第6話:『春の青き光と、冷めることのない記憶』
魔王城の朝が変わった。
数日前まで支配的だった、骨の髄を凍らせるような暴力的な冷気は、もうない。 代わりに回廊を満たしているのは、柔らかく、どこか湿り気を帯びた空気だ。
ピチャン、ピチャン……。
軒先から、雪解け水が滴る音がリズムを刻んでいる。 魔界を覆っていた万年雪が、春の日差しに降伏したのだ。 俺は夜勤明けの体を伸ばした。関節が軽い。冬の間、あれほど軋んでいた潤滑油が、今は滑らかに回っている。
「……ふむ。悪くない朝だ」
俺は最後の巡回を終え、習慣となった足取りで、北回廊の聖域――**「ジドウハンバイキ」**の前へと向かった。
冬の間、俺たち凍える者たちの生命線だった、鉄の箱。 俺はいつものように銀貨を取り出し、見上げた。 そして、動きを止めた。
「……そうか。終わったか」
昨日まで、暗い廊下で暖炉の火のように灯っていた**「赤い光」が、一つ残らず消滅している。 『あったか~い』の文字は消え、すべての商品サンプルの下に、涼しげな『つめた~い』**の青いランプが点灯していた。
俺の愛した「微糖コーヒー」も、石像と分け合った「コーンポタージュ」もない。 代わりに並んでいるのは、「魔界麦茶」「激冷えサイダー」「スポーツドリンク」。
あの白衣の魔女が、気温の上昇データを読み取り、夜のうちに設定を一気に入れ替えたのだろう。 彼女にとって、それは単なる「在庫管理」と「エネルギー効率」の話だ。
だが俺にとっては、一つの季節の終わりを告げる宣告だった。 もう、あの肋骨に染み渡るような熱を得ることはできない。
俺は少し迷ってから、一番端にある「スポーツドリンク」のボタンを押した。
ガコン。
取り出し口に落ちてきた筒を掴む。 冷たい。 手のひらの熱を一瞬で奪っていくような、鋭い金属の冷たさだ。 これを肋骨に入れても、あのじんわりとした幸福感は得られないだろう。むしろ、腹が冷えるだけだ。
しかし――不思議と、絶望感はなかった。 以前の俺なら、熱源を奪われた孤独に震えていただろう。 だが今は、不思議と寒くない。
俺は回廊の窓から、外壁を見やった。 あの日、涙を流すように氷が溶けたガーゴイル。 今の彼は、顔を覆っていた氷が完全に消え、朝日に照らされた石の肌が凛々しく輝いている。 彼はもう、凍りついた孤独な石像ではない。春の空気を楽しむ、俺の無言の戦友だ。
「わんっ!」
足元で、元気な鳴き声がした。 **黒い子犬**だ。冬の間、俺のすねにしがみついて震えていたチビは、いつの間にか一回り大きくなり、今は「暑いワン」と言わんばかりに舌を出している。 冷たい石畳に腹をつけて涼んでいる姿は、実に平和だ。
「……そうだな。もう、温める必要はないんだったな」
俺はしゃがみ込み、手にした冷たいスポーツドリンクの缶を、ポチの額にピトッと当ててやった。 ポチは冷たさに驚いてブルルと首を振ったが、すぐに嬉しそうに尻尾を振った。
俺の中にあった寒さは、もう消えている。 物理的な熱がなくとも、俺の周りには確かな体温があるからだ。
コツ、コツ、コツ……
廊下の向こうから、規則正しい足音が近づいてくる。 白衣の魔女・リカだ。 彼女はタブレット端末を操作しながら歩いてきて、俺とポチ、そして衣替えした自販機の前を通り過ぎる。
彼女はふと足を止め、俺の手にある「青い缶」を一瞥した。 そして、独り言のようにボソリと呟いた。
「……カルシウムの吸収にはマグネシウム(水分)も必要よ。この時期でも熱中症になるから、気をつけなさい」
それだけ言うと、彼女はまた忙しなく歩き去っていった。 熱中症。骨が熱中症になるかは学術的に不明だが、それは彼女なりの、不器用極まりない「労い」なのだろう。
「……了解した、管理者殿」
俺は小さく敬礼し、彼女の背中を見送った。 そして、立ち上がり、 ひんやりとした缶を、俺の額の骨に押し当てる。
キーンとする冷たさが、夜通し働いた頭蓋骨に心地よい。
赤いランプは消えた。 温かい缶コーヒーもなくなった。 だが、俺の肋骨の中には、この冬の間に蓄積された**「消えない熱」**が確かに残っている。 それは自販機の電気熱ではなく、ここで出会った者たちとの記憶の熱だ。
「……悪くない冬だった」
俺はポチを連れて、春の光が満ちる回廊を歩き出した。 魔王城の社食、その裏側。 そこには今日も、ささやかで、けれど温かい日常が続いている。
俺の名はボーン。 ただの深夜警備員だ。 だが今は、この少しぬるくなった春の風が、それほど嫌いではなかった。




