49(蘇士)
1873年・江戸 総攬府執務室
維新外征戦争の熱狂が、ようやく帝都の空気から抜けきろうとしていた。戦勝記念の式典も、兵士たちの凱旋パレードも終わり、総攬府は再び、静かな、しかし弛みない緊張感を取り戻していた。
執務室の主である俺、扶桑 仁は、一人、机の上で一通の親書を改めて読み返していた。差出人は、大英帝国女王ヴィクトリア。分厚く、上質な羊皮紙に、優雅なカリグラフィーで綴られたその手紙は、それ自体が大英帝国の威信を物語っているかのようだった。
『親愛なる扶桑 仁総攬。貴国が、先の戦争において輝かしい勝利を収められしこと、心より祝辞を申し上げる』
流麗な外交辞令が続く。だが、その絹のような言葉の裏には、巧妙に隠された鋼の棘があった。
『太平洋の安定と交易の自由は、我が大英帝国の国益と密接に結びついております。貴国の賢明なるご判断が、この海の平穏を維持する礎となることを、切に願っております』
「…『世界の半分を手に入れた女王』からの牽制、か。光栄なことだ。だが、この国の未来を、あんたの都合だけでは決めさせない」
俺は独りごち、親書を静かに机に置いた。
これは、脅しではない。対等なプレイヤーと認めた上で、「この盤面では、私のルールに従ってもらう」という、覇者からの通告だ。
「彼女は、貴方を、大英帝国の秩序を乱しかねない『新たなプレイヤー』として、明確に認識したようですわ」
いつの間にか傍らに現れたミネルヴァが、静かに告げる。
彼女の声は、いつも通り落ち着いているが、どこかこの新しいゲームの始まりを楽しんでいるような響きがあった。
「ああ。砲火を交える戦争は終わった。だが、戦争は政治の一部であり、政治が終わることは無い」
俺は気を引き締め直す。これより始まるのは、硝煙の匂いのしない、静かなる戦争。国家の知謀と経済力がぶつかり合う、冷徹なグレートゲームだ。
その日の午後、俺はミネルヴァに、一つの問いを投げかけた。
これは思考実験だ、と前置きをして。
「なあ、ミネルヴァ。この世から戦争を無くすには、どうすればいいと思う?」
「あら、今日は人類の歴史そのものに問いかけるような、壮大なテーマですわね。ジン様は、本気でそれを目指しているのですか?」
ミネルヴァが、少し面白そうに問い返してくる。
「まさか。俺は聖人君子じゃない。だが、この国を、俺たちが創り上げた日本を盤石にするためには、火種は一つでも多く消しておくに越したことはない。特に、数百年単位で続くような、根深い戦争の火種はな」
「思考実験としては面白いテーマですね。では、未来の歴史において、最も解決が困難で、長期にわたって人類を苦しめ続けた戦争の火種を一つ、紹介しますわ。それは『宗教』…特に、唯一神を信じる複数の宗教が、聖地を巡って争うケースです」
「聖地…。エルサレムか」
「はい。21世紀に至るまで、かの地では『パレスチナ問題』と呼ばれる紛争が続き、数えきれないほどの血が流れます。その遠因の一つは、この地の支配者が、列強の思惑によって次々と入れ替わり、不安定な状態が続いたことにあります」
俺は執務室の壁に掛けられた巨大な世界地図を見つめ、厳しい表情を浮かべた。
ミネルヴァが語る、未来の悲劇。それを、ただ聞いていることしかできないのか。
「…この悲劇の連鎖…。もし、この時代に、この地を安定して統治し続ける勢力がいたとしたら…?」
「可能性の一つとして、オスマン帝国が存続し、且つ、かの地を安定的に支配し続けていれば、未来は大きく変わっていたかもしれません。ですが、史実の彼らは、ロシアとの戦争(露土戦争)で国力を消耗し、ヨーロッパ列強に『瀕死の病人』とまで呼ばれるようになります」
「露土戦争…! そうか、それだ!」
俺の頭の中で、バラバラだったピースが、一つの形を成していく。思考が、凄まじい速度で回転を始めた。
オスマン帝国を、弱体化する前に支援する。
史実の露土戦争を、そもそも起こさせない。
そうすれば、パレスチナの悲劇は回避できるかもしれない。
そのためには、オスマン帝国に強力な「恩」を売り、彼らに影響力を持つ必要がある。
「オスマンに恩を売り、影響力を持つ。そのためには、彼らが今一番欲しがっているものを与える必要がある」
「ジン様。その計画を実行する上で、一つ、追い風となる情報がございます。史実のこの時期、オスマン帝国は、度重なる戦争と近代化の失敗により、深刻な財政危機に陥っております。まさに、国家破綻寸前と言っても過言ではない状況です」
「経済支援か。なるほど。例えば、長期の低金利融資で恩を売る。だが、見返りはどうする? …いや、まて。最近スエズ運河が開通したな? しかしエジプトはオスマンの影響下にはあるが、ほぼ独立しているに等しいだろう」
直接的な命令はできない。だが、何か手はないのか。
「その通り、直接的な命令は不可能です。ですが、イスラム世界の盟主たるスルタンの『権威』は健在です。そして、株を保有するエジプト総督イスマーイール・パシャ自身も、エジプトを近代化させる一方、多額の負債を抱え、史実では、後にオスマン債務管理局の設置を許すほど、財政が切迫しています」
「…そういうことか」
俺は地図を指でなぞりながら、口元に笑みを浮かべた。
「オスマン帝国本体を、日本の融資で救う。その『感謝の印』として、スルタンから財政難のイスマーイール・パシャに『日本の提案を受け、スエズ株を売却することが、帝国全体の利益に繋がる』と、ありがたい『お言葉』を伝えてもらう。断れないだろう、それは」
「ええ。まさに『鶴の一声』となりますわ」
「よし、決まりだ。オスマン帝国を、ヨーロッパの瀕死の病人を蘇生させるぞ。見返りに、地中海の生命線をいただく」
この壮大な計画と並行し、俺は、オスマン帝国との関係を強化するための具体的な策を練り始めた。
大規模な資金支援、軍事顧問や警察機構の顧問団の派遣。表向きは「近代化支援」、裏ではロシアのスパイ活動の防止や、史実の露土戦争の引き金となるブルガリアでの蜂起を、未然に防ぐための静かなる工作だ。
§
1873年、フランス・パリ。
煌びやかなシャンデリアが輝く、とあるカフェのテラス席。
道行く貴婦人たちが、思わず振り返るような、異国風の洒落た紳士が一人、流暢なフランス語で、現地の株仲買人と葉巻を燻らせていた。
「ムッシュ・サカモト、貴方は一体何者なんです?こんな不人気株を買い集めて…」
「はっはっは、わしはただの、未来に恋しゆう男ぜよ。ムッシュ、スエズ運河の利用数は、まだ世界が思うちょるほど伸びてはおらん。じゃが、わしには見える。この溝が、世界の血脈になる未来がのぅ。今のうちに、少しばかり未来を買わせてもらうぜよ」
坂本龍馬は、その正体を微塵も感じさせることなく、個人投資家として、市場がその真価に気づく前に、スエズ運河会社の株を少しずつ、しかし着実に買い集めていた。
§
そして、1875年、ロンドン。
この日、ロンドンの株式市場は、朝から異様な熱気に包まれていた。「SUEZ」の銘柄が、謎の買い占めにあい、価格が乱高下を繰り返しているのだ。市場は、何が起きているのか分からぬまま、パニックに陥っていた。
その混乱の裏で、日本とオスマン帝国の間で、極秘の取引が成立していた。
日本は、オスマン帝国を通じて、エジプト政府が保有するスエズ運河会社の株式44%を、正式に取得したのだ。
この事実は、すぐには公表されず、水面下で静かに手続きが進められていた。
数日後、イギリス政府がエジプト政府にスエズ株買収の打診をした際、全ては白日の下に晒された。
ロスチャイルド家の情報網を通じて、ディズレーリ首相の元に、衝撃的な情報がもたらされたのだ。
――スエズは、既に日本に売却済みである、と。
この報を受け、日本政府は、このタイミングを待っていたかのように、全世界に向けて公式発表を行った。
日本が、オスマン帝国から購入した44%の株式に加え、坂本龍馬が市場で買い集めた7%の株式を合わせ、スエズ運河会社の株式の過半数、51%を取得した、と。
§
バッキンガム宮殿。
イギリス首相ベンジャミン・ディズレーリが、血相を変えてヴィクトリア女王に謁見していた。
彼の顔には、大英帝国の宰相としての自信と余裕はなく、ただただ、信じがたい事態への怒りと焦りが浮かんでいる。
「陛下…! やられました! 我々が気づかぬうちに、極東の島国が…日本が、帝国の生命線を、我々の喉元を握ったのです!」
ディズレーリは、日本の周到な計画――財政難のオスマン帝国への経済支援をテコに、スルタンの権威を利用してエジプトから株を買い取るという、あまりに狡猾な手口――を説明し、歯ぎしりした。
「…ディズレーリ」
玉座に座るヴィクトリア女王の声は、静かだった。
だが、その静けさ故に、底知れぬ怒りが滲み出ている。
彼女の瞳は、絶対零度の光を宿し、ディズレーリを射抜いていた。
「我が大英帝国に、このような屈辱を与えた国が、かつてありましたか? ……日本に、世界の秩序というものを、教えなければなりませんね」
即日、イギリスは行動を開始した。
フランス、オランダ、スペインに対し、「欧州太平洋利害調整会議」の開催を提唱。
表向きは「欧州が太平洋に持つ植民地の安定化と、貿易円滑化のため」。
その実態が、日本を国際社会から孤立させるための「対日包囲網」の形成であることは、誰の目にも明らかだった。
§
江戸・総攬府。
イギリス主導の「対日包囲網」結成の動きを察知した男が、即座に動いた。
ドイツ帝国宰相、オットー・フォン・ビスマルク。
彼は、それまで進めていた「フランス包囲網」の形成を早々に破棄すると、駐日ドイツ大使を通じて、俺に一通の親書を送ってきた。
『貴国のスエズにおける一手、感服した。我がドイツも、ロシアの南下政策には警戒を強めている。共通の敵と、牽制すべき相手を持つ者同士、手を組む利益は大きいのではないか?』
親書には、具体的な協定案が記されていた。
一つ、『日・独・土 三国対露協定』の締結。表向きはロシアの南下を牽制する、日英同盟の目的とも矛盾しない秘密軍事同盟。
そして、もう一つ。
「潜水艦…か」
俺は、ビスマルクからの提案書を手に、ミネルヴァに問うた。
「確か南北戦争で、アメリカ南部がハンリー潜水艇を使っていたな。だが本格的な導入、例えば『Uボート』などは先の技術だが…」
「理論上は可能です。ディーゼルエンジンや蓄電池の小型化が鍵となりますが、この世界の日本の技術力ならば、数年で試作艦を完成させられるでしょう」
「...よし」
地図を見ながら、場所を決定する。
「開発場所は佐世保だ。あそこを潜水艦専門の工廠にする。イギリスには…そうだな、『日本の沿岸を防衛するための、小さな潜水艇を開発している』とでも報告させておくか」
世界の海の水面下で、新たなゲームが始まろうとしている。
俺は、ビスマルクからの提案書を手に、満足げに呟いた。
「ヴィクトリア、ビスマルク…この手で作り上げた日本という国で、貴方達と同じ盤面に立てることを、光栄に思うよ」
第5章の開幕です。
4章までで世界線は大きくズレ、5章では登場する人物も大きくなってきました!
引き続き頑張って書いていきますので、応援よろしくお願いいたします。




