第3話:『捨てられたダシガラは、雪の夜に小さな命を灯す』
魔王城の冬は、物理的な攻撃力を持っている。
特に今夜のような、吹雪の夜は。
俺は厨房の勝手口で、直立不動の姿勢を保っていた。
北風が肋骨の隙間をヒューヒューと通り抜ける。皮膚がないから寒さは感じないはずだが、関節の潤滑油が凍りつくような感覚は、生者の震えよりも質が悪い。
「……冷えるな」
俺は独りごちて、槍を持ち直した。
自販機のある廊下は遠い。今の俺には、熱源がない。
ふと、左足のすねに、カツ、カツ、と硬いものが当たる感触があった。
風で飛ばされた小枝か?
見下ろすと、雪の中に黒い塊がうずくまっていた。
「……犬?」
いや、ただの犬ではない。
額に小さな突起――角の生えかけがある。魔界の番犬、ヘルハウンドの幼生だ。
まだ目も開いていないような赤ん坊が、俺のすねの骨にしがみつき、ガチガチと震えている。
「おい、チビ。そこを齧ってもカルシウムしか出ないぞ」
俺は槍の石突きで軽く小突こうとした。
だが、子犬は離れようとしない。
よく見れば、俺を攻撃しているわけではなかった。
雪に埋もれないように、そして少しでも風を避けるために、俺の骨を盾にして身を寄せているのだ。
「……無駄だぞ。俺には体温がない」
俺はしゃがみ込み、骨だけの指でその小さな頭を撫でた。
冷たい。氷のように冷え切っている。
このままでは、朝を待たずにこの小さな命の灯火は消えるだろう。
だが、アンデッドの俺には、彼を温める術がない。俺のマントは薄すぎて、何の役にも立たない。
その時だった。
ゴォォォォォ……
頭上の換気扇が低い唸りを上げ始めた。
同時に、勝手口の鉄扉が、重々しい音を立てて内側から開かれる。
扉の向こうから、猛烈な白煙――いや、湯気が噴き出した。
極寒の外気が、一瞬で熱を帯びる。
そして漂ってくる、濃厚で暴力的なまでの芳醇な香り。
獣の肉と骨を、限界まで煮込んだスープの匂いだ。
現れたのは、白衣をまとった料理長・リカだった。
彼女は自分の体ほどもある巨大な寸胴鍋を、魔法で浮かせながら運んできた。
そして、勝手口の横にある廃棄用の穴へ、鍋の中身を一気に空ける。
ドサドサドサッ!!
雪の上に、白い山が生まれた。
それは、出汁を取り終えた大量の**「豚骨」だった。
長時間煮込まれ、髄液の最後の一滴まで絞り出された骨たち。
だが、今の俺たちにとって、それはただのゴミではない。
湯気を立て、雪を溶かすほどの熱量を持った、巨大な「蓄熱材」**だ。
「……ッ!」
子犬が鼻をヒクつかせ、弱々しく鳴いた。
匂いと熱に反応したのだ。
リカは空になった鍋を下ろすと、ふと足元の俺たちに視線を落とした。
俺は慌てて立ち上がり、敬礼する。
子犬はリカの白衣から漂う匂いに惹かれ、ヨチヨチと這い出そうとした。
リカは無表情で俺と、そして震える黒い塊を一瞥した。
怒られるか?
衛生管理にうるさい彼女のことだ。「野良犬を勝手口に近づけるな」と雷を落とすかもしれない。
しかし、リカは何も言わなかった。
ただ、鍋の底に残っていた一本の太い骨をトングで摘み上げると、それをゴミ捨て場ではなく、雪が積もっていない軒下の乾いた地面に、コロンと転がした。
「……カルシウム不足ね」
彼女はそれだけ呟くと、踵を返して厨房へと戻っていった。
バタン。
鉄扉が閉ざされる。しかし、彼女が残していった熱は消えない。
俺はその骨を拾い上げた。
「大腿骨」だ。
しかも、関節の周りには、まだとろとろになった肉片と軟骨がたっぷりと付着している。
熱い。骨の芯まで熱が通っている。
これは極上のカイロであり、そして極上の離乳食だ。
「……ありがたく頂戴しろ、チビ」
俺は子犬の前に、その温かい骨を置いた。
子犬はキャン!と一度鳴くと、その骨に飛びついた。
ガフガフと肉に食らいつき、そして何より、その温かい骨に全身を擦り付けるようにして抱きついた。
骨から伝わる熱と、腹に入ったコラーゲンのスープ。
子犬の震えが、次第に収まっていく。
数分後。
満腹になった子犬は、温かい豚骨を抱き枕にしたまま、スースーと寝息を立て始めた。
俺は壁に背を預け、その様子を見守った。
子犬の背中が、俺の足の骨に触れている。
そこから、じんわりとした温もりが伝わってきた。
それは自販機の缶コーヒーのような、無機質な熱ではない。
トクトクと脈打つ、生き物の熱だ。
「……俺は冷たいが、お前は温かいな」
俺は自分のマントを外し、眠る子犬と豚骨の上にふわりと掛けてやった。
雪はまだ降り続いている。
だが、この勝手口の隅だけは、春のように穏やかだった。




