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幕末ブループリント  作者: ブイゼル
第5章(冷戦)
52/65

52(千鍛)

1878年、帝都・江戸。


かつて安政江戸地震の影響で、泥と埃にまみれていた帝都・江戸の大通りは、今は規則正しく敷き詰められた石畳に姿を変え、夜にはガス灯が柔らかな光で街並みを照らしていた。

その道を行き交う人々の服装こそ、この新生日本帝国の、混沌としたエネルギーを何よりも雄弁に物語っていた。


薩摩絣さつまがすりの着流しで、堂々と腰の大小を差した男の横を、色鮮やかなハワイの『アロハシャツ』を粋に着こなし、同じく刀を差した若者が笑いながら通り過ぎていく。

スマトラの風が香るようなバティック(ろうけつ染め)の布を肩に掛けた商人が、台湾の客家はっかの女性が被る、縁に黒い布がついた美しい花柄の頭巾を眺めている。

馬車の代わりに道を滑るように走る国産自動車の窓からは、琉球の紅型びんがたを思わせる鮮やかな柄のドレスを纏った、新しい華族の令嬢が、珍しそうに街の景色を眺めていた。


それは、西洋の模倣ではない。

大日本帝国がその翼の下に収めた、太平洋のあらゆる文化が、帝都江戸で混ざり合い、全く新しい、しかしどこか懐かしい、力強い「日本の日常」を創り出している光景だった。


「百忍千鍛」――維新外征戦争の勝利から数年、そのスローガンの下で進められた日本の近代化は、帝都の風景を劇的に塗り替えつつあった。


その石畳の上を、一台の黒塗りの車が、馬に引かれることなく、しかし驚くほど静かに滑るように走り抜けていった。

流線型の優雅なボディ、磨き上げられた車体にはガス灯の光が反射し、銀色のラインを描く。

それは、『日本航空機研究所』が、所長・吉田松陰の元で若き()()()()を開発責任者に据え、国の総力を挙げて完成させた、国産自動車だった。


人力車の上からその光景を眺めていた工部卿・五代友厚が、隣に座る文部卿・福沢諭吉に、感嘆の息を漏らした。


「…あの自動車、開発を率いているのは、吉田松陰殿の弟子で、伊藤博文という若者だそうだ。まだ若いが、とんでもない才覚だと聞く。この国には、まだまだ我々の知らぬ才能が眠っている」


「ええ。身分を問わず、才ある者が世に出る。総攬が目指すのは、そういう国なのでしょう。我々も、負けてはいられませんな」


五代の呟きに、福沢が返す。

そのまま二人は街並みを見つつ一息つき、会話を続ける。


「…福沢殿。あの自動車一台に、どれだけの鉄と、どれだけの職人の技が詰まっていることか…。これぞ、我が国の工業力の結晶ですな」


「いや、五代殿。重要なのは、これを生み出す『知識』そのものです。この車は、日本の教育水準が世界一になった証なのですよ」


「……我々は、歴史の転換点というものを、今、馬車ならぬ『自ら走る車』の速さで駆け抜けているのかもしれませぬな」


「ええ、全くです。総攬と共にいると、時代が一気に、それこそ百年単位で駆け抜けていくようですな」


福沢もまた、興奮を隠しきれない様子で頷いた。

彼らの視線の先で、自動車は少し先の角を滑らかに曲がり、昼の街へと消えていった。



その少し先、大通りを見下ろせる茶屋の二階席で、ジンは一人、お忍びでその喧騒を眺めていた。


彼の目に、ひときわ目立つ一団が映る。

夏の陽光を弾くような、極彩色の布地で作られたアロハシャツ。

しかし、その腰には、武士の魂である大小の刀が、当たり前のように差されている。

彼らは、顔立ちからして、ハワイやポリネシアから来た者たちだろう。

彼らは、新選組の屯所の前で、物珍しそうに中を覗き込んでいる屈強な男たち…おそらく薩摩出身の兵士たちと、身振り手振りで何かを話し込み、やがて一緒に笑い合っていた。


茶をすすりながら、思わず笑みがこぼれる。


「…アロハシャツに、刀か。悪くない。実に、悪くないじゃないか」


その光景は、皆で創り上げた帝国の、一つの理想の形だった。

文化や人種が、争うことなく混じり合い、一つの国民として、同じ空気を吸っている。

横で見ているミネルヴァの口元にも、我が子の成長を見守る母親のような、満足げな笑みが浮かんでいた。


§


日本の国力増強は、帝都の風景だけでなく、帝国の隅々で、まさに「千の鍛錬」として形になっていた。

南洋州スマトラ島では、かつて鬱蒼としたジャングルだった土地が、今や巨大な油田コンビナートへと変貌を遂げていた。

等間隔に並んだ無数の石油掘削リグが天を突き、精製された石油を港へと運ぶためのパイプラインと専用鉄道が、大地に新たな血管のように張り巡らされている。


本土の『日本精密機械製造』では、高齢となった田中久重の後を継ぎ、息子の大吉が、若き技術者たちを率いて新たな挑戦に取り組んでいた。目標は、久重が完成させた「水銀滴下式真空(シュプレンゲル)ポンプ」をも超える、究極の真空を作り出し、電気信号を増幅させる「真空管」の開発だ。

だが、その道は困難を極めていた。


「駄目だ…! どうしても、最後の僅かな空気が抜けない…!」


大吉は、試作品のガラス管を手に、悔しげに呻いた。


その数日後、彼の元に、総攬府からの使者が、一通の手紙と二種類の見慣れぬ鉱石を届けた。

そこには南洋州(ナウル島)で獲れたリン鉱石と、箱館州(北海道)で獲れた重晶石バリウムがあり、手紙は、単に鉱石の名前とその使い方を記した、簡潔な指示書だった。


『この鉱石を使え。真空管内部の残留ガスを吸着する』


大吉は、その指示の意味を完全には理解できなかったが、総攬の言葉には絶対の信頼を置いていた。

彼は早速、指示通りに実験を再開する。そして、ガラス管の内部でゲッター材が閃光を放った時、真空計の針は、彼らがこれまで見たこともないほどの高真空の領域へと振り切れた。


「…できた…父を超える、その先の真空へ…!!」


大吉の目から、熱い涙が溢れ出した。


時を同じくして、京都府の大谷鉱山。

東京帝国大学理学部地質学の1期生である小藤文次郎が大学の卒業論文のために大谷鉱山にきていた。

数週間前に総攬府から突然手紙が来た時は驚いたが、ここに「重石華タングステン」があるらしい。それを見つけたら「日本精密機械製造」に持って行って欲しいと。

小藤文次郎は状況は良く分かっていないが、日本の総攬が言うなら間違いないと、「重石華(タングステン)」を探し、苦労の末見つけ出す。

ランプの光を当てると、鈍い光を放つその石こそ、真空管のフィラメントや、特殊合金に不可欠な重石華(タングステン)だった。


§


1881年、春。

大吉がゲッター材を実用化して間もなく。


日本の近代技術の父、田中久重の国葬が、国を挙げて荘厳に執り行われた。

彼の棺は、彼自身が開発に携わった蒸気機関車に引かれ、沿道を埋め尽くす数万の民衆に見送られた。

誰もが、この偉大な発明家への感謝と哀悼の意を捧げていた。


その夜、俺は一人、総攬府の執務室で、久重から贈られた石油ランプの柔らかな光を見つめていた。

机の上には、彼と酌み交わすはずだった一杯の酒が置かれている。


「史実を知る、俺のエゴだが、久重には最高の名前を贈りたい…。東芝…は、駄目だ。ここは江戸で、芝浦じゃない。…東司馬…いや、東は日本を表すにしても司馬は軍の役職だ。技術者、発明家だった久重には相応しくない...」


俺が頭を抱えていると、ミネルヴァが静かに、しかし微笑ましげに助言をした。


「『東』は、ジン様の言う通り『東の帝国・日本』で良いと存じます。シバは、彼の功績に敬意を表し、『偉大な師匠』『技術の匠』という意味を込めて『師』を。そして、蒸気機関や内燃機関の発展に大きく寄与した証として、『馬力』から『馬』の字を頂くのはいかがでしょう?」


俺の顔が、パッと晴れる。


「…東師馬とうしば。それだ。それこそ、あいつに相応しい」


後日、田中久重には『東師馬院殿(とうしばいんでん )機巧精真(きこうせいしん)大居士(だいこじ)』という、戒名が贈られることとなった。


俺は、窓の外に広がる江戸の夜景を見つめ、献杯した。


「久重、お前がいなかったら日本はこんなに発展していなかったぞ。30年、お前と居た時間は本当に楽しかった。見ているか?この江戸の光を。お前の作った光も、電信も、発動機エンジンも、お前の魂と共に繋いでいくよ。だから、今は安らかに休んでくれ、久重…我が友よ」


§


1882年。

久重の死から一年。俺は、日本の次なる一手として、南米大陸への進出を決断した。

白羽の矢が立ったのは、木戸孝允の推薦する若き俊才、桂太郎。彼は特命全権大使として、太平洋を渡りエクアドルへと向かった。

当時のエクアドルは、国内の政情不安と貧困に喘いでいた。大統領イグナシオ・デ・ベインテミージャは、迫る反乱の足音に、心労を重ねる日々を送っていた。


そんな彼の前に現れた桂太郎の提案は、まさに悪魔的、あるいは天佑とも言うべきものだった。


「大統領閣下。我が帝国は、貴国の近代化のため、国家予算の数倍に及ぶ額を、超長期かつ低金利で融資する用意がございます」


桂は、警戒する大統領を前に、あくまで対等なビジネスパートナーとして、淡々と、しかし圧倒的な説得力で語りかける。


「鉄道を敷設し、港湾を整備し、貴国の豊かな資源を、共に開発する。バナナやカカオといった産品も、我が国が有利な価格で安定的に買い取りましょう。これは、施しではございません。貴国の安定こそが、太平洋全体の安定、ひいては我が国の国益にも繋がるのです」


国の喉元に突きつけられた、甘く、そして抗いがたい刃。イグナシオ大統領は、日本の真意を測りかねつつも、この提案を受け入れる以外、国を救う道はないと判断した。

そして、この経済支援の「付帯条項」として、桂はガラパゴス諸島の学術調査権を獲得。日本の調査団が、かの地に最初の一歩を記すこととなる。


§


アメリカ連合国(CSA)、首都リッチモンド。

日本とエクアドルが経済協定を締結した、というニュースは、CSAの閣議を揺るがした。


「ジャップどもが、我々の裏庭に土足で踏み込んできたぞ!」

「モンロー主義への明確な挑戦だ! 断じて許せん!」


ホーク派の議員たちが、怒りを爆発させる。

だが、ライン諸島沖海戦で太平洋艦隊が壊滅して以来、CSAの海軍力はまだ回復途上にあった。


「待て、今は時期が悪い! 日本との全面対決は、まだ避けるべきだ!」


慎重論を唱える海軍長官に対し、CSA大統領は、鉄のような意志で決断を下した。


「諸君、議論は尽くした。モンロー主義は提案ではない、我が国の意思表示だ。日本は一線を越えたのだ。太平洋を渡ることを覚えたあの国が、二度と我々の裏庭を窺う気になれぬよう、鉄槌を下す。全工廠に告げよ、合衆国(CSA)の存亡を賭けた、大建艦計画を開始すると!」


バージニアの造船所で、新たな建艦計画の槌音が響き始める。

・伊藤博文について

『日本航空機研究所』は佐久間象山の「五月塾」、吉田松陰の「松下村塾」が母体となっているので、伊藤博文は政界ではなく『日本航空機研究所』に就職した設定です。

伊藤博文に車を作らせる無茶ぶり世界線が読めるのは、幕末ブループリントだけ!



・『東師馬院殿機巧精真大居士』について

とう: ジンが統べる「東の帝国・日本」

: 「偉大な師匠」「技術の匠」

: 蒸気機関の「馬力」のように、彼が生み出した動力や機械を象徴する

院殿いんでん:一般の人が貰える最高位の称号

: 「機械」「からくり」「仕掛け」

こう: 「たくみ」「精巧な」「素晴らしい技術」

せい: 「精神」「魂「精密」

しん: 「真実」「まこと」「本物」

大居士だいこじ:仏教における戒名の「位号いごう」男性の信者に与えられる最高位の一つ。

「東の帝国において、動力機械を司る偉大なる師であり、その生涯を、からくりのように精巧な技術と、真実を求める魂に捧げた、最高位の信者」を意味する戒名。


この話を書く上で、戒名を調べてみたのですが、身近な人で院殿や大居士を贈られた人は「伯藝院殿覚圓蟲聖大居士(はくげいいんでんかくえんじゅしょうだいこじ)」の手塚治虫が有名だそうです。

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