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幕末ブループリント  作者: ブイゼル
第5章(冷戦)
49/65

49(蘇士)

1873年・江戸 総攬府執務室


維新外征戦争の熱狂が、ようやく帝都の空気から抜けきろうとしていた。戦勝記念の式典も、兵士たちの凱旋パレードも終わり、総攬府は再び、静かな、しかし弛みない緊張感を取り戻していた。


執務室の主である俺、扶桑 仁は、一人、机の上で一通の親書を改めて読み返していた。差出人は、大英帝国女王ヴィクトリア。分厚く、上質な羊皮紙に、優雅なカリグラフィーで綴られたその手紙は、それ自体が大英帝国の威信を物語っているかのようだった。


『親愛なる扶桑 仁総攬。貴国が、先の戦争において輝かしい勝利を収められしこと、心より祝辞を申し上げる』


流麗な外交辞令が続く。だが、その絹のような言葉の裏には、巧妙に隠された鋼の棘があった。


『太平洋の安定と交易の自由は、我が大英帝国の国益と密接に結びついております。貴国の賢明なるご判断が、この海の平穏を維持する礎となることを、切に願っております』


「…『世界の半分を手に入れた女王』からの牽制、か。光栄なことだ。だが、この国の未来を、あんたの都合だけでは決めさせない」


俺は独りごち、親書を静かに机に置いた。

これは、脅しではない。対等なプレイヤーと認めた上で、「この盤面では、私のルールに従ってもらう」という、覇者からの通告だ。


「彼女は、貴方を、大英帝国の秩序を乱しかねない『新たなプレイヤー』として、明確に認識したようですわ」


いつの間にか傍らに現れたミネルヴァが、静かに告げる。

彼女の声は、いつも通り落ち着いているが、どこかこの新しいゲームの始まりを楽しんでいるような響きがあった。


「ああ。砲火を交える戦争は終わった。だが、戦争は政治の一部であり、政治が終わることは無い」


俺は気を引き締め直す。これより始まるのは、硝煙の匂いのしない、静かなる戦争。国家の知謀と経済力がぶつかり合う、冷徹なグレートゲームだ。



その日の午後、俺はミネルヴァに、一つの問いを投げかけた。

これは思考実験だ、と前置きをして。


「なあ、ミネルヴァ。この世から戦争を無くすには、どうすればいいと思う?」


「あら、今日は人類の歴史そのものに問いかけるような、壮大なテーマですわね。ジン様は、本気でそれを目指しているのですか?」


ミネルヴァが、少し面白そうに問い返してくる。


「まさか。俺は聖人君子じゃない。だが、この国を、俺たちが創り上げた日本を盤石にするためには、火種は一つでも多く消しておくに越したことはない。特に、数百年単位で続くような、根深い戦争の火種はな」


「思考実験としては面白いテーマですね。では、未来の歴史において、最も解決が困難で、長期にわたって人類を苦しめ続けた戦争の火種を一つ、紹介しますわ。それは『宗教』…特に、唯一神を信じる複数の宗教が、聖地を巡って争うケースです」


「聖地…。エルサレムか」


「はい。21世紀に至るまで、かの地では『パレスチナ問題』と呼ばれる紛争が続き、数えきれないほどの血が流れます。その遠因の一つは、この地の支配者が、列強の思惑によって次々と入れ替わり、不安定な状態が続いたことにあります」


俺は執務室の壁に掛けられた巨大な世界地図を見つめ、厳しい表情を浮かべた。

ミネルヴァが語る、未来の悲劇。それを、ただ聞いていることしかできないのか。


「…この悲劇の連鎖…。もし、この時代に、この地を安定して統治し続ける勢力がいたとしたら…?」


「可能性の一つとして、オスマン帝国が存続し、且つ、かの地を安定的に支配し続けていれば、未来は大きく変わっていたかもしれません。ですが、史実の彼らは、ロシアとの戦争(露土戦争)で国力を消耗し、ヨーロッパ列強に『瀕死の病人』とまで呼ばれるようになります」


「露土戦争…! そうか、それだ!」


俺の頭の中で、バラバラだったピースが、一つの形を成していく。思考が、凄まじい速度で回転を始めた。

オスマン帝国を、弱体化する前に支援する。

史実の露土戦争を、そもそも起こさせない。

そうすれば、パレスチナの悲劇は回避できるかもしれない。

そのためには、オスマン帝国に強力な「恩」を売り、彼らに影響力を持つ必要がある。


「オスマンに恩を売り、影響力を持つ。そのためには、彼らが今一番欲しがっているものを与える必要がある」


「ジン様。その計画を実行する上で、一つ、追い風となる情報がございます。史実のこの時期、オスマン帝国は、度重なる戦争と近代化の失敗により、深刻な財政危機に陥っております。まさに、国家破綻寸前と言っても過言ではない状況です」


「経済支援か。なるほど。例えば、長期の低金利融資で恩を売る。だが、見返りはどうする? …いや、まて。最近スエズ運河が開通したな? しかしエジプトはオスマンの影響下にはあるが、ほぼ独立しているに等しいだろう」


直接的な命令はできない。だが、何か手はないのか。


「その通り、直接的な命令は不可能です。ですが、イスラム世界の盟主たるスルタンの『権威』は健在です。そして、株を保有するエジプト総督イスマーイール・パシャ自身も、エジプトを近代化させる一方、多額の負債を抱え、史実では、後にオスマン債務管理局の設置を許すほど、財政が切迫しています」


「…そういうことか」


俺は地図を指でなぞりながら、口元に笑みを浮かべた。


「オスマン帝国本体を、日本の融資で救う。その『感謝の印』として、スルタンから財政難のイスマーイール・パシャに『日本の提案を受け、スエズ株を売却することが、帝国全体の利益に繋がる』と、ありがたい『お言葉』を伝えてもらう。断れないだろう、それは」


「ええ。まさに『鶴の一声』となりますわ」


「よし、決まりだ。オスマン帝国を、ヨーロッパの瀕死の病人を蘇生させるぞ。見返りに、地中海の生命線をいただく」


この壮大な計画と並行し、俺は、オスマン帝国との関係を強化するための具体的な策を練り始めた。

大規模な資金支援、軍事顧問や警察機構の顧問団の派遣。表向きは「近代化支援」、裏ではロシアのスパイ活動の防止や、史実の露土戦争の引き金となるブルガリアでの蜂起を、未然に防ぐための静かなる工作だ。


§


1873年、フランス・パリ。


煌びやかなシャンデリアが輝く、とあるカフェのテラス席。

道行く貴婦人たちが、思わず振り返るような、異国風の洒落た紳士が一人、流暢なフランス語で、現地の株仲買人と葉巻を燻らせていた。


「ムッシュ・サカモト、貴方は一体何者なんです?こんな不人気株を買い集めて…」


「はっはっは、わしはただの、未来に恋しゆう男ぜよ。ムッシュ、スエズ運河の利用数は、まだ世界が思うちょるほど伸びてはおらん。じゃが、わしには見える。この溝が、世界の血脈になる未来がのぅ。今のうちに、少しばかり未来を買わせてもらうぜよ」


坂本龍馬は、その正体を微塵も感じさせることなく、個人投資家として、市場がその真価に気づく前に、スエズ運河会社の株を少しずつ、しかし着実に買い集めていた。


§


そして、1875年、ロンドン。

この日、ロンドンの株式市場は、朝から異様な熱気に包まれていた。「SUEZ」の銘柄が、謎の買い占めにあい、価格が乱高下を繰り返しているのだ。市場は、何が起きているのか分からぬまま、パニックに陥っていた。


その混乱の裏で、日本とオスマン帝国の間で、極秘の取引が成立していた。

日本は、オスマン帝国を通じて、エジプト政府が保有するスエズ運河会社の株式44%を、正式に取得したのだ。

この事実は、すぐには公表されず、水面下で静かに手続きが進められていた。


数日後、イギリス政府がエジプト政府にスエズ株買収の打診をした際、全ては白日の下に晒された。

ロスチャイルド家の情報網を通じて、ディズレーリ首相の元に、衝撃的な情報がもたらされたのだ。

――スエズは、既に日本に売却済みである、と。


この報を受け、日本政府は、このタイミングを待っていたかのように、全世界に向けて公式発表を行った。

日本が、オスマン帝国から購入した44%の株式に加え、坂本龍馬が市場で買い集めた7%の株式を合わせ、スエズ運河会社の株式の過半数、51%を取得した、と。


§


バッキンガム宮殿。

イギリス首相ベンジャミン・ディズレーリが、血相を変えてヴィクトリア女王に謁見していた。

彼の顔には、大英帝国の宰相としての自信と余裕はなく、ただただ、信じがたい事態への怒りと焦りが浮かんでいる。


「陛下…! やられました! 我々が気づかぬうちに、極東の島国が…日本が、帝国の生命線を、我々の喉元を握ったのです!」


ディズレーリは、日本の周到な計画――財政難のオスマン帝国への経済支援をテコに、スルタンの権威を利用してエジプトから株を買い取るという、あまりに狡猾な手口――を説明し、歯ぎしりした。


「…ディズレーリ」


玉座に座るヴィクトリア女王の声は、静かだった。

だが、その静けさ故に、底知れぬ怒りが滲み出ている。

彼女の瞳は、絶対零度の光を宿し、ディズレーリを射抜いていた。


「我が大英帝国に、このような屈辱を与えた国が、かつてありましたか? ……日本に、世界の秩序というものを、教えなければなりませんね」


即日、イギリスは行動を開始した。

フランス、オランダ、スペインに対し、「欧州太平洋利害調整会議」の開催を提唱。

表向きは「欧州が太平洋に持つ植民地の安定化と、貿易円滑化のため」。

その実態が、日本を国際社会から孤立させるための「対日包囲網」の形成であることは、誰の目にも明らかだった。


§


江戸・総攬府。

イギリス主導の「対日包囲網」結成の動きを察知した男が、即座に動いた。

ドイツ帝国宰相、オットー・フォン・ビスマルク。

彼は、それまで進めていた「フランス包囲網」の形成を早々に破棄すると、駐日ドイツ大使を通じて、俺に一通の親書を送ってきた。


『貴国のスエズにおける一手、感服した。我がドイツも、ロシアの南下政策には警戒を強めている。共通のロシアと、牽制すべき相手イギリスを持つ者同士、手を組む利益は大きいのではないか?』


親書には、具体的な協定案が記されていた。

一つ、『日・独・土 三国対露協定』の締結。表向きはロシアの南下を牽制する、日英同盟の目的とも矛盾しない秘密軍事同盟。

そして、もう一つ。


「潜水艦…か」


俺は、ビスマルクからの提案書を手に、ミネルヴァに問うた。

「確か南北戦争で、アメリカ南部がハンリー潜水艇を使っていたな。だが本格的な導入、例えば『Uボート』などは先の技術だが…」


「理論上は可能です。ディーゼルエンジンや蓄電池の小型化が鍵となりますが、この世界の日本の技術力ならば、数年で試作艦を完成させられるでしょう」


「...よし」


地図を見ながら、場所を決定する。


「開発場所は佐世保だ。あそこを潜水艦専門の工廠にする。イギリスには…そうだな、『日本の沿岸を防衛するための、小さな潜水艇を開発している』とでも報告させておくか」


世界の海の水面下で、新たなゲームが始まろうとしている。

俺は、ビスマルクからの提案書を手に、満足げに呟いた。


「ヴィクトリア、ビスマルク…この手で作り上げた日本という国で、貴方達と同じ盤面に立てることを、光栄に思うよ」

第5章の開幕です。

4章までで世界線は大きくズレ、5章では登場する人物も大きくなってきました!

引き続き頑張って書いていきますので、応援よろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
>即日、イギリスは行動を開始した。  フランス、オランダ、スペインに対し、「欧州太平洋利害調整会議」の開催を提唱。  表向きは「欧州が太平洋に持つ植民地の安定化と、貿易円滑化のため」。  その実態が、…
そもそもイスラームが原理主義のテロ組織としての側面のそもそもの元凶としてオスマン帝国崩壊したからだと思うんですよね‥(後埼玉のクルってる人々もそもそも日本に来るような歴史にならなかったと思いますし)
こういう戦いも面白いですね 総攬の暗躍によりヨーロッパがぶち切れてしまいましたね 新しい国と関わりがどうなるか 情報チート持ちの部下が株を買い歩いてるの? 勝てないって!!
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