左足を繋がれていた。昼にもかかわらず薄暗いその場所で、少年は素肌に布一枚を肩にかけた状態で壁際にうずくまっている。目はうっすら開いているがその瞳には何も映らず、まるで壊れた人形のようにその場所からもう何時間も動いていなかった。
「ハル」
ドアが開いたのは陽が高く昇り、ようやく少年のいる場所に腕一本分ほどの光が差した時だった。ドアの前には男が二人立っていたが、一人は無愛想にもう一人を部屋に押しやるとさっさとドアを閉めてしまった。突き飛ばされるようにして部屋に入った青年は軽い嘆息とともに入り口を振り返るが、既にそこはぴたりと閉じられておりその向こうにいるであろう人影を確認することはできなかった。青年は目にかかった光に映える金色の髪をそっとかき上げて手にした箱を持ち直すと、少年の傍に歩み寄り傍らに腰を下ろした。
「ハル、様子を見に来たよ」
青年がそう口にすると、それまで微動だにしなかった少年は気だるそうに頭の向きを変え、彼の方へ顔を向ける。それを見て青年はほんの僅かに安堵した表情を覗かせ、慎重にドアを一瞥してからそっと箱を開けた。箱の中には薬や治療に使うと思われる道具が詰め込まれていたが、その片隅に小さめのパンが二つ所在無さげに放り込まれていた。青年はそのパンの一つを手に取ると、更に小さくちぎって少年の口元に差し出す。少年はじれったくなるほどゆっくりと顔を動かし、差し出されたパンをもそもそと食べた。
「もうすぐ助けてあげられるから」
青年の抑えた声が聞こえているのかいないのか、少年は再び差し出されたパンをゆっくりと口の中に収めた。かなりの時間をかけてようやく一つ目のパンを食べ終えたのを確認し、青年は動かない少年の肩を抱いて薄い布団の上に仰向けに寝かせた。
青年に少年の年は分からなかったが周囲の人間の話を突き合わせると、十二か十三歳を迎えた頃のはずだった。同じくらいの年の子と比べると、身長はさほど引けをとらないものの体重はかなり軽い部類。腕力の無さには自信がある青年が簡単に持ち上げられるくらいなのだから、相当軽いと判断できる。そして、その軽い体には無数の裂傷と色濃い情事の跡がしっかりと刻まれていた。
やり場のない怒りに目頭が熱くなるのを感じながら、青年は素早く少年の体を観察する。裂傷は多いが血は止まり、このひどい環境でありながら化膿しているものはない。ほんの少し胸を撫で下ろし、箱から消毒液を取り出すとガーゼに大量の消毒液を染み込ませて丁寧に少年の体を拭ってやる。彼自身の判断でこの部屋へ水を持ち込むことはできず、代わりに消毒液を使っている。消毒液なら上から文句を言われることもなく、無くなれば勝手に補充されているからだ。
青年はひと通り体を拭き終えると少年の顔を見つめた。濃茶の髪はもうずいぶん長いこと切られてないせいで、背中に達するほど長くなっている。そしてその髪から覗く顔は、少年が目を伏せていても分かるほど端正なものだった。あとほんの少しでもこの造形が崩れていれば、こんな仕打ちをされずに済んだかもしれないと顔を見る度に考える。
「あと……今夜」
そこまで口にしてから彼は一瞬躊躇い、言葉を切った。しかしすぐに思い直して口を開く。
「今夜、仕事あるって……殺しの」
青年が“殺し”と口にした瞬間、閉じかけていた少年の目がぱちりと見開かれた。灰色の双眸が天井を見据える様は、つい先程までとは明らかに様子が異なり生気を孕んでいる。しかし、それでもなお少年は体を動かすことはしなかった。だが、それまで自発的な行動を一切見せなかった少年の唇がゆるゆると動く。動くだけで声が聞こえるわけではなかったが、青年はその動きを見逃すまいと瞬きもせずに見守った。
「……フィンレイは行けない」
青年がそう呟くように言うと、少年はほんの少しだけ頭を動かした。それだけで、少年の視線が青年のそれとぶつかり合う。視線が交わっただけにもかかわらず、青年は少し驚いたように目を見張った。かなりの長い時間を共に過ごしてきたが、こうして視線が交わったことはこれまでただの一度もなかったのだ。
「グレイスが行く」
青年が言うと少年は理解したのか興味を失ったのか、再び視線を冷たい石に落としてのそのそと体を丸めてしまった。しかし、先程までのように生気のない瞳に戻ることはなく、まるで何かを考え込んでいるかのようなどこかぼんやりとした色を纏っていた。
「時間になったらまた来る」
青年は一つだけ残ったパンを少年の傍らに置き、そのパンが隠れるように布を少年の体の上にそっと掛けてやる。こうしておけば、なかなか自発的に動こうとしない少年でも適当な頃合で食べてくれる。青年は藍色の瞳を細めて笑みを浮かべると、持ち込んだ箱の蓋を閉じて立ち上がった。箱を抱え上げたところで不意にドアが開く。
「いつまでやってる」
そう声を発したのは、先程青年を突き飛ばした男ではない。それよりも痩身の、それでいてひどく冷たい双眸の男だった。彼を突き飛ばした張本人は、こちらに向かって声をかけてきた男の後ろに控えていた。
「ごめん。すぐに出る」
青年はそう言い、ちらりと少年に目を向けてからドアに向かって歩み寄る。
「デガル、施錠しろ」
青年が部屋から出たところで痩身の男が言うと、後ろに控えていた男――デガルは足元に転がっていた握り拳二つ分はありそうな無骨な錠前を拾い上げて指示されたとおりに施錠する。耳障りな金属音とともに施錠された部屋のドアを見つめ、青年が眉を顰める。
「ダズ」
施錠されるところを見つめていた青年は突然名を呼ばれ、弾かれたように振り向いた。痩身の男の鋭い視線がダズに向けられている。
「……何?」
「来い」
それ以上の説明など必要ないと言わんばかりに、痩身の男は踵を返し狭い通路を歩きはじめた。一瞬遅れてダズはその背中を追う。
最後にちらりと部屋の方へ視線を送るとデガルの嘲笑うような顔が見え、ダズは前方へと意識を戻した。
細い通路を縫うようにして歩いた先には、見るからに重そうな扉が二つ現れた。それまで朽ちかけた木製の扉ばかりだったのに対し、明らかに今までとは作りが違う。その手前の扉を引き開けると、男はさっさと室内へ姿を消してしまった。ダズも慌ててその背中を追って部屋に入る。そこは比較的広い空間で、先ほど少年がいた場所とうって変わって部屋と呼ぶにふさわしいだけの調度品が揃っていた。
ダズは毛の長い絨毯を踏みしめながら、部屋の中央に立つ痩身の男の前に歩を進める。手を伸ばせば男に届く距離まで近づいたその瞬間、不意に息が詰まり手にしていた箱を思わず取り落とした。ほとんど同時に膝が折れ、両手で腹を押さえてダズは部屋の中央に蹲る。その時になってようやく、痩身の男の拳が腹に叩き込まれたのだと認識する。遅れてやってきた激しい痛みにダズは額から脂汗が滲むのを感じながら体を縮めた。
「何を見ている。下がれ」
男の声で室内にまだ他の人間がいたと分かるが、ダズの位置から顔を確認することはできなかった。男の声に従って部屋にいた何者かが退室していくのが分かる。扉が完全に閉じ室内に二人きりになった瞬間、男はダズの傍に膝をついた。
「すまない、ダズ。大丈夫か?」
先程までと明らかにトーンの違う柔らかい声が耳に届き、ダズは思わず苦笑いを漏らした。
「本気で殴るなよ。マジで痛ぇ」
扉の外に届かないよう抑えた声で呻くように言うと、男は宥めるようにダズの頭へ手を乗せた。
「十分手加減してるさ」
幼子をあやすような男の手を煩わしそうに払いのけると、ダズは痛む腹を押さえながらどうにか起き上がる。
「悪い情報だ」
絨毯の上に座り込んだままのダズの目に映ったのは、言葉とは裏腹に平静な瞳をこちらに向ける男の姿だった。ダズを一瞥した男はまるで何事もなかったかのように立ち上がり、執務机の前へ歩み寄る。
「勘付かれた可能性がある」
「どうするんだ?」
男とは対称的に、ダズの表情には焦燥の色が滲んでいた。明らかに動揺していると分かる変化にダズ自身も気付くが、それをうまく隠す術をもたない己に思わず舌打ちしてしまう。
「騒ぎに乗じてハルを連れ出せ。彼はザハンの生まれだ」
聞き覚えのある名にダズは立ち上がっていた。
「ダズ、君もまた光の国の生まれだろう?」
話した覚えはない。しかし、男の言っていることは正しかった。あまりに突然のことに、なんと言葉を返していいか思いつかない。
「君の力を借りたい。ハルを国に連れていって君の――君の家の力で彼に安全な生活基盤を与えて欲しい」
「フィンレイ、でも……」
「頼む」
困惑するダズにフィンレイは丁寧に頭を下げた。十歳以上年上のフィンレイに頭を下げられ、ダズはますます顔に浮かぶ困惑の色を深めた。
「君のことも調べた。光の国唯一の公爵家。精霊との縁の深い名門・クラウン家……。そんな家柄の君がなぜここにいるかは聞かない。ただ、君とハルはここにいてはいけない」
再び頭を上げたフィンレイの真剣な眼差しに射抜かれ、ダズは逃げるように視線を落とし一歩後退る。
「グレイスには残ってもらう。君への追撃を防ぐために」
ここにはいない、もう一人の仲間の名を出されてダズは頭を振った。
「でも、ボスは……グスタンはどうするんだ。フィンレイ、あんただって真っ向勝負じゃ勝ち目がないって言ってたじゃないか」
「大丈夫。手は打ってある」
確信に満ちた目を向けられるが、言いようのない不安感が体中を支配する。なんとかこの場に留まる方法はないのか、と様々な可能性が脳裏を駆け巡る。
「ダズ――」
追い打ちを掛けるようにフィンレイが口を開いたその瞬間、荒々しく殴りつけるようなノックが部屋に響いた。それと同時にフィンレイは容赦なくダズの肩を突き飛ばす。呆然としていたダズは何の身構えもできないまま再び床に倒れ伏した。
「何の用だ」
フィンレイの冷えた声に応じるようにしてドアが開く。
「ボスが呼んでる」
痩身のフィンレイと比べると一回りも二回りも大きな体躯がドアの向こうから覗き、床に転がっていたダズはゆっくりと身を起こす。浅黒い顔は、この敷地を根城とする殺戮組織・ゲレリィのボスであるグスタンの片腕とも呼ばれている男だった。
フィンレイは棚に置いてあった布の包みを掴むとダズの前に無造作に放る。
「仕事の準備をさせておけ」
先程まで纏っていた穏やかな雰囲気を微塵も感じさせず、ともするとその眼光で射殺されるのではないかとまで思える視線にダズは恐怖を覚える。ようやく“はい”と声を絞り出した時には既にフィンレイの姿はなく、グスタンの片腕とされる男が瞼の裏に張り付くようなねっとりとした気味の悪い笑みを浮かべていた。
* * *
浅黒い顔の男がフィンレイを追って部屋を引き払った後、ダズは包みを手に急いで少年が監禁されている部屋へと戻った。扉番をしていたのはデガルではなかった。黒い短髪に黒い瞳、服までも黒で統一されたダズよりも頭一つ分長身の屈強な男だった。男の足元にデガルが白目をむいて倒れているのを見ると、ダズは思わず息を呑んだ。
「グレイス、何してるんだ」
思わず声のトーンは落としたものの、声に乗る棘は隠すことができなかった。しかし、それを意に介した様子もなく男――グレイスは開け放たれたドアの中に視線を向けただけだった。それが“早くしろ”もしくは“無駄口を叩くな”どちらにも取れ、ダズは仕方なく中へと足を踏み入れた。
中へ入り、ダズは目を見張った。先程までまるで死にかけた魚のように動きを見せなかった一糸纏わぬ姿の少年が、己の両足で立っている。濁りはないものの意思を持たない目をダズに向け、片手を差し出す。少年の目の先には、ダズの持つ包みがあった。ダズは包みを少年に手渡すと、背後でじっとその様子を見ていたグレイスへと視線を向ける。
「下に白毛の早馬をつけてある」
低く通りの良い声でグレイスは静かに言う。
「後は追わせん。振り返らずに港まで走れ」
一分の変化も見出だせない無表情のグレイスにダズは口を開きかけるが、何を口にしていいか分からず両手を強く握り締めるしかできなかった。結局、どこへ身を置いても言われるがままに動くしかできない。後悔か羞恥かそれとももっと別の感情なのかは分からないが、ダズは腹の中で形容しがたい感情が渦巻くのを感じた。
グレイスがその大きな背にようやっと隠れるほどの大剣をその手に携えたのと、少年の手がダズの服の裾を控えめに引いたのはほぼ同時だった。振り返ると少年は腰にやや重たげな袋を下げている以外、取り立てて表現できるほどの特徴がない平民らしい服装に身を包んでいた。
「下がれ」
部屋に踏み込んできたグレイスが大剣を構える。ダズは慌てて少年の腕を引いて入り口の方へと身を寄せる。それを確認すると、何もない石壁に向かってグレイスが剣を振り下ろす。派手な崩落の音と共に室内へと陽の光が差し込んできた。
耳を貫く音に身を竦ませていたダズの腕を掴むと、グレイスは少年もろともできたばかりの大穴へ二人を押し出した。
「え、ちょ…!」
ほんの僅かの心構えのないまま、踏ん張るだけの時間も与えられなかった。その部屋は高い位置にあったと思い出す間もなく、体が重力に引かれて地上へ落ちる。
「わ! 落ち――ッ!」
地上にいる馬が目に入り思わず両の目をぎゅっと伏せた瞬間、重力に逆らうように体が動きを止めた。恐る恐る細く目を開けると、ダズと少年の周囲を帯状になった漆黒の布のようなものが取り囲んでいる。傍らに宙に浮く影を見つけてダズは息を呑んだ。
「……精霊、か?」
『いかにも。我が名は梗、我が主人の命により参じた』
激しい動きには向かなさそうな黒衣に身を包んだ精霊は、その双眸を漆黒の布によって封じられていた。しかし、まるで両の目が見えているかのようにダズへ顔を向ける。混乱するダズを尻目に身を乗り出したのは、その腕に抱きしめられていた少年だった。精霊の存在が気になったのか、それともその両目を覆う布か、少年の手がそちらの方へ伸ばされる。
『触れるな』
少年の手が触れる寸前、静かだが鋭い声が発せられる。ダズが気付いた時には精霊は随分離れた場所へと移動していた。少年が諦めたように手を下ろすと、まるで綿毛のように降下していた体がその動きを止める。地に足はついていなかったが、ダズは少年を抱えたままグレイスが指定した白馬に跨っていた。
『走れ』
精霊の声に応じるように馬は一度嘶き、駆け出した。ダズが慌てて手綱を握ると金属同士がぶつかり合う音が聞こえ、身を竦ませながらちらりと背後に視線を向ける。そこには馬とダズたちが十分隠れるほどの大きな黒い円盤状のものが立ちはだかっていた。黒いながらもその円盤の向こう側は見通すことができ、飛んでくる矢を耳障りな音と共に弾き返していた。
梗と名乗った精霊は後方を向き宙に浮いたまま、ダズたちの乗る馬に遅れを取らずついてきていた。精霊は今までダズたちがいた場所――グレイスやフィンレイが残っているはずの建物を指差す。現れたのは黒い何かだった。何が現れたのか確認する間もなく、瞬く間にダズたちの後方へ飛んでいく。
「何だ今の」
精霊はしばしその行方を確認していたが、ややもすると進行方向へと体の向きを変えた。
『矢を射た者への返礼だ』
ダズが聞きたかったことに対する答えではなかったが、執拗に矢を放ってくる者へ反撃したことだけは分かった。その証拠に、円盤状のそれに何かが激突するような音は聞こえなくなっていた。