50(露土)
1876年、江戸・総攬府。
秋の気配が深まる帝都に、バルカン半島から二つの急報が、ほぼ同時に、しかし全く別のルートで届いた。
「総攬! セルビア及びモンテネグロ公国が、オスマン帝国に対し、宣戦を布告したとの報せです!」
外務卿・中島三郎助が、緊迫した表情で執務室に飛び込んでくる。
時を同じくして、俺の脳内に、ミネルヴァの冷静な声が響いた。
(ジン様。ブルガリア各地で、不穏な動きを観測。小規模な暴動が頻発しております。背後には、ロシアの工作員の影が。史実の『四月蜂起』の兆候です)
二つの情報が、瞬時に一つの絵を結ぶ。
俺は、中島に緊急閣議の招集を命じると、執務室の巨大な世界地図の前に立った。
「陽動と本命…二正面作戦か。古典的だが、悪くない手だ、ロシア」
セルビアとモンテネグロをけしかけてオスマン軍の注意を西に引きつけ、その隙に本命のブルガリアで大規模な暴動を誘発させる。
そして、それを口実に「スラブ同胞の保護」を掲げて介入し、一気に南下する。
ロシアの狙いは明白だった。
緊急閣議の席上、閣僚たちが固唾を飲んで俺の言葉を待つ中、俺は静かに、しかし迅速に三つの矢を放つことを決断した。
俺は陸軍卿の大村益次郎、警察長官の近藤勇を見ながら指示を出す。
「第一に、対セルビア戦。これはオスマン帝国自身に任せる。ただし、我が国の軍事顧問団が全面的に支援し、最新の兵器も追加で供与する。目的は、敵の撃退のみ。決して深追いはさせるな。これはあくまで防衛戦争として、早期に終わらせる」
「第二に、ブルガリアの不穏分子。これは、我々が直接、根を断つ。現地に潜入中の斎藤一に、全権を与える」
大村、近藤が頷くのを確認し、次は外務卿の中島三郎助を向き指示を続ける。
「そして第三に、オーストリア。駐欧大使の陸奥宗光に、直ちにウィーンへ飛ぶよう指令。同時に、イスタンブールのミドハト・パシャと連携し、ある『取引』の準備を進めさせる。…ビスマルクにも、合図を送っておけ」
矢継ぎ早の指示に、閣僚たちは戸惑いながらも、その的確さと揺るぎない自信に満ちた俺の姿に、静かに頷くしかなかった。戦わずして、戦争を終わらせる。そのための、静かなる戦いが始まった。
§
オスマン帝国、イスタンブール。
改革派宰相、ミドハト・パシャの執務室。
彼は、日本の支援で発布にこぎつけたばかりの「ミドハト憲法」の草稿を前に、深くため息をついていた。セルビアとの戦争、ブルガリアの不穏な動き…帝国の前途は、未だ暗雲に閉ざされている。
そこへ、日本の大使館員が訪れた。彼は、追加の経済支援を約束すると共に、一枚の地図を広げた。
「宰相閣下。我が総攬は、貴国の財政を抜本的に立て直すための、ある提案をお持ちです。この、ボスニア・ヘルツェゴビナの行政権を、オーストリアに売却する、というものです」
「なんと…! 馬鹿な! 先祖代々の土地を切り売りするなど、断じて認められん!」
ミドハト・パシャは激昂した。だが、日本の大使館員は冷静に言葉を続ける。
「お気持ちは分かります。ですが、ロシアの脅威が迫る今、国を守るためには莫大な資金が必要です。それに、これは主権の完全な譲渡ではございません。あくまで『行政権』の売却。その対価は、確かに安くはございません。ですが、この機会を逃せば、ボスニアはいずれロシアの影響下に落ちるでしょう。ロシアにタダで奪われるか、あるいは正当な対価で『未来の平和』を買うか。賢明なる宰相閣下であれば、どちらが真に国益に適うか、お分かりのはず」
ロシアというムチと、莫大な資金というアメ。ミドハト・パシャは、屈辱に唇を噛み締めながらも、その提案を検討せざるを得なかった。
§
ブルガリア某都市、深夜。
古い教会の地下に設けられたアジトでは、ロシアの工作員に扇動された数十人の男たちが、明日決行する武装蜂起の最終確認を行っていた。彼らの顔は、理想と狂信の熱に浮かされている。
その教会の屋根の上で、一人の男が、闇に溶け込むように息を潜めていた。斎藤一。その手には、仕込み杖が握られている。
「…異国の地で、志士の真似事か。騒ぎが大きくなる前に、根を断つ。やり方は、どこも同じだ」
ミネルヴァの未来知識により、アジトの場所と指導者の顔の特徴は、既にジンから暗号電信で送られてきている。ミドハト・パシャから紹介された協力者が、教会の周囲を完全に包囲し、蟻一匹逃さない。
斎藤の合図と共に、数名の新選組隊士が、音もなくアジトの複数の入り口から突入した。
中は、薄暗いランプの明かりが揺れる、広い空間。
「何者だ!?」
気づいた男たちが武器を取ろうとするが、それより速く、闇の中から閃光が走った。
太刀の間合い。斎藤の刃が、まず指導者格の男の喉を正確に切り裂く。
他の隊士たちも、入り組んだ通路では脇差を抜き、抵抗する者を次々と斬り伏せていく。銃声はない。ただ、肉を断つ鈍い音と、短い悲鳴だけが、地下の空間に吸い込まれていった。
数分後。教会は、再び元の静寂を取り戻していた。
翌朝、指導者を失った蜂起計画は霧散し、史実で起こるはずだった大虐殺も、それを口実としたロシアの介入も、この世界では起こらなかった。
§
オーストリア、ウィーン。
駐オーストリア大使の陸奥宗光は、外務省の一室で、オーストリア外相と対峙していた。
外相は、東洋の若い外交官を、どこか値踏みするような目で見ている。
「陸奥大使。それで、本日のご用件は?」
陸奥は、まずビスマルクからの親書を手渡し、場の空気を支配下に置くと、静かに、しかし鋭く切り出した。
「大臣閣下。貴国が、ロシアと『ライヒシュタット協定』なる密約を結ばれたこと、我が国は存じております」
外相の顔色が変わった。
陸奥は、構わず続けた。俺とビスマルクが用意した、決定的な「偽の証拠」…ロシアの駐オスマン帝国大使から本国外務大臣に宛てたとされる偽造親書と、その内容を裏付ける暗号電信の断片を、テーブルの上に滑らせる。
「…そして、ロシアがその密約を、我々日本側に漏らしたことも」
親書には、オーストリアを「ボスニアを餌にすれば容易に動かせる駒」と見下す、侮辱的な文言が記されていた。
「馬鹿な! ありえん! これは日本の謀略だ!」
激昂する外相に、陸奥は冷ややかに告げた。
「私には、これが真実か否かを判断する立場にはございません。ただ、事実として、ロシアとの連携は、極めて危険な賭けであると申し上げたい。どうせ裏切られる相手に、ボスニア・ヘルツェゴビナをくれてやる必要がどこにありましょう?」
陸奥は、そこで言葉を切ると、悪魔的な提案を口にした。
「我々が仲介いたします。貴国は、正当な対価を支払うことで、平和的に、そして確実にボスニアの行政権を手に入れるのです。これぞ、文明国同士のやり方ではございませんか?」
ロシアへの不信と怒り、そしてボスニアへの野心。天秤は、完全に日本側へと傾いた。
§
数週間後、ウィーン・シェーンブルン宮殿。
日本の仲介のもと、オーストリアとオスマン帝国の間で、ボスニア・ヘルツェゴビナの行政権売買契約が、華々しく調印された。
仲介人として署名する陸奥宗光の顔には、涼しい笑みが浮かんでいる。この歴史的な調印の場に、ロシアの席はなかった。
その報は、電信で即座に江戸の俺の元へ届いた。
俺は執務室の世界地図の前で、バルカン半島に置かれていたロシアを示す駒を、静かに取り除き、オーストリアの駒へと置き換えた。
「…これで、露土戦争は起こらない。…一つの戦争を、戦わずして終わらせた」
俺は満足げに呟くと、机の上に広げられた、新たな設計図に目を落とした。
そこには、ドイツ、オーストリア、オスマン帝国を結ぶ、鉄道計画――『3B計画』の青写真が描かれていた。
「行政権の売買」について
史実では1878年にオスマン帝国がロシアへの対抗策として、イギリスにキプロス島の「行政権」を譲り渡したという例があるみたいです。
土地そのものの売買も検討しましたが、おそらくオスマン内の保守派から突き上げをくらってミドハト・パシャの政権が倒れそうだなと。主権をオスマン側に残す事で、ギリギリ飲んでもらえる設定です。
ちょっと複雑な契約になってしまいました。




