第2話:『白衣の魔女は、夜明けに鍵束を鳴らす』
午前3時。魔王城の廊下は、死のような静寂に包まれている。
いや、俺は既に死んでいるのだが、この時間の寒さは別格だ。骨の髄がない俺ですら、幻肢痛のように芯からの冷えを感じる。
俺は槍を壁に立てかけ、いつものように廊下の突き当たりへ向かった。
そこには俺の恋人――いや、命綱である**「ジドウハンバイキ」**が待っているはずだ。
銀貨を握りしめた指骨が、カチリカチリと音を立てる。
「……?」
違和感に気づいたのは、あと数歩のところだった。
いつもなら暗闇に浮かび上がる、安らぎの青と赤の光。それが今日は、どこか禍々しい色を帯びている。
俺は目の前の光景に愕然とした。
『うりきれ』
『うりきれ』
『うりきれ』
全てのボタンの下に、赤い文字が点灯している。
青い「つめた~い」も、赤い「あったか~い」も、全てが拒絶の赤一色に染まっていた。
まるで、機械が血の涙を流しているようだ。
「……そんな……嘘だろう……?」
俺は震える手で、一番右端――「微糖」のボタンを押した。
ガシャッ。
虚しい金属音が廊下に響くだけ。あの重厚な駆動音も、温かい筒の落下音もない。
昨夜、オークの部隊が夜会でも開いたのか? それとも、俺の信仰が足りなかったのか?
熱源を失った俺の肋骨を、容赦ない冷気が吹き抜けていく。
俺はその場に膝をつき、動かなくなった鉄の箱に縋り付いた。冷たい。まるで死体だ。
俺の夜は、ここで終わるのか。
その時だった。
コツ、コツ、コツ……
廊下の奥から、規則的な足音が響いてきた。
硬い靴底が石畳を叩く音。それは、この城の兵士の足音ではない。もっと無機質で、冷徹な響き。
ジャララ……
重たい金属が擦れ合う音が続く。
俺は本能的な恐怖で立ち上がり、とっさに柱の陰に身を隠した。
現れたのは、女だった。
闇の中でも白く浮き上がる、純白の衣。
疲れ切った表情の中に、感情の光がない瞳。
**「料理長」**だ。またの名を、白衣の魔女。
(……見つかってはならない。魂ごと喰われる)
俺が息を殺して見守る中、彼女は「ジドウハンバイキ」の前に立った。
そして、腰から取り出した巨大な鍵を、機械の腹部に突き立てる。
ガチャン! ギィィィィィ……
悲鳴のような音と共に、鉄の箱が観音開きにされた。
俺は顎が外れそうになった。
見てしまった。神の体内を。
そこには、複雑怪奇な管と配線が這い回り、冷気が渦を巻いていた。
そして、空っぽになったストッカーが、肋骨のように整然と並んでいる。
あれは機械ではない。内臓だ。
「……チッ」
魔女が舌打ちをした。空気が凍りつく。
彼女は足元の段ボールから、新しい筒を取り出し、機械の体内へ乱暴に押し込んでいく。
ガシャン! ガシャン! ガシャン!
まるで、巨大な散弾銃に弾丸を装填するような音。
あるいは、骨を砕いて詰め込む音。
「……ったく、コーンスープばっか売れすぎ。血糖値上がるわよ、お前ら」
彼女がボソリと呟いた。
ヒィッ! 俺の頭蓋骨の中で声が反響する。
「お前ら」とは俺たちのことか!? 俺たちの骨髄をコーンスープにするという呪詛か!?
補充が終わると、彼女は扉を乱暴に閉めた。
バン!!
その衝撃で、俺の頸椎が少しズレた気がした。
彼女は懐から四角い板を取り出し、何かを操作すると、再び「うりきれ」の文字が消え、美しい青と赤の光が戻った。
死者が蘇生したのだ。
「……ゴミ、溢れてんじゃん」
彼女は最後に、ゴミ箱から溢れていた空き缶を片手で鷲掴みにし、大きな袋に放り込んだ。
そして再び、コツコツと足音を鳴らして去っていく。
その背中は、どんな魔王よりも大きく、恐ろしく見えた。
・・・・・・
足音が完全に聞こえなくなるまで、俺は動けなかった。
数分後。
俺は這うようにして、蘇った祭壇の前へ出た。
銀貨を入れる。ボタンを押す。
ガコン。
温かい「微糖コーヒー」が落ちてきた。
俺はそれを拾い上げ、肋骨に抱く。
じわりと広がる熱。
だが、昨日の温もりとは何かが違った。
この熱は、あの魔女の気まぐれによって与えられたものだ。
彼女が鍵を回せば、俺たちはいつでも凍える夜に突き落とされる。
俺たちの生殺与奪の権は、全て彼女が握っているのだ。
「……いただきます」
俺は誰にともなく呟き、温かい缶を強く抱きしめた。
恐怖を知ってなお、この温もりには代えられない。
それが、俺たちの業というやつなのだろうか。
朝日が昇るまで、あと2時間。
今日のコーヒーは、いつもより少しだけ苦い気がした。




