44(雷鳴)
1871年、秋。
スマトラ島北端、アチェ王国沖。
川上操六陸軍中将率いる、日本の第二師団を乗せた大船団が、威容を誇るように水平線に展開していた。彼らの目的は、この地で独立を賭けてオランダと戦うアチェ王国と、その敵であるオランダ軍の双方に、第三勢力としての日本の存在を示すことにあった。
上陸に先立ち、偵察部隊が先行して沿岸の村に接触する。日本兵の姿に、現地の住民たちが警戒の表情を浮かべた、その時。偵察部隊に同行していたモロ族の義勇兵が、一歩前に進み出た。彼は、現地の言葉こそ話せないが、村の長老らしき人物に対し、イスラム教徒としての丁寧な挨拶を口にし、胸の前で手を合わせた。
言葉は通じずとも、同じ神を信じる者としての作法は、アチェの民の固い警戒心をわずかに解きほぐした。
彼は、身振り手振りを交え、自分たちが何者で、日本がどのような国であるかを、必死に伝えようとしている。
その光景を、沖合の旗艦から望遠鏡で見ていた川上操六は、傍らの若い参謀に静かに告げた。
「良いか。この戦は、ただの陣取り合戦ではない。我々が、彼の地の民の心を掴めるかどうかの戦でもあるのだ。地形や距離など、我が帝国の軍の前では意味をなさん。だが、人の心だけは、力だけでは決して手に入らんからな」
§
アチェ王国の首都、クタラジャの宮殿。
スルタン(国王)は、日本の大船団出現の報を受け、重臣たちと軍議を開いていた。
彼の顔には、長きにわたるオランダとの戦争による疲労と、新たな脅威に対する深い苦悩が刻まれている。
「日本だと? 東の島国が、なぜ今この地に…。彼らは、我らを助けに来た解放者か。それとも、オランダという狼が弱るのを待ち、漁夫の利を狙う、新たな虎か…」
スルタンの呟きに、誰も答えることはできない。
「将軍、どう思う?」
「はっ。いずれにせよ、彼らの真意を見極めるまでは、軽々しく動くべきではありますまい。我らが何世代にもわたり守り抜き、そして今、オランダの侵略と戦い続けているこの独立、やすやすと他国に委ねるわけにはいきませぬ」
歴戦の将軍の言葉に、スルタンは静かに頷いた。
§
川上操六が、最初の使者としてスルタンの元へ送ったのは、日本の外交官ではなかった。
ミンダナオ島から同行してきた、モロ族の族長たちだった。
同じイスラムの同胞であり、同じように西欧列強と戦ってきた彼らの言葉は、何よりもスルタンの心に響くはずだと、川上は計算していたのだ。
「スルタン殿、我らは日本の強さを、その目で見てきた」
族長は、アチェの宮殿で、日本の国威を背負いながらも、対等な友人として語りかけた。
「彼らは、我らの神を敬い、我らの法を尊重すると約束してくれた。そして、その約束を守っている。
彼らは、我らの信仰を脅かすキリスト教の国々とは違う。彼らは、我らを同じ帝国民として、共に豊かになろうと語ってくれた。信じがたいかもしれんが、彼らは、解放者だ。少なくとも、我らを300年苦しめたスペイン人よりは、遥かにな」
その言葉に、スルタンの心は大きく揺れた。
だが、彼は一国の王。即断はできない。
「…貴殿らの言葉は信じよう。だが、我が民の未来を託すには、まだ足りぬ。彼らの『力』を、この目で見ないことにはな。我らの敵、オランダ軍を打ち破れるというのなら、話はそれからだ」
§
その回答は、川上にとって、まさに望むところだった。
日本軍は、上陸と同時に、驚くべき速さで島の内陸部へと展開。その進軍を支えたのは、兵士の足ではなく、二つの新技術だった。
「第一大隊、前方の密林地帯に、敵の斥候部隊を発見!」
「第二大隊、電話線を急設! 本部との連絡を確保せよ!」
「後方の砲兵部隊に通達! 無線電信にて目標座標を送信! 座標、X-35、Y-72!」
日本の兵士たちは、進軍しながら、驚異的な速さで野戦電話の回線を敷設していく。前線の斥候部隊が得た情報は、瞬時に後方の指揮所へ。そして、指揮所から砲兵部隊へは、無線電信によって、目標の正確な座標が送られる。
一方、日本の進軍を待ち構えていたオランダ軍の斥候部隊は、不可解な恐怖に襲われていた。
「な、なんだ? 日本兵は、ただの箱に向かって話しているだけだぞ…?」
彼らが日本の電話兵の奇妙な行動を訝しんでいる、その瞬間。後方の空が唸りを上げ、見えない場所から放たれた砲弾が、彼らの頭上に正確に降り注いだ。
「ぐわぁっ!」
オランダ軍の司令官は、次々と入る斥候部隊全滅の報に、顔を青くした。
「馬鹿な! 敵の砲兵はどこにいるのだ! なぜ、こちらの位置が正確に分かる!?」
報告に来た部下が、震える声で答える。
「わ、分かりません! 日本兵は、まるで神の声でも聞いているかのように、我々の位置を正確に…」
「黙れ!」
司令官は、その報告を、人種的な偏見からくるプライドで一蹴した。
「アジアの猿どもが、我々を上回る科学技術など持つはずがない! 何かのトリックだ! 惑わされるな! 全軍、前進! 奴らを力でねじ伏せろ!」
§
だが、その判断は、さらなる地獄を招いただけだった。
日本の前線斥候部隊は、決してオランダ軍と直接戦わない。ただ、敵の位置と規模を、電話と無線で後方へ報告するだけ。
そして、その情報を受け取った日本の砲兵部隊が、見えない位置から一方的に鉄槌を下す。
オランダ兵は、姿なき敵からの正確無比な砲撃に、戦う前に心を折られていった。戦場は、彼らにとって「見えざる狩人」に一方的に狩られる狩り場と化していた。
数日にわたる一方的な消耗戦の末、オランダ軍は、首都クタラジャ近郊の要塞へと潰走した。
だが、その動きも、日本の通信網によって完全に筒抜けだった。
「敵部隊、要塞に籠城する模様。包囲網は、すでに完成しております」
川上操六は、地図上の駒を動かし、冷徹に告げた。
「よろしい。総攻撃を開始する。全ての部隊に、寸分の狂いもなく、同時に攻撃を開始させよ」
夜明けと共に、クタラジャ要塞に、四方八方から雷鳴のような砲声が轟いた。オランダ軍は、自分たちが、いつの間にか数倍の規模の敵に完全包囲されていると錯覚した。
だが、実際は、日本の完璧な連携が生み出した幻想に過ぎなかった。
半日後。要塞の門に、白旗が掲げられた。
§
数日後、アチェ王国の宮殿。
スルタンの前に、三人の男が進み出た。
一人は、日本の司令官、川上操六。
一人は、捕虜となった、かつてのオランダ軍司令官。
そしてもう一人は、この戦いの正しさを証明する証人、モロ族の族長。
川上操六は、スルタンに恭しく一礼すると、静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで語りかけた。
「スルタン殿。ご覧の通り、貴殿を苦しめていたオランダとの戦争は、我らの手によって終わりました。ですが、我らは、ただオランダを追い払うためだけに来たのではありませぬ」
彼は一呼吸置き、最後の、そして最も重要な提案を突きつけた。
「スルタン殿。貴殿がその『王冠』を、我らが帝に差し出し、一人の『華族』として、帝国の臣民となることをお受け入れくださるならば、我らはこのアチェの地の繁栄を、帝国総攬の名においてお約束しましょう。アチェの民の信仰も、誇りも、我らは決して奪いませぬ」
川上の言葉は、穏やかだが、その裏には鋼のような意志が感じられた。
「…しかし、もし、最後までその小さな冠に固執なさるのであれば、我らは、貴殿を、オランダと同じ、ただ滅ぼすべき『敵』と見なすまでです。賢明なるご判断を、お待ちしております」
宮殿に、重い沈黙が落ちる。
スルタンの額に、一筋の汗が伝った。彼に残された選択肢は、もはや一つしかなかった。




