7(波紋)
嘉永6年6月3日(西暦1853年7月8日)の夜、江戸湾に放たれた「KNOW」の光文字は、一夜にして日ノ本を震撼させた。
翌朝、浦賀沖のペリー艦隊では、士官たちが集まり、昨夜の不可解な現象について喧々囂々の議論を交わしていた。巨大な光源、そして山肌に浮かび上がったアルファベット。これが日本の技術によるものだとしたら、彼らがこれまで抱いていた「未開の島国」という認識は根本から覆される。ある者は「新型の灯台か何かの試験ではないか」と楽観的な見方を示し、またある者は「あれは我々に対する明確な警告、あるいは何らかの暗号通信の試みだろう」と警戒を強めた。ペリー提督は冷静を装いつつも、日本の技術力と情報収集能力に対する評価を改めざるを得ず、艦内の規律を引き締めると共に、陸地への斥候派遣の準備を密かに命じた。
一方、江戸城内もまた、未曾有の大混乱に陥っていた。浦賀奉行所からの早馬による報告に加え、江戸市中の高台からも観測された謎の光と文字。これが何を意味するのか、老中首座の阿部伊勢守正弘をはじめとする幕閣たちは対応に窮していた。「天変地異の前触れか」「外国の妖術か」「いや、国内の不逞の輩による幕府転覆の狼煙ではないか」といった憶測が飛び交い、評定は紛糾するばかり。確たる情報は何もなく、ただただ右往左往するしかなかった。
その中で、浦賀奉行所与力の中島三郎助は、数日前にジンから受け取った「今宵、浦賀沖にて日本の新たな力を示す『狼煙』が上がる」という謎めいた伝言を思い出し、この怪現象とあの異質な少年を結びつけて考えていた。彼はすぐさま江戸へ向かい、信頼できる上役に事の次第を報告し、真相を探るべく動き始める。
江戸市中でも、昨夜の出来事は瞬く間に広まっていた。「天から文字が降ってきた」「海が光った」「黒船を追い払う神風の兆しだ」といった荒唐無稽な噂から、「あれは蘭学者が作った新兵器らしい」「いや、どこかの藩が隠し持っていた秘密の術だ」といった、やや具体的な憶測まで様々だったが、いずれにしても人々の心には得体の知れないものへの恐怖と、何かとてつもないことが起ころうとしている予感が渦巻いていた。
神田の屋敷では、俺と土方歳三、そして田中久重と向き合い今後の策を練っていた。
ミネルヴァは、いつも通り俺の傍らに静かに佇み、必要な情報を俺にだけ伝えてくる。
(ミネルヴァ、各所の反応は?)
俺は内心で問いかける。
(はい、ジン様。ペリー艦隊は明らかに動揺し、警戒を強めております。艦内では日本の技術力に対する再評価と、あの光文字の意味について様々な憶測が飛び交っている模様。幕府内は、予想通りの大混乱です。浦賀奉行所は対応に追われ、江戸城では責任のなすりつけ合いが始まっているかと)
俺は土方に向き直った。
「土方、市中の様子は?」
「はい。昨夜の光は江戸の民にも衝撃だったようで、様々な噂が飛び交っております。『神の怒りだ』『黒船を追い払う吉兆だ』『いや、あれこそが黒船の妖術だ』と、まあ収拾がつきやせん。ただ、得体の知れないものへの恐怖と、何か新しいことが始まるんじゃないかっていう妙な期待感が入り混じってるように感じやした」
土方は、自らも昨夜の光景の当事者の一人でありながら、冷静に市中の空気を報告する。彼の情報収集能力と分析力も、この数ヶ月で格段に向上していた。
「よし。第一段階は成功だな。久重殿、昨夜の『灯り』と『文字』、改めて見事な出来栄えでした。あなたの技術がなければ、この策は成り立たなかった」
「いやはや、ジン殿の奇抜なご発想と、その精密なご指示があってこそ。わしはただ、それを形にしたまで。しかし、あの光景は、この久重、生涯忘れませぬぞ!試作品とはいえ、あれだけの数の電球が一斉に輝き、文字まで描いたのですからな。電源の持続時間は1時間ほどが限界でしたが、衝撃を与えるには十分すぎるほどでした。まさに壮観…!この技術をさらに発展させれば、夜の無い街すら夢ではありますまい!」
久重は興奮冷めやらぬ様子だ。
俺はミネルヴァに内心で尋ねる。
(幕府内で、俺たちの『狼煙』を理解し、利用しようと考える人間はいるか?例えば、中島三郎助や、小栗忠順あたりは?)
(中島三郎助殿は、昨夜の現象とジン様の伝言を結びつけ、真相を確かめるべく江戸へ向かっております。彼は実直な人物ゆえ、この事態を憂慮し、何らかの行動を起こすでしょう。小栗忠順様は、まだ若く大きな権限はありませんが、この事態を日本の技術革新の好機と捉え、独自のルートで情報収集に動いている可能性が高いと観測されます)
「そうか。では、彼らにこちらから接触の手を伸ばしてみるか。俺たちが持っている『情報』という名の武器を添えてな」
俺はミネルヴァから得た、より詳細なペリー艦隊の内部情報や、アメリカ本国の国内情勢、そして彼らが日本に開国を迫る真の理由(捕鯨船の補給港確保、対中国貿易の拠点化など、幕府がまだ掴んでいない情報)を元に、書状を認めた。もちろん、差出人は不明だ。
これを、土方の手引きで中島三郎助と小栗忠順、それぞれに極秘裏に届ける。書状の最後には、「もし、この情報に関心があるならば、二日後の夜、神田明神下の料亭『明神丸』にて待つ」とだけ記しておいた。
翌日、ペリーは幕府に対し、大統領親書の手交と会見を強硬に要求。幕府は、この前代未聞の事態と、国内に現れた謎の勢力(俺たち)の双方に板挟みとなり、対応に苦慮していた。そんな中、俺たちからの書状を受け取った中島と小栗は、その情報量の多さと正確さに驚愕する。特に、自分たちでさえ掴めていないペリー側の内情や、アメリカの国家戦略レベルの話は、彼らにとって衝撃的だったろう。
そして、約束の夜。神田明神下の料亭「明神丸」の一室に、俺とミネルヴァ、そして護衛として土方が控える中、現れたのは中島三郎助ただ一人だった。小栗忠順は、まだ若く立場も不安定なためか直接の接触は避けたようだが、中島を通じて俺たちの意向を探ろうとしているのかもしれない。
「…あなたが、あの書状を?」
中島は、鋭い目で俺を見据える。実直で剛毅な武士という印象だ。その目には、警戒心と共に、わずかな期待のような色も見て取れた。
「いかにも。中島殿、単刀直入に言おう。俺は、この国が黒船に屈するのを見過ごすわけにはいかん。そして、あなたも同じ思いのはずだ。書状に記した情報は、その証の一つに過ぎない」
「…我々を試しているのか?あの光も、この書状も、全てあなたの仕業だと?」
中島の声には、まだ疑念が色濃い。
「そうだと言ったら?信じられぬか。だが、あの光が何であったにせよ、書状に書かれた情報が真実であることは、あなた自身が一番よくお分かりのはずだ。ペリーが何を求め、アメリカが何を狙っているのか。そして、今の幕府にそれと渡り合うだけの力と知恵があるのか」
「……」
中島は押し黙る。俺の言葉が的を射ていることを、彼自身が一番理解しているのだろう。
「俺の目的は、この日ノ本を真に強く、豊かな、誰からも侮られぬ国にすることだ。そのためなら、どんな手段も使う。あなたには、俺の知恵と力を貸そう。ペリーとの交渉、そしてその後の日本の進むべき道について、だ。例えば、ペリーの要求は多岐にわたるが、彼らが最も優先しているのは安全な補給港の確保と漂流民の保護。そこを糸口に、通商条約については慎重な交渉と時間稼ぎが可能だ。また、彼らは日本の石炭にも強い関心を示している。それを逆手に取ることもできる」
俺は中島に対し、ミネルヴァから得た情報を元に、ペリーの要求内容の具体的な分析、それに対する日本の取るべき現実的な対応策、そして将来的な富国強兵のビジョンの一部――海軍力の増強の必要性や、国内産業の育成策などを、彼の理解度を探りながら語った。中島は、俺の言葉に時に驚愕し、時に深く頷き、そして時には鋭い質問を投げかけながらも、真剣に耳を傾けていた。彼の表情からは、この国の未来を憂う真摯な思いと、未知の知識に対する強い渇望が感じられた。
数時間に及ぶ密談の後、中島は重い口を開いた。
「…ジン殿。あなたの知識と先見性、そしてその底知れぬ力の一端は理解したつもりだ。正直、まだ全てを信じきれたわけではない。だが、この国を憂う心に嘘はないと見た。私の一存であなたを幕府の交渉の場に正式に引き入れることは、今の段階ではできん。しかし、この国難を乗り切るため、あなたの知恵を非公式ながら拝借したい。まずは、今週末に久里浜で行われることが内定した、ペリーとの最初の会見…そこで、あなたの力を試させてはいただけないだろうか。私が交渉の場で、あなたの助言を参考にするという形で」
「望むところだ。ただし、条件がある。俺が提供する情報は、確実に交渉の場で活かしてほしい。そして、その結果次第では、俺の存在を幕府内でより公に認めてもらう必要がある」
「…分かった。できる限りのことはしよう」
こうして俺は、幕府の公式な使節団とは別に、中島三郎助の「知恵袋」のような形で、久里浜でのペリーとの歴史的会見に、非公式ながらも関与する足がかりを得た。
会見の日は、数日後に迫っていた。俺はミネルヴァと共に、ペリーを、そしてアメリカという国をどう「料理」するか、最終的な戦略を練り始めた。
田中久重には、会見の場でアメリカ側に見せつけるための、新たな「技術的デモンストレーション」の準備を急がせる。それは、彼が試作した電信機を用い、その革新的な文字通信技術をアメリカ側に見せつけるというものであった。
久重は
「7日間の議論だけでは理論の理解まででしたが、ジン殿の的確なご指示があれば、試作品くらいは!」
と意気込んでいる。
土方歳三には、久里浜周辺の地理の把握、警備体制の確認、そして万が一の事態に備えた退路の確保を命じた。彼の部隊も、この数ヶ月で格段に練度が上がっている。
歴史の歯車が、俺の介入によって、少しずつ、しかし確実に軋み始めているのを感じていた。
【人物紹介】
■中島三郎助:
・登場時の年齢:32歳
・史実の生没年:1821年~1869年
・主な功績:
浦賀奉行所の与力。ペリー側の「最高位の役人以外とは面会しない」との強固な姿勢に対し、同行した役人を「副奉行である」と嘘をつき黒船に最初に乗船した日本人。造船技術にも詳しく、日本の海防の必要性を早くから訴えていました。
戊辰戦争・函館五稜郭にて戦死。
■小栗忠順:
・登場時の年齢:26歳
・史実の生没年:1827年~1868年
・主な功績:幕末の幕臣。勘定奉行、軍艦奉行などを歴任し、横須賀製鉄所の建設、フランスからの借款、軍制改革など、日本の近代化に多大な貢献をしました。開明的で先見性に富んだ人物でしたが、その剛直さから敵も多く、維新後に斬首されました。