46(調停)
1872年末、日本の台湾州・高雄。
この、かつては清国の辺境であった港町は今、世界の注目を集める外交の舞台となっていた。
維新外征戦争の講和会議のために新設された壮麗な公会堂には、日本、イギリス、スペイン、オランダ、そしてCSA、五カ国の代表団が、巨大な円卓を囲んでいる。
議場の空気は、重苦しい沈黙に支配されていた。
敗戦国であるスペイン、オランダ、CSAの代表たちは、屈辱と怒りに顔をこわばらせ、勝者である日本代表団を憎々しげに睨みつけている。
その日本代表は、実直な外務卿・中島三郎助と、鋭い慧眼を持つ木戸孝允の二人。
彼らは、江戸の総攬府と直通の電信で常に連携しており、その表情は泰然自若としている。
そして、議長役を務めるイギリスの主席代表は、紳士的な笑みを浮かべているが、その瞳は、値踏みするように各国の代表を見ていた。
「では、大日本帝国より、講和にあたっての要求を提示させていただく」
中島の張りのある声が、静寂を破った。
彼は、ジンの指示通り、事前に用意された要求書を、淡々と読み上げる。
「第一に、我が国は、今回の戦争の勝利に基づき、スペイン、オランダ、及びアメリカ連合国に対し、両国がアジア太平洋に有する、全ての領土の割譲を要求する」
その、あまりに非現実的で、傲慢としか言いようのない要求に、会議室は凍り付いた。
一瞬の沈黙の後、敗戦国の代表たちが、一斉に激昂する。
スペイン代表が、持っていた扇子を「バチン!」と音を立てて折り、オランダ代表が額の汗を何度もハンカチで拭う。
「狂人の戯言だ!」
CSA代表が、テーブルを叩いて激昂した。
罵詈雑言が飛び交い、会議は開始早々、崩壊の危機に瀕した。
その混乱を、待っていましたとばかりに、イギリス代表が威厳をもって制する。
「皆様、どうか冷静に。ここは戦場ではなく、対話の場でありますぞ」
彼は、会議の休憩を宣言。
その間に、個別にスペイン、オランダ、CSAの代表と密談の席を設けた。
まず、オランダの代表団と。
「大使、お気持ちは分かります。日本の要求は、確かに無礼千万。ですが、今の貴国に、これを撥ね退ける力が、本当におありですかな?」
イギリス代表は、同情的な表情で語りかける。
「このままでは、ジャワも、香料諸島も、全てを失うことになるでしょう。…そこで、ご提案が。かねてより、電信でお約束した通り、我が国が、日本の要求を、スマトラ島のみに限定させるよう、全力で説得いたしましょう。その代わり、アフリカ黄金海岸の件は、我が国の言い分を全面的にお認めいただきたい。ジャワを失うことに比べれば、安いものでは?」
オランダ大使は、苦虫を噛み潰したような顔で、小さく頷くしかなかった。
次に、スペイン代表と。
「…我が国が仲介に立てば、日本の要求をミンダナオ周辺に限定できるやもしれませぬ。その代わり、カナリア諸島の件は…ご理解いただけますな?」
最後に、CSAの代表と。
「貴国の状況は理解しております。ですが、これ以上戦争を長引かせるのは得策ではない。我が国が仲介し、ハワイの承認と、いくつかの島の割譲だけで済むように取り計らいましょう。南北戦争の傷が癒えぬ今、国力を回復させることが、何よりも肝要かと」
彼の巧みな弁舌は、敗戦国の代表たちに「イギリスに頼るしかない」と思わせるには、十分すぎた。
彼らは、イギリスこそが、日本の暴走を止められる唯一の存在だと信じ込み、その裏で自国の権益が切り売りされていることには、もはや目を瞑るしかなかったのだ。
§
そして、イギリス代表は、最後に日本の代表団の部屋を訪れた。
彼は、自らが蘭西から大きな見返りを得たことを隠し、あくまで「公平な調停者」として、尊大な態度で口火を切った。
「中島殿、木戸殿。親愛なる日本の盟友よ、貴殿らの武勇は認めるが、その要求は少々…市場を知らぬ子供のようだ。我が国の仲介により、蘭西米いずれの国も、講和に応じる用意があるようです。我が国がまとめたこの『妥協案』で、手を打たれよ」
彼が提示した案は、ミンダナオやスマトラの主要部分の割譲など、日本にとって大きな利益を含むものだったが、日本の真の要求からは、まだ少し遠いものだった。
その時、それまで黙っていた中島三郎助が、静かに口を開いた。
「結構なご提案、感謝いたします。ですが、その前に、こちらを」
中島は、ジンから渡された、二つ目の、封をされた封書をテーブルの上に置いた。
「…これは?」
「我が総攬からの、貴殿への個人的な『お土産』でございます」
イギリス代表が、訝しげに封を切る。中から出てきたのは、数枚の紙片。
それは、イギリスと蘭西が、この数週間の間に交わした、秘密の電信の写しだった。
「アフリカの黄金海岸、そしてカナリア諸島…。見事な手腕ですな」
中島の平坦な声が、イギリス代表の心臓に突き刺さる。
彼の顔が、みるみる蒼白になっていく。
「な…なぜ、これを…!」
「我々の情報網を、侮らないでいただきたい。さて、本題に戻りましょうか。我々が、この電信の存在を、この場で、あるいは世界中の新聞社に公表した場合、貴国の『公平なる調停役』としての面子は、どうなるでしょうな?」
それは、静かな、しかし絶対的な脅迫だった。
木戸孝允が、ここで助け舟を出すように、穏やかに割って入る。
「我々も、貴国との友好関係を損ないたいわけではないのです。ただ、我々の勝利に、相応の対価を払っていただきたいだけ。ここに、我々の『本当の』要求リストがあります。これをお認めいただけるのであれば、この電信のことは、未来永劫、我々の胸の内だけにしまっておきましょう」
しかしイギリス代表もただでは転ばない。
「しかし、日本のあの過大な要求をそのまま通す事は看過できない。そうなれば我々は米西蘭側に立たざるを得なくなる。...ご自慢の海軍は、少しダメージを受けていると聞いておりますが?」
イギリスの明らかな脅しにも木戸も黙ってはいない。
「どこかの同盟国が参戦しないと、ごねたりしなければ、被害は無かったに違いないのですが。それに主力艦隊は無傷です、脅しには屈しませんよ...しかし、参戦してくれなくとも、仲介役としてきてくれた同盟国の顔は立てねばなりません」
木戸は持っていたリストを差し出す。
それは、英案に多少要求が追加された、日本の本当の要求だった。
リストを見たイギリス代表は言葉を失う。
彼らは”最初から奪う領土を限定していた”のだ。それにまんまと載せられ、多少多く見積もって各国を説得していたところに、先ほどの脅し。
思えば日本は戦闘地域からそれほど進行していない。我々(イギリス)の仲介を最初から予見していたか。
...跳ねのけるには微妙なラインの要求リスト。
(この若獅子め、いずれその喉笛を食い破ってくれる…!)
イギリス代表は数瞬考えたのち、苦虫を口いっぱいにいれて一気に嚙みつぶしたような顔をしながら各国の代表の部屋にもう一度向かうのだった。
§
会議が再開される。
イギリス代表は、先ほどまでの自信が嘘のようにやつれた顔で、しかし必死で威厳を取り繕いながら、日本の要求をほぼ丸呑みした「新しい英国案」を、さも自らがまとめたかのように、高らかに宣言した。
「木戸殿、中島殿。これが、世界の秩序を守るための、我が国の最大限の努力です。これ以上の要求は、我が国としても看過できず、国際社会の、日本に対する認識を、決定的に悪化させるでしょう。…賢明なるご判断を」
その言葉には、穏やかながらも、「これ以上ごねるなら、我々も敵に回る」という、明確な脅しが、少なくとも西蘭米の代表からは見てとれた。
中島三郎助が、国の代表として、激しく抵抗する芝居を打つ。
「なんということだ! 我々の正当な勝利の対価が、これだけだというのか! 断じて受け入れられん!」
だが、木戸孝允が、頃合いを見計らって、彼を制す。
「…分かりました。我が国も、鬼ではない。大英帝国の面子を立て、この『英国案』を、軸に話し合いましょう。これも、世界の平和のため…我が国の、苦渋の決断です」
日本側は、しばらく「苦渋の表情」で抵抗する芝居を打った後、最終的に「大英帝国の顔を立てる」という形で、それを受け入れた。
敗戦国は、全てを失わずに済んだことに安堵し、会議は、表面上、イギリスの「見事な調停」によって、幕を閉じる。
こうして、『高雄条約』は締結された。
スペインは日本に、ミンダナオ島、パラワン島、グアム、マリアナ諸島を割譲。カロリン諸島が日本領であることを正式に承認。
オランダは日本に、スマトラ島全土、バンカ島、ブリトゥン島、ムンタワイ諸島、バトゥ諸島、リアウ諸島を割譲。
CSAは日本に、布哇州を正式に承認し、アッツ島から続くアリューシャン列島、ミッドウェー諸島、ライン諸島、フェニックス諸島を割譲。及び、賠償金を支払う。
§
イギリス代表は、高雄を去る船の上で、一人、震えていた。
確かにイギリスは、アフリカ・ギニアのオランダ領黄金海岸、カナリア諸島の一部の譲渡を手に入れた。
(…日本の若獅子め…。してやられた…。だが、奴らに全ての要求を呑ませたわけではない。なんとか、これだけで食い止めたのだ。そうだ、当初の目的も達成している。ジャップの南下にも、楔を打てた…)
彼は、必死で自らの敗北を、勝利の記憶にすり替えようとしていた。
§
会議を終え、高雄の宿舎に戻った、木戸孝允の私室。
彼は、疲労困憊しながらも、興奮を抑えきれずにいた。
イギリスの、圧倒的な外交力。そして、その中で、日本の要求を通すために、自分も大役を果たしたのだ、と。
だが、彼は、江戸を発つ前にジンから渡された、一通の封書を改めて確認する。
そこには、こう記されていた。
「会議では、まず最大要求を突きつけろ。必ず、イギリスが仲介に入り、妥協案を提示してくる。その案は、おそらく…」
――そこに書かれていたのは、先ほど、イギリスが提示した「英国案」と、一字一句違わぬ、領土の割譲リストだった。
「…となるだろう。彼らがこの案を提示してきたら、この電信の写しを突きつけろ。彼らは折れる。その後にこのリストにあるいくつかの島(マリアナ諸島やアリューシャン列島など)の追加したこのリストを要求しろ。最終的には、さも大きな譲歩であるかのように、それを受け入れろ。全ては、我々の脚本通りに進む」
封書を読んだ木戸は、血の気が引くのを感じた。
イギリスの動き、敗戦国の反応、そして、この会議の結末そのもの。
その全てが、あの若い総攬の、手のひらの上にあった。
イギリスは、仲介者などではない。ただ、ジンの描いた脚本通りに、戦争を終わらせるための、最も都合の良い「道化」を演じていただけだったのだ。
木戸孝允は、震える手で封書を握りしめた。
「…なんということだ…。これほどまでに正確に…。あの方は、一体、どこまで先を見据えているのか。……議会制にしたのは…間違っていたのかもしれん。あの方お一人で、日本を運営することも出来ただろうに…」
彼の心には、総攬・扶桑 仁に対する、畏敬を通り越した、戦慄にも似た感情が、深く刻み込まれていた。
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日本領(領海)と、4章で戦闘があった地域




