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月光館の令嬢と残高ゼロの錬金術  作者: ダッチショック


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第一話 社交界の残骸と月光館の秘密

重厚な月光館の玄関扉を内側から閉ざすと、私は一瞬で別の世界へ戻る。先ほどまで身を置いていた社交界の喧騒と、そこで纏っていた「完璧なお嬢様」の装いは、音を立てて剥がれ落ちていく感覚に襲われた。


私の足元に敷かれた絨毯は、かつて最高級だったペルシャ絨毯だ。だが、今の私には、ところどころ毛足が抜け落ちたこの絨毯が、霧島家の崩壊の歴史を象徴しているように見える。父の事業失敗から十年が経ち、この優雅な月光館は、電気、水道、ガス、固定資産税、ありとあらゆる支払いに追われる私にとって、巨大な負債の塊となっていた。


館内は冷え切っている。電気代を節約するため、暖房は入れていない。私は厚手のウールガウンをさらにきつく引き寄せた。このガウンは、二十年前に流行遅れになった母のコートを解体し、夜中に自分で仕立て直したものだ。


テーブルの上には、昨夜のパーティーで私が手に入れた「戦利品」が並んでいる。数枚の高級紙ナプキンと、レストランの裏で廃棄寸前だったパンの耳だ。


「今日の電力使用許容量は、あと三十分の電気ストーブが限界」


指先が冷たさで僅かに震えるが、私はすぐにその衝動を抑え込んだ。電力会社の請求書は、私にとって絶対に屈してはならない敵なのだ。


私の朝食は、昨日パーティー会場でハンカチに包んで持ち帰った、一口サイズのサンドイッチの残り二切れと、安価なカステラをプチフールに見せかけて切った焼き菓子だ。もちろん、サンドイッチの具材は極限まで少なく、カステラはスーパーの特売品だったものを慎重に持ち帰ったものだ。


「パンの耳は、今日中にラスクに加工しなければならない。湿気は大敵よ」


私はブツブツと呟きながら、パンの耳を丁寧にスライスし始めた。この作業は電気を使わない午前中のうちに完了させる。オーブンを使うのは贅沢だ。「太陽光ラスク製法」で、窓辺で天日干しにし、仕上げに三分だけトースターで焼き色を付けるのだ。これで一週間分の朝食用パン代が浮く。


水道代節約のため、朝の洗顔に使用する水は、前の晩に風呂の残り湯をろ過したものだ。ろ過装置は、古いコーヒーメーカーのフィルターを再利用して自作したものだ。これで、洗面台の水道代をゼロに抑えている。


三十分かけて完璧な洗顔を終え、鏡台に向かう。鏡に映る自分は、疲労の色を微塵も感じさせない、透き通るような肌と、憂いを帯びた瞳を持つ、非の打ちどころのないお嬢様だ。


「今日も、完璧に演じきらなければ」


今日、私には重要な任務がある。資産家のお抱え弁護士と面会し、月光館の固定資産税の支払い猶予交渉をすることだ。私は弁護士に対し、霧島家の窮状を絶対に悟られてはならない。もし貧困が露呈すれば、信用を失い、屋敷は容赦なく差し押さえられるだろう。


私はクローゼットの奥から、数少ない「本物」を取り出した。濃紺の上質なウールで仕立てられた、祖母が残したシンプルなアンサンブルだ。これは四十年前のデザインだが、手入れが行き届いているため、今でも一流のオーラを放っている。


このスーツに、靴磨き代を節約するために自作のミツロウワックスで磨き上げた黒のパンプスを合わせる。化粧品の消費も抑えるため、メイクアップは最小限だ。幸い、私の骨格と肌質は、薄化粧でも華やかさを保てる。


問題は、移動手段だ。弁護士事務所は、電車で三駅先。往復の電車賃は四百八十円だ。これは、今日の夕食費の予算を完全に圧迫する。


私は窓の外を眺めた。


「…よし。今日は最高の天気だわ」


私は高貴なアンサンブルに身を包み、書類の入った高級ブランドのバッグを提げた。そして、誰も見ていない裏口から、古びた自転車を引っ張り出した。近所の廃品回収所から無料で譲り受けた、サビだらけのレディスサイクルである。


四百八十円あれば、今日の夕食に、高級スーパーの閉店間際の半額惣菜を買うことができる。その経済効果は、計り知れない。


私は周囲の視線に最大限の警戒を払いながら、サビだらけの自転車に跨った。風に靡く髪と、貴婦人の装い。私の姿は、まるで大金持ちの令嬢が、趣味でアンティークの自転車に乗っているようにしか見えないはずだ。


「さあ、月光館の栄光を懸けた、四百八十円節約ミッションの始まりよ」


私は貴族のような、しかし節約家の戦士のような決意の微笑みを浮かべ、サビのきしむ音を響かせながらペダルを漕ぎ出した。私の頭の中には、これから始まる弁護士との熾烈な交渉よりも、「四百八十円の価値」が、何よりも優先されていた。



第一話 後書き 霧島 雅

読者の皆様、霧島 雅です。私の最初の物語にお付き合いいただき、心より感謝申し上げます。


皆様の目に、私はどのように映ったでしょうか。優雅で気高い、霧島家の令嬢として。


けれど、私の日常は、皆様が想像するような華やかなものではありません。私の生活は、外で見せるあの完璧な装いとは裏腹に、極限の節約と、知恵と、そして時に、屈辱的な小さな戦いで成り立っています。


四百八十円という電車賃を節約するために、私はサビだらけの自転車を漕がなければなりません。しかし、その四百八十円こそが、月光館の未来を繋ぐための貴重な資金源となるのです。


この屋敷、月光館は、私にとって先祖代々の栄光そのものです。同時に、私を窒息させるほどの重い現実でもあります。しかし、私は決してこの家を手放しません。この古びた館を守り抜くことが、私の義務であり、使命なのです。


節約は、もはや私にとって単なる我慢ではありません。それは、私自身の知恵と実行力、そして度胸を試す、高度な錬金術です。いかに少ない原資から、最大の価値を生み出すか。それが私、霧島 雅の日常であり、真の戦場なのです。


この物語を通して、私の偽りの日常と、その裏側にある真実、そして残高ゼロからの錬金術を、どうか見届けていただければ幸いです。


皆様の期待に応えられるよう、これからも美しく、そして強くあり続けることをお約束いたします。


霧島 雅

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