51( 3B3C)
1877年、ドイツ帝国・ベルリン宰相府。
重厚なオークの机、壁一面に並ぶ革装丁の書物、そして葉巻の香りが満たすその部屋は、ヨーロッパ大陸の新たな心臓部の威厳を漂わせていた。
その部屋の主、鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクは、巨大なユーラシア大陸の地図を前に、日本の特使・陸奥宗光と固い握手を交わしていた。
その握手は、単なる外交儀礼ではない。
世界の勢力図を、根底から塗り替えようとする二つの国家による、鋼のような盟約の証だった。
「陸奥大使。これで盟約は成立した。英国が支配する海の秩序とは異なる、我ら大陸国家の新しい秩序。その第一歩だ」
ビスマルクの声は低いが、その瞳は目の前の若い外交官の、さらにその奥にある日本の若き総攬の底知れぬ力量を測っているようだった。
陸奥宗光は、その視線を平然と受け止め、静かに応じる。
「宰相閣下。我が国も、この盟約が両国の未来、ひいては世界の新たな秩序の礎となることを確信しております」
固い握手が交わされる。それは単なる外交儀礼ではない。
大英帝国が支配する「海の秩序」に対し、大陸から楔を打ち込もうとする二つの国家による、鋼のような盟約の証だった。
数週間後、日本の横須賀。
潮の香りと鉄の匂いが混じり合う埠頭に、日本の工業力の全てを結集させたような光景が広がっていた。
『日本精密機械製造』の巨大な工場から引き出された、黒光りする最新鋭の蒸気機関車。
その車体には、国際的にも通用する『C62』という形式番号が、朝日を浴びて誇らしげに輝いている。
巨大なクレーンが軋み、唸りを上げながら、その鉄の巨体をゆっくりと吊り上げていく。
その圧倒的な重量感と、未来から来たかのような精巧な姿に、見送る工員や海軍兵たちが息をのむ。
その光景を、俺、扶桑 仁と、工部卿・五代友厚が、埠頭から誇らしげに見つめていた。
「総攬。我らがC62が、ついに大陸へと渡りますな。日本の技術が、世界を動かす…まさに夢のような光景です」
五代が、万感の思いを込めて言う。
彼の目は、まるで我が子の旅立ちを見送る父親のように潤んでいた。
「ああ。だが、これは夢じゃない。我々が創る、新しい時代の現実だ。この鉄の塊が、世界の勢力図を塗り替えることになる」
C62を乗せた輸送船が、長い汽笛を鳴らし、大陸へ向けて静かに滑り出していく。
日本の工業力の結晶が、今、希望と野心を乗せて、欧州へと送り出された。
§
ドイツ・ベルリン、皇帝執務室。
歴代プロイセン王の肖像画と、赫々たる戦歴を示す軍旗に囲まれ、ビスマルクが皇帝ヴィルヘルム1世に『3B計画』の真意を奏上していた。
「陛下。英国が提唱した『欧州太平洋利害調整会議』は、事実上、日本を封じ込めるためのもの。であるならばロシアやアメリカが参加する事も時間の問題。それは同時に、欧州で我が帝国を挟撃する同盟になりえます。もはや、これまでの対フランス包囲網は機能いたしません」
ビスマルクの言葉には、危機感と共に、新たな戦略への確信が満ちていた。彼は地図を指し示す。その指は、ベルリン (Berlin)からビザンティウム (Byzantium)、そしてバグダッド (Baghdad)へと、一本の赤い線を引いた。
「英国の狙いを逆手に取り、我々は、オーストリア、オスマン、そして日本と連携を強化。この3B鉄道計画で、ロシアの南下を物理的に牽制し、英国のシーパワーに依存しない、我ら大陸国家の新たな経済圏を確立するのです」
「…うむ。日本の若き総攬と、鉄血宰相…面白い組み合わせだ。よかろう、全権を汝に委ねる」
ヴィルヘルム1世の裁可を得て、ドイツは壮大な鉄道計画の推進を国家戦略として正式に決定した。
§
オスマン帝国、イスタンブール港。
金角湾のきらめく水面に、東洋からの輸送船がその巨体を横たえている。
歴史ある港の、雑然とした風景の中に、未来から来たかのような日本の蒸気機関車『C62』が、圧倒的な存在感を放ちながら陸揚げされた。
その流線型の黒い巨体と、精巧な作り込みに、出迎えた宰相ミドハト・パシャやオスマン帝国の技術者たちが、ただただ息をのむ。
「おお…これが、日本の…」
老いた技術者の一人が、その滑らかな鋼鉄の車体を、震える手でそっと撫でた。
他の者たちも、リベットの一つ一つ、連結器の精緻な作りに見入り、感嘆と溜息を漏らす。
「…これほどのものとはな。欧州のものよりも、遥かに静かで力強いと聞く。これがあれば、我が帝国の近代化も…」
ミドハト・パシャは、国家再生への確かな手応えを感じ、その拳を強く握りしめた。
§
一方、ロンドン・外務省。
ドイツとオスマン帝国が、日本からの技術供与と融資を受けて『3B計画』を大々的に発表した、というニュースは、即座に大英帝国を揺るがした。
外務省の一室では、数人の閣僚や官僚たちが、この新たな脅威を前に激しい議論を戦わせている。
「日本は、我々との同盟を軽んじ、ドイツとの連携を深めるつもりか! しかも、我が国のレールでは走れぬ『標準軌』だと? 明らかな我々への挑戦だ!」
若手の官僚が、怒りを露わに叫ぶ。
それに対し、白髪の老外交官が、静かに、しかし重々しく反論する。
「だが、待て。日英同盟があるからこそ、ロシアの脅威に対し、極東の警備を日本に任せられている側面もある。彼らが朝鮮半島に睨みを利かせているおかげで、我々はインド経営に集中できるのだ。ここで日本との関係をこじらせるのは、帝国の負担を増やすだけではないのか?」
「何を言うか! 日本の増長こそが、今やロシア以上の脅威だ! スエズの一件を忘れたのか! あの島国は、我々が築き上げた秩序の上で、我々のルールを破ろうとしているのだぞ!」
議論が紛糾する中、首相ディズレーリからの報告書が、その場の空気を支配した。
§
ロンドン・首相官邸。
ベンジャミン・ディズレーリは、世界地図に引かれていく『3B計画』の赤い線を、静かな、しかし絶対零度の怒りを宿した瞳で見つめていた。
彼の執務室は、大英帝国の神経が集まる中枢。
壁にはインドやアフリカの地図が掛けられ、机の上には世界中から届く電信の報告書が山と積まれている。
彼は、議論の報告を求める側近の言葉を、手で制する。
「…奴らが大陸で鉄道ごっこに興じたいと言うのなら、好きにさせておけ」
ディズレーリの声は、凪いだ海のようだ。だが、その底には、巨大な嵐が渦巻いていた。
「我々は、これまで通り、海洋で勝負する。そして、教えてやるのだ。海という盤面が、大陸より遥かに広く、そして我々のルールで動いていることをな」
彼は、地図上の三つの点を、力強く指し示した。
一つは、アフリカ南端の「ケープタウン (Cape Town)」。
一つは、インド洋の要「カルカッタ (Calcutta)」。
そして最後の一つは、アジア大陸の巨大な龍、「清(China)」だ。
「我が国の『3C政策』を始動させる。直ちに清国に特使を派遣し、3B計画を上回る規模の借款を提案せよ。見返りは、満州の鉄道敷設権と、旅順・大連の租借権だ。シンガポールとセイロンの要塞化も急がせろ。日本の海洋進出の、防波堤とする」
ディズレーリは立ち上がり、窓の外に広がるロンドンの街を見下ろした。
「そして、インド洋には、我が帝国の最強艦隊『インド洋艦隊』を常駐させる。陸の鼠と、成り上がりの獺に、大英帝国の本当の力と、この世界の本当の広さを見せつけてやる」




