遠い記憶の先に
「莉子!またあいつらにやられたのか?」
「……う。櫂理君」
小学校からの帰り道、私は泣きながら歩いていると、後ろから慌てて駆け寄ってきた櫂理君に声を掛けられ、咄嗟に振り返る。
これで彼に心配されるのは何度目になるだろう。
この頃の私は引っ込み思案で、いつも物事をはっきりと言えなくて。
それをいいことに、クラスの男子から意地悪をされて、こうして何も言えず泣きながら帰る。
お姉ちゃんだから、もっとしっかりしなきゃいけないのに。
いつも見られたくない所を櫂理君に見られてしまい、毎回とても気まずい。
「お願い櫂理君。お父さん達には内緒にしてくれないかな?」
とりあえず、見られたものは仕方ないので、私は涙を手で拭い、無理矢理笑顔を作る。
「は?またそれかよ?なんでだよ?莉子がこんなに苦しんでるんだから、いいだろ?」
すると、櫂理君は全然納得いかない表情で、頬を膨らませてきた。
「お父さん達今お仕事で忙しいの。だから、余計な心配させたくないんだ」
そんな彼には何を言っても無駄な気がするので、ここは強行手段に出るしかない。
こうして一生懸命頼めば、なんだかんだお願いを聞いてくれるので、私は目をうるわせながら、櫂理君を見つめる。
「………………分かった。莉子がそう言うなら……」
それから、暫く口を閉ざしていた櫂理君は、渋い顔をしながらようやく首を縦に振ってくれて、私はほっと胸を撫で下ろす。
「俺が莉子を守る」
「…………へ?」
けど、返ってきた答えは思っていたものと全く違っていて、意表を突かれた私はつい変な声が出てしまった。
「守るって、相手は年上だよ?櫂理君よりも体大きいし。それに、そんなことしたら櫂理君が危ないよ」
彼の気持ちはとても有難いけど、向こうは四年生にしては体格が良いし、三人グループだし、とても敵うような相手じゃない。
だから、私は必死に止めようとするけど、櫂理君の意思は想像以上にとても固かった。
「それじゃあ、絶対に怪我するようなことは止めてね。危なくなったらすぐ逃げるんだよ。約束」
「分かった!《《怪我しなきゃ》》良いんだな」
結局、彼の勢いに押された私は頷くことしか出来ず、代わりに条件を示すと櫂理君の表情は一気に明るくなり、首を縦に振った。
それから、その日を境に学校から帰ると櫂理君の姿が見えないことがしばしばあった。
クラブ活動は特に入っていないので、いつも帰りは私と一緒か先に家で待っていたりするのに。
帰ってきたと思ったら、全身痣だらけの時があったりして、早速約束を破ってしまったのかと問いただしても、そうじゃないの一点張りで何も教えてくれない。
櫂理君、一体どうしちゃったんだろう……。
普段はいつもと変わず私の後ろをくっついて笑ったり甘えてきたりして、何かあったような雰囲気は特に感じないけど。
強いて言うなら、最近櫂理君は暇さえあれば、よく筋トレをするようになったってことくらい。
そんな必死な姿を見て凄く嬉しいけど、なんだか少しだけ不安になってくる。
一日の授業が終わり、掃除の時間になると、私達は机を後ろに下げて各々分担場所へと移動する。
私はこの時間が一番大っ嫌い。
だって、同じ班には私をいじめてくる人達がいるから。
私の席から斜め向かいに座る庄田君。
この子はクラスの中で一番体が大きくて力が強い。
そして、少しエッチで女の子のお尻を触ったり、スカートを捲ったりでやりたい放題。
そんな彼に敵う人は誰もおらず、いつも周りには庄田君の子分みたいな人達に囲まれている。
だから、私は極力関わらないようにしていたのに、何故か彼に目をつけられてしまい、物を隠されたり、体を触られたりして毎回嫌がらせをしてくる。
特に、先生の目が届かないこの掃除の時間が一番酷くて、私はいつも怯えていた。
「なあ、宇佐美。もしかして胸大きくなった?」
今日は一体何を言われるのかビクビクしていたら、開口一番にセクハラ発言をされ、私は思わずその場で固まってしまう。
「ちょっと確かめさせろよ」
それを良いことに庄田君は私の背後に回り込むと、後ろから抱き締められ、胸を揉み始めた。
「や、やだ。離してよ……誰か、止めて……」
必死で助けを求めるも、他の男子達は面白おかしく囃し立てて、女子達は怖くて逃げ出してしまった。
ここは体育館の裏側だから、人は滅多に来ないので誰も気付かない。
もう諦めるしかないと。
私は涙を溢しながら、そう心中で嘆いた時だった。
「……っぐ!」
突然庄田君の短い呻き声が聞こえ、動いていた手がぴたりと止まる。
一体何が起きたのかと後ろを振り向いた途端、思わぬ人物が視界に映り、私は目を丸くした。
「てめえ、なに莉子の体触ってるんだ?」
そこには鬼のような形相をしながら、庄田君の首を腕で締め付けている櫂理君の姿。
その力はかなり強いのか、あの庄田君がビクともせず、どんどん顔が白くなっていく。
「か、櫂理君!腕離してあげて!」
そのうち泡まで吹き始めてきたので、危機感を抱いた私は慌ててそう叫ぶと、言われた通り櫂理君はすんなりと庄田君から手を離した。
「なんだお前……宇佐美の弟か?随分、舐めた真似してくれるな?」
それから暫く咳き込んでいた庄田君は、ようやくまともに呼吸が出来るようになると、櫂理君を睨みつけて彼の前に立ちはだかった。
「チビのくせに、上級生に手を出そうなんて生意気なん……」
そして、負けじと拳を振り上げた直後。
振り下ろすよりも先に櫂理君の拳が庄田君の右頬に入り、その勢いで彼の体は壁まで吹っ飛んでいった。
その状況に周りが騒然とする。
私も信じられない光景に開いた口が塞がらなかった。
目の前いるのは私の知っている櫂理君じゃない。
取り巻く空気が普段の姿からでは想像出来ない程殺伐としていて、誰も近寄ることが出来ないくらい怖い。
そうこうしていると、櫂理君は倒れた庄田君の髪の毛を掴み、無理やり立たせてから彼のお腹に強い膝蹴りを喰らわせた。
そして、よろけたタイミングで今度は回し蹴りをして、次から次へと攻撃を繰り出す姿はまるでサウンドバックを叩いているよう。
「や、やめろ……。もう、やめてください……!」
明らかに小学三年生の動きではなく、全く櫂理君に歯がたたない庄田君は涙を流しながら懇願することしか出来ない。
「櫂理君ストップ!もう止めてー!」
始めは日頃の恨みでただ静観していたけど、このままでは本当に庄田君が死んでしまいそうな気がして、私は慌てて櫂理君の体に飛びついた。
すると、櫂理君の動きがぴたりと止まり、ようやく庄田君から離れてくれた。
「莉子、大丈夫か?」
「う、うん。それよりも早く庄田君を保健室に連れてってあげよう」
「あの豚はそのまま転がせておけばいいだろ」
それから、いつもの櫂理君に戻ると、私の頭を優しく撫でながら酷い言葉を平然と口にする。
「櫂理君なんで急にそんな強くなったの?もしかして、最近帰りが遅いのって……」
「友達に誘われてボクシングジム通い始めた」
もしやとは思っていたけど、まさかそんな所に行っていたとは。
満面の笑みで答えてくれた彼の斜め上な回答に、私は暫く言葉を失った。
「だってお金は?お父さんもお母さんも知らないよね?」
「友達のついでに教えてるからタダでいいって。だから、これで莉子を守れるし、約束も守れるぞ」
そう自信満々に断言する櫂理君は、とてもキラキラ輝いていて、年下なのに凄く頼りに思えて、一瞬心を奪われそうになった。
それから、私達は庄田君を保健室に連れていき、これまでの経緯を先生に話すと、二人とも厳重注意で終わった。
この話は瞬く間に学校中に知れ渡り、私達の間でスーパーヒーローとなった櫂理君は学校内で一番の人気者となった。
そして、これを機に庄田君は私に一切手を出さなくなり、平穏な学校生活を迎えることが出来るようになったのだった。
__今思えば、あの時が始まりだったかもしれない。
私を守ると言って、”怪我をしない”という約束を口実に、櫂理君はどんどん強くなっていって。
今ではこのヤンキー校において最強で最恐な存在となった。
誰よりも怖くて、誰よりも頼りになって、誰よりも格好いい、私のたった一人の大切なボディーガード。
きっと、この時から私はもう彼に絆されていたのかもしれない……。
「…………うっ」
徐々に意識が覚醒していき、ふと目を覚ますと、目の前には真っ暗な見慣れない天井が広がっていた。
「ここは……?」
それから、ゆっくりと体を起こそうとするも、両手首を紐で結ばれていて上手く身動きが取れない。
私は諦めて辺りを見渡すと、ここは何かの倉庫なのか。
所々にドラム缶や大きな木箱が積み重なっていて、少し埃っぽい。
電気はなく、窓から入り込む陽の光だけが唯一の明るさで、倉庫の奥の方は深い闇が続いていた。
……ああ、そっか。
私襲われたんだ。
次第に思考回路が動き始め、これまでの記憶が徐々に蘇る。
あの時、人気のない所に連れられ、何者かに気絶させられた。
何故そんな目に遭うのか今でもよく分からないけど、その鍵となるのがあの”落とし物”なのかもしれない。
まさか、茶色い封筒一つでこんな目に遭うなんて。
それ程に私はとんでもない物を拾ってしまったのかと思うと、じわりじわりと恐怖が襲ってくる。
「あの、誰かいませんか!?」
とにかく、こんな知らない場所で一人取り残されても怖いので、私は藁をも縋る思いで叫ぶも、待てど暮らせど一向に反応がない。
すると、暫くしてから倉庫の扉が開き、咄嗟に振り返ると、そこにはあの時私を引き連れた目が細い男子生徒と見知らぬ成人男性二人が立っていた。
「……まったく、厄介な奴に拾われたな」
私の姿を見るや否や、男は深いため息を吐くと、徐にこちらの方に近付いてくる。
「せっかく商売繁盛していたのに、教師の奴らにバレたら全てが台無しになるだろ」
そして、まだ何も聞いていないのに、一人でぶつぶつと呟きながら、虚な目で私を凝視してきた。
それはまるで魂のない人形のように、その瞳には光が全く宿っておらず、それが不気味に感じ、私は身を捩らせて後退りをする。
けど、あっという間に追いつかれてしまい、男は私の前で片膝をつくと、無理矢理顎を引き上げてきた。
「あなたは誰なの?何でこんなことするの?というか、あの封筒の中身は何?」
何か言われる前にこちらから質問しようと私は捲し立てると、男は暫く黙り込んでから怪しげに口元を緩ませる。
「覚醒剤。だから、教師連中にチクられると困るんだよ。一発でムショ行きになるから。しかも、君はあの宇佐美櫂理の姉だろ?余計分が悪いんだよね」
それから、まるでこの状況を楽しんでいるような目で微笑んできた。
これでようやく全てのことが分かった。
そして、自分の身が危ないということも。
この人は私を消そうとしている。
このまま何処かに葬り去られるか、あるいは……
「……やだ、櫂理君……」
直感で分かる命の危険。
これまでに感じたことのない押し潰されそうな恐怖に、思わず彼の名前を口にする。
いつも校内で危ない目に遭いそうになった時は、真っ先に駆けつけてくれた。
けど、ここはもう彼のテリトリーではない。
櫂理君が側にいないことがこんなにも怖いなんて。
私はどれ程彼に守られていたのか、改めてここで痛感する。
でも、もう遅い。
どんなに叫んでも、彼にこの声は届かない。
それでも、私はまだ諦めたくなくて。
例え望みが限りなくゼロになろうとしても、必死で彼を追い求める。
「櫂理君っ!」
そんな気持ちを込めて、私は力の限り叫んだ。
その時、外から車の急ブレーキ音が聞こえ、まさかと思い扉の方に目を向けた直後。
「莉子!」
黒色のセダン車から櫂理君が降りてきて、こちらの方に駆け寄ってくる。
それに怖気付いた男は軽い悲鳴をあげると、咄嗟に体格がいい赤シャツ姿の男性の後ろに隠れた。
「おい。あいつらは一体なんだ……」
突然盾にされた男性は訳が分からないといった表情で、後ろに隠れている男子生徒に目を向けた矢先。
櫂理君の飛び蹴りが成人男性のお腹に直撃し、その勢いで男子生徒諸共後ろに飛んでいき、二人折り重なって盛大に地面に倒れた。
「な、なんだこのガキは!?」
その光景に怯んだもう一人の成人男性は一瞬たじろぐも、直ぐに体勢を整えて櫂理君に襲いかかる。
けど、即座に反応した櫂理君は振り向きざま男の首元に肘鉄をくらわせ、男は痛みに悶えてその場でしゃがみ込んでしまった。
「莉子、大丈夫か!?」
隙を見て私の元へ駆け付けてくれた櫂理君。
その姿がとても眩しく見えて、今すぐにでも彼の胸に飛び込みたいけど、生憎手足を拘束されていて何も出来ない。
そんな私の体を両手ですくい上げ、櫂理君はお姫様抱っこをしながら私を一旦外へと避難させてくれた。
「莉子さん、怪我はない?」
「今縄切ってやるから待ってろ」
そして、入り口前で立っていた圭君と雨宮君の姿を見た途端、緊張の糸が解け、意図せず涙がぽろぽろと溢れ落ちてくる。
「みんな、来てくれてありがとう。凄く怖かった……」
それからは止めどなく涙が溢れてきて、私は嗚咽混じりに感謝の言葉を口にした。
「…………暫くの間莉子を頼む」
すると、いつもなら真っ先に私を抱き締めてくれるのに、何故か微動だにしない櫂理君は静かな口調でそう呟く。
そんな彼の挙動に私は不安を覚え、顔を覗き込んでみると、思わず背中がぞくりと震えた。
それは、今までに見たことがない程の冷たい表情。
その瞳の奥からは並ならぬ憎悪が滲み出ていて、ついさっきまで希望の光が見えていたのに、今では黒いオーラが取り巻いている。
…………怒ってる。
おそらく、過去一番に。
そう確信した私は、生唾を飲み込む。
「ちょっとあいつら殺してくる」
それから、その場で固まる私を他所に櫂理君は軽い口調でそう言い残すと、踵を返して倉庫の中へと戻っていく。
そして、扉が閉まってから数秒後。
倉庫からは激しい物音と共に断末魔のような叫び声が複数聞こえてきて、私達は何も聞かなかったことにしたのだった。