第四話 侵入者との契約とチーユの秘密
真鍮の灰皿を強く握りしめた私の手が、冷たい闇の中でわずかに汗ばんだ。私の完璧な貴婦人の声色は、動揺を悟られないための最後の防衛線だ。
「そちらこそ、どなたかしら? 月光館の敷地に無断で立ち入るとは、どういうご用件で?」
懐中電灯を落とした男は、立ち上がりざまに片手で目を庇った。月明かりが彼の横顔を照らす。二十代後半だろうか、学者か研究者のような、神経質そうな顔つきをしている。身につけているのは質の良いカジュアルな服装だが、泥や土で汚れていた。
男は慌てて懐中電灯を拾い上げ、私に向けずに地面に向けたまま言った。
「失礼しました。私は...考古学を専攻している者です。まさか、ここにどなたかいらっしゃるとは。この屋敷は長い間空き家だと聞いていたので」
「空き家? とんでもない。ここは霧島家の私邸であり、私が厳重に管理しております」
私は一歩踏み出した。灰皿を隠し持っていることは悟らせない。私が彼に恐怖を感じていないことを示すためだ。
「考古学者が、他人の庭で夜中に地面を掘り返すのが普通ですか?」
男は観念したように息を吐き、懐中電灯の光を温室の床に集中させた。そこには、小さなシャベルで掘られた跡と、彼がポケットにしまったらしい、何かの破片があった。
「申し訳ありません。実は、この月光館の土地が、明治時代に特定の植物学者によって使われていた古い研究施設の上に建てられているという記録がありまして。私はその時代に流通していた幻の種子を探していました」
幻の種子。私は眉をひそめた。種子など、いくら幻のものであっても、私の固定資産税の足しにはならない。だが、彼の真剣な眼差しは、嘘をついているようには見えなかった。
「種子、ですか。それが私の敷地を侵す理由になりますか」
「いえ、もちろん、なりません。しかし、私はこの研究に全てを懸けています。この土地でしか見つからない可能性があるのです」
私は即座に頭の中で計算を始めた。彼を警察に突き出すのは簡単だ。だが、それでは何の利益にもならない。むしろ、警察が立ち入れば、この屋敷が完全に無人ではないことが公になり、私の生活に無用な詮索が入る可能性がある。
(警察沙汰は避けたい。だが、彼を無料で帰すのも私の節約術に反する)
私は灰皿を握る力を緩め、一気に態度を変えた。
「わかりました。先生がただの泥棒ではないことは理解しましょう」
私は優雅に、しかし鋭い眼差しで彼を見つめた。
「ですが、ここは私有地です。あなたの研究がどれほど価値のあるものであろうと、私の時間と、私が管理する敷地を勝手に利用することはできません。もし、あなたがこの研究を続けたいのであれば、対価を払っていただく必要があります」
男は驚いた顔をした。彼は私を、高貴だが世間知らずのお嬢様だと思っていたのだろう。
「対価、とは…」
「金銭での契約は難しいでしょう。私も無用な取引記録は残したくない。その代わり、あなたには私の特殊な業務を手伝っていただきます」
私は、この男の知性と、夜間の隠密行動力を利用することを思いついた。そして何よりも、無料で労働力を得る。これこそ、私の最強の節約術だ。
男は警戒心を抱きながらも、研究を続けたい一心で頷いた。
「特殊な業務、ですか?」
「ええ。例えば、重い資材の運搬、廃品回収の手伝い。そして最も重要なのは、水道管の修理です。館内の古い水道管の一部に小さな漏れがあり、水道代がわずかに上昇している。専門業者を呼ぶ費用は惜しい。あなたは、手先が器用そうに見える」
男は呆然とした。幻の種子を探す考古学者が、お嬢様の水道管修理をするというのだ。
「水道管の修理…ですか。専門外ですが、工具は持っています」
「完璧です。あなたは夜間に温室で研究を続ける権利を得る代わりに、私の館の管理を手伝う。契約は口頭で、一切記録に残さない。ただし、私の生活、特に光熱費に関する一切の秘密を口外した場合、私はあなたを不法侵入で即座に警察に突き出します」
私は冷酷に言い放った。彼は、私の顔の裏にある、資金繰りに苦しむ切羽詰まった表情を読み取れなかっただろう。
男は、しばらく躊躇したが、目の前の研究への執着が勝ったようだ。彼は深く頭を下げた。
「わかりました。その条件をお受けします。私は**篠田 啓介**と申します。以後、お見知りおきを。霧島様」
「私は霧島 雅です。篠田さん。それでは、早速ですが、明日から温室の研究の前に、この台所へ来てください。今日の作業は、私が抽出したチーユの瓶詰めです」
私は彼の顔に笑みを向けた。それは、獲物を手に入れた肉食獣のような、優雅で計算高い笑みだった。彼はまだ知らない。私の「特殊な業務」が、彼の想像を遥かに超えた最強の節約術の実行であるということを。
第四話 後書き 霧島 雅
読者の皆様、いかがでしたでしょうか。
不審者の侵入という危機的状況は、私にとって新たな労働力を得る絶好の機会となりました。篠田啓介さんという考古学者を、私は無償で使える「私設管理スタッフ」として雇用したのです。
金銭的な支出はゼロ。これが、残高ゼロの錬金術の真骨頂です。彼の持つ知的好奇心と、研究への執着という弱点を突くことで、私は最も厄介な問題である水道管の漏れ、そして重労働となる資材の運搬を一挙に解決できます。
彼の初めての業務が、私が鶏皮から抽出したチーユの瓶詰めだというのは、彼にとっては滑稽な事実でしょう。しかし、このチーユ一つにも、私の生活を支える大切な節約術が詰まっています。
私の「特殊な業務」は、これから彼にとって、考古学以上に驚きに満ちたものとなるでしょう。彼の研究は、私にとってどんな価値をもたらすのか。そして、彼はいつまでこの奇妙な契約に耐えられるのか。
どうぞ、今後の展開にご期待ください。
霧島 雅




