56(連合)
1885年。
ロンドン海軍軍縮会議の決裂と、日本の「脱退」宣言。
その報は、瞬く間に海底ケーブルを駆け巡り、世界中の指導者たちを揺さぶった。
一つの国の、たった一人の外交官の決然たる行動が、ドミノの最初の一枚を倒したのだ。
世界は、否応なく、次なる一手を選択する時を迎えていた。
§
フランス、パリ
ケ・ドルセー(フランス外務省)の執務室。
首相アンリ・ブリッソンと外相シャルル・ド・フレシネは、ヨーロッパの地図を前に、ほくそ笑んでいた。ドイツ帝国が、赤いインクで忌々しく囲まれている。
「日本の台頭は忌々しいが、それによって我らが宿敵ドイツが、欧州で孤立し始めている。これは好機だ。英国と手を組み、日本を抑えつつ、ドイツへの包囲網を完成させる!」
ブリッソンは、拳を握りしめた。
「…そして、アルザス・ロレーヌの屈辱を晴らす」
日本の問題は、対岸の火事。
だが、その火を利用して、長年の宿敵を焙り出すことはできる。
ロシア、サンクトペテルブルク
冬宮殿の、暖炉の火も届かぬような冷たく広大な皇帝の書斎。
皇帝アレクサンドル3世は、外相ニコライ・ギールスからの報告を、微動だにせず聞いていた。
だが、その巨躯から発せられる威圧感は、部屋の空気を凍てつかせていた。彼は窓の外の雪景色を見つめ、静かに、しかし心の底からの憎悪を込めて呟いた。
「…奴らは、神が我らに与えた南への道を、黄金と鉄で塞いだ。その罪は、シベリアの永久凍土よりも重いと、いずれ知ることになるだろう」
極東の猿どもが、我らの南下政策をことごとく邪魔しおって…。
英国と組み、日本の息の根を止める。サハリンの借りは、必ず返させるのだ。
CSA、リッチモンド
南部特有の、湿気を含んだ熱い空気が、大統領府の閣議室に澱んでいた。
大統領ウェイド・ハンプトン3世は、日本のエクアドル進出に関する報告書を、忌々しげに眺めている。
「太平洋も、中南米も、我らが庭のはずだった。日本のこれ以上の膨張は、我が国の存亡に関わる」
彼は、有能な政治家であると同時に、白人による世界秩序の信奉者だった。
日本の台頭は、彼の信じる世界の形そのものへの挑戦なのだ。
「英国の提案に、乗るしかあるまい。黄色人種の野心を、ここで叩き潰す。神が定められた、我ら白人が導くべき世界の秩序を守るために」
スペイン、マドリード
かつて日の沈まぬ帝国と謳われた国の、少し寂しくなった執務室。
首相アントニオ・カノバスは、フィリピンや太平洋の失われた領土が、日本の色に塗りつぶされた地図を眺め、深い溜息をついた。
「もはや、我が国単独で日本と戦う力はない。英国の力を借り、せめて残った領土…キューバや、アフリカ、フィリピン北部の僅かな植民地を守り抜くしかない…」
その声には、過去の栄光への哀愁と、現在の無力さへの諦観が滲んでいた。
オランダ、ハーグ
首相ヤン・ヘームスケルクは、スマトラ島が日本領になったとたんに石油が出たという、我が国が持っていた場合の経済報告書を前に、頭を抱えていた。
「日本の力は、我々の想像を遥かに超えていた。英国の誘いは、屈辱だ。だが、残る香料諸島や、なによりジャワを守るためには、受け入れざるを得ん…」
スペインやオランダには、もはや、あの日本の怪物と単独で戦う気力など、どこにも残ってはいなかった。
イギリス、ロンドン
ダウニング街10番地、首相官邸。
ソールズベリー侯は、執務室で一人、世界地図を前に、静かに駒を動かしていた。
彼は、この世界の混沌を、まるでチェスの盤面のように、冷徹に見つめている。
(日本は、もはや我々がコントロールできる存在ではない。世界の秩序のため、そして何より大英帝国の覇権のため、明確な『敵』として、国際社会から完全に孤立させる。そのための『大同盟』だ)
彼の決断に、迷いはなかった。
§
これらの動きに対し、別の場所でも、新たな駒が動き始めていた。
ドイツ、ベルリン
宰相ビスマルクは、皇帝ヴィルヘルム1世に説いていた。
「陛下、英国は日本を孤立させると言っていますが、ご覧ください。この包囲網は、ベルリンの心臓を直接狙う短剣でもあります。フランスの復讐心、ロシアの野心、そして英国の嫉妬…日本は、それら全てをドイツに向けるための、最高の『口実』なのです。もはや、太平洋の嵐は、対岸の火事ではございません」
彼は、ドイツ、オーストリア、オスマン帝国を一本の線で結んだ。
「座して死を待つわけにはいきません。我らもまた、鉄の結束で対抗するのです」
オスマン帝国、イスタンブール
大宰相キャーミル・パシャは、日本の軍事顧問団がセルビア軍を撃退したという報告と、順調に進む3B計画の進捗報告書に、満足げに頷いていた。
「…日本の若き総攬は、瀕死の病人とまで呼ばれた我が帝国に、血と、そして希望を注いでくれた。今や、その血は熱くたぎっている。この恩義に、帝国は剣をもって応えねばなるまい。ドイツと共に、我々は日本の側に立つべきだ」
オーストリア、ウィーン
外相グスタフ・カルノキが、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に報告する。
「陛下。ロシアとの悪しき盟約は、日本の『カミソリ』が、見事に断ち切ってくれました。彼らは、我々にボスニアという実利と、ロシアという名の脅威の正体を、同時に示してくれたのです。今、我らが頼るべきは、ロシアではなく、ドイツと、その背後にいる日本です」
§
そして、二つの陣営から、誘いの手が伸びていた国々もまた、決断を迫られていた。
イタリア、ローマ
首相アゴスティーノ・デプレティスは、地図上の「未回収のイタリア」…オーストリアが支配する南チロルとトリエステを、憎々しげに指さした。
「諸君、我々の悲願は何か。全てのイタリア人が、一つの旗の下に集うことだ。その道を阻むのは、オーストリアだ。そのオーストリアが中央同盟につく以上、我々が選ぶ道は一つしかない。連合国に加盟する。日本の問題は、その次の話だ」
ポルトガル、リスボン
首相フォンテス・ペレイラ・デ・メロは、自国の地図を見て、深い溜息をついた。大西洋に面してはいるが、陸続きの隣国は、巨大なスペイン。そのスペインが、英仏の陣営に入る。
「…選択の余地は、ない。我々は、英国と共に歩むしかないのだ…」
こうして、ロンドン会議の決裂からわずか数ヶ月で、世界は、二つの巨大な軍事同盟へと、その姿を変貌させたのだった。
§
ロンドン会議の決裂から数週間後。
イギリス首相官邸の、壮麗なボールルーム。
そこは、新たな世界の秩序を宣言するための、荘厳な儀式の場と化していた。
シャンデリアの光が、居並ぶ各国大使の勲章に反射し、きらめいている。
フランス、ロシア、CSA、スペイン、オランダ。
六カ国の代表団は、日本の「暴挙」に対し、鉄の結束で臨むという、希望と、そして正義の執行者たる自負に満ちていた。
イギリス首相ソールズベリー侯が、演壇に立つ。
「紳士諸君。歴史は、我々に常に一つのことを教えてきた。それは、『秩序』なくして『平和』はあり得ない、ということだ。我々ヨーロッパの先人たちは、幾多の戦争と革命の血の海の中から、この『文明世界の秩序』という、か細い一本の糸を、慎重に紡ぎ上げてきた」
彼は一度、そこで言葉を切り、集った各国の大使を、まるで教え諭すように見渡した。
「だが今、東の海から、その神聖なる秩序を理解せぬ、新しい潮流が押し寄せている。彼らは、我々が築き上げたルールを『古い』と嘲笑い、自らの野心という名の力で、世界の盤面を塗り替えようとしている。スエズの一件、ベルリンでの横暴、そして太平洋の独占…。これは、もはや看過できぬ『挑戦』だ」
彼の声は、静かだが、鋼のような響きを帯びる。
「これは、日本という一つの国を叩くための同盟ではない。我々自身が築き上げてきた、文明世界の『礎』を守るための、神聖なる義務なのだ。この署名は、歴史に対する、我々の責任の証となるだろう。今日、我々は一本の線を引く。そして、あの若く、野心的な帝国に、世界の本当の広さと、秩序の重さを教えるのだ。これ以上、一歩たりとも、好きにはさせぬ、と」
彼の力強い演説の後、六カ国は「対日共同宣言」に署名。ここに、世界最大の軍事同盟「連合国陣営」が、希望に満ちた産声を上げた。
§
その報は、即座にベルリンにもたらされた。
宰相府の、華美な装飾を一切排した、質実剛健な執務室。
ドイツ宰相ビスマルクは、オーストリアとオスマン帝国の大使を前に、ヨーロッパの地図を広げていた。
その雰囲気は、ロンドンのような華やかさとは無縁の、生き残りを賭けた密約の場のそれだった。
「彼らはこれを『対日同盟』と呼ぶが、諸君、この地図を見たまえ。これは我々全員を閉じ込める『檻』だ」
ビスマルクの指が、連合国となった国々をなぞり、ドイツ、オーストリア、オスマンを囲む、巨大な包囲網を描き出す。
「英国は、『日本の脅威』を口実に、我々を包囲する、長年の悲願だった『檻』を完成させようとしているのだ。太平洋で一発の砲弾が撃たれる前に、我々はベルリンで、経済的、外交的に首を絞められることになる! 日本の問題は、我々が動くための、ただの『口実』に過ぎんのだよ!」
彼の言葉には、国家存亡の危機感が滲む。
「生き残る道は一つ。我らもまた、鉄の結束で対抗する。だが、勘違いするな。我々は、彼らの土俵で防衛戦争をするのではない!」
ビスマルクは、拳で地図を叩いた。その音に、二人の大使が息を呑む。
「彼らは『世界の秩序』と言う。だが、それは『英国の秩序』の言い換えに過ぎん! 彼らは『平和』を口にする。だが、それは我々が、彼らの望む『檻』の中でおとなしくしている間だけの、偽りの平和だ! 平和とは、嘆願書や、多数決の拍手によって維持されるものではない! この時代の大きな問題は、ただ『鉄』と『血』によってのみ、解決されるのだ!」
ビスマルクの言葉にオーストリア大使が、期待と不安の入り混じった顔で問いかける。
「宰相閣下。その結束に、日本帝国を加えるお考えは?」
ビスマルクは、静かに首を横に振る。
「いや、まだだ。彼らを今、この同盟に正式に加えれば、連合国が掲げる『対日同盟』という口実を、我々が肯定してしまうことになる。英国の思う壺だ。それは、我々が世界大戦の引き金を、自ら引くのと同じことだ」
彼は、地図上の日本を指さす。
「日本は、我々の『沈黙の同盟国』だ。彼らには、太平洋という巨大な盤面で、英国とCSAの海軍を、存分に引きつけてもらう。我々と日本の連携は、公の場で交わす条約ではなく、水面下の交渉と、互いの国益という、もっと強固な絆で結ばれる」
ビスマルクの説明でオーストリアとオスマン大使は納得し、改めてこの男の政治力に舌を巻く。
2国の大使の様子を確認したビスマルクは演説を締めくくる。
「我々三カ国で、イギリスが押し付ける秩序とは違う、我々自身の新たな『大陸の秩序』を創り上げるのだ。そのためには、議論や多数決ではなく、鉄と血が必要となるだろう! 我がドイツの工業力、オーストリアの結束、オスマンの不屈の魂…大陸の心臓が、一つになって鼓動する時、その響きが、海の向こうの獅子をさえも震え上がらせることを、世界に教えてやろうではないか!」
「ここに、ドイツ、オーストリア、オスマン帝国による『中央同盟』の結成を宣言する!」
三国は、連合国という共通の脅威に対し、固い盟約を結んだ。
§
江戸、総攬府。
世界中から集まってくる電信を受け、俺とミネルヴァは、巨大な世界地図の上の駒を、一つ、また一つと動かしていた。
連合国(青)と中央同盟(赤)、世界は二つの色に塗り分けられていく。
その光景は、もはや外交ではなく、世界大戦の序盤配置に他ならなかった。
「ジン様のご計画通り、世界は二つの陣営に完全に分断されました。ヨーロッパは、一触即発の火薬庫と化しましたわ。…それに、イタリアとポルトガルが、連合国への加盟を正式に受諾するようですわ」
「だろうな」
俺は、動じる様子もなく頷いた。
「オーストリアを敵と見なすイタリアと、周りを敵国に囲まれたポルトガルに、選択の余地はない。…よし。これで、全ての駒は、盤上に揃ったわけだ」
俺は、駒の配置が完了した地図を、満足げに見つめていた。
漁夫の利。欧州の獅子たちが、互いに牙を剥き、睨み合っている。
「ええ。彼らがヨーロッパで睨み合っているこの数年間が、我々にとっては、決定的なアドバンテージを築くための、最後の時間となりますわ」
「ああ。建艦競争は、もう始まっている。だが、彼らが数で競うというのなら、我々は『質』で、そして『概念』そのもので、彼らを置き去りにする」
「ジン様。欧州で睨みあっているとはいえ、連合国海軍の総艦隊数は、現時点での我が海軍のおよそ5倍。我が国の質的優位をもってしても、二正面、あるいは三正面での艦隊決戦は、現時点では極めて困難かと」
「ああ、分かっている。だから、彼らと同じ土俵で、数と数の殴り合いをするつもりはない。…だが」
俺は、東郷や大山といった、帝国に勝利をもたらした英雄たちの顔を思い浮かべる。
「国民と、そして海軍の英雄たちが、帝国の象徴として『最強の剣』を求めるのなら、それに応えるのも、総攬たる俺の務めだ」
俺は、海軍卿に提出させる予定の、新しい計画書に目を落とす。
「ミネルヴァ。八八艦隊計画はもうすぐ全艦完成するな?続く『第二次建艦計画』は二つの柱を立てるぞ。一つは、世界の度肝を抜く、究極の超弩級戦艦『大和級』の建造。50口径17寸砲(≒51.5センチ砲)を搭載した、真の海の王者だ。これは、帝国の『権威』そのものとなる」
「…ですが、それでは、ますます数で苦しくなるのでは?」
「そうだ。だから本命はこちらだ。もう一つの柱…『六個機動部隊構想』。航空母艦と、それを護衛する高速戦艦、そして多数の駆逐艦から成る、独立した打撃部隊を六つ創設する。これが、敵の息の根を止める、帝国の『影の刃』となる。拳を振りかざして見せながら、懐の短刀で急所を狙う。単純なことさ」
俺の視線は、太平洋の向こう側…南北アメリカ大陸を繋ぐ、細い地峡に向けられていた。
「そして『質』の次は『概念』だ。ミネルヴァ。次の授業のテーマは、『パナマ』だ。フランスがなぜ失敗したのか、その土地の風土病、そして、二つの大洋を繋ぐための、最も効率的な水路…。お前の知る、全ての知識を教えてくれ」
「ふふっ、承知いたしました、ジン様。最高の『家庭教師』として、腕が鳴りますわ。…世界の海を、もう一度、作り変えるための、授業を始めましょう」
俺は、パナマ運河が描かれた一点に、新たな日本の駒を、静かに、しかし力強く置こうとしていた。
■オスマンの宰相について
日本と連携を強めたオスマン宰相ミドハト・パシャですが、史実通り新しい皇帝(アブデュルハミト2世)と対立して、1877年には宰相をクビになって、国外追放されています。
史実でもそうでしたが、今作では露土戦争すらないので、皇帝が改革派を弾圧する余裕があると考えました。
■日本と連合国の艦隊数の差について(1885年現在)
・大日本帝国 合計20隻。
八八艦隊計画がほぼ完了(内訳:新型戦艦8隻、新型巡洋戦艦8隻)。
+三笠級戦艦4隻(維新外征戦争で使用の前弩級戦艦)。
・大英帝国 約40隻。史実通り。世界最大の艦隊。
・フランス 約30隻。世界2位の海軍力。
・ロシア 約25隻。史実における露土戦争、日露戦争を回避しているため、史実よりも艦隊が温存されている。
・CSA 約10隻。維新外征戦争で主力艦隊が壊滅。大建艦計画(52話)を始めたばかりで、まだ数は揃っていない。
・イタリア 約15隻。地中海での制海権を狙い、海軍を増強中。
・スペイン 約5隻。維新外征戦争で壊滅。かつての無敵艦隊の面影はない。
・オランダ 約5隻。同上。本国と、なによりジャワ(蘭領東インド)の防衛で手一杯。
・ドイツ 約15隻。陸軍国だが、ビスマルクの元で海軍も着実に増強中。
因みに、日本以外の船は装甲艦が中心ですね。一応イギリスやフランス、ドイツが日本の三笠級を見て前弩級戦艦の研究中、開発中で、イギリスでは既に3~4隻、フランスでも1~2隻は前弩級戦艦に近いものが出来ています(史実より20年近く早いですね)




