43(上陸)
1871年、秋。
スールー海海戦での勝利から数週間。
この間、日本の国力は、後方の呉軍港や佐世保港で、遠征軍本隊を乗せるための輸送船団の編成と、膨大な物資の積み込みに全力が注がれていた。
そして今、夜明け前の薄闇の中、大山巌陸軍少将率いる日本の遠征軍本隊が、ミンダナオ島南部のダバオ湾にその姿を現した。
夜明けと共に、沖合の艦隊から海岸線に築かれたスペイン軍の防御陣地に対し、正確無比な準備砲撃が開始される。
それは、敵兵を殺傷するためではなく、彼らを塹壕に釘付けにし、行動を束縛するための制圧射撃だった。
土砂と黒煙が舞い上がる中、総攬府が開発した、船首が大きく開く最新式の上陸用舟艇が、次々と海岸へと殺到。
中からは、旧武士や徴兵された農民の区別なく、統率の取れた陸軍兵たちが、隊列を組んで展開していく。
旗艦『三笠』の艦橋。
若い参謀が、焦りを隠せない様子で大山に問いかけた。
「大山閣下。スールー海での勝利から三週間…。CSA議会が、我が国への宣戦布告を議論している今、この時間はあまりに惜しいのでは…」
大山は、双眼鏡から目を離さず、重々しく答える。
「若いの、焦るな。戦は、事を起こす前の準備で八割が決まる。この三週間で、我らは兵と物資を完璧に整えた。それに、西郷先生をお連れするにも、時間が必要だったのだ」
「はっ…! しかし、台湾州総督である西郷閣下が、第一師団長として自ら先陣に立たれるとは…。総攬閣下は、何をお考えなのでしょうか…」
「いや」と大山は首を振る。
「この人事は西郷殿が議会(元老院)で直接総攬閣下に直訴したらしい。まぁ総攬閣下も西郷隆盛という男の、本当の使い方を御存知なのだ。この戦は、簡単に勝つだろう。だがここはスペインが300年かけてまだ統治出来ていない場所だ。きっとこの後の事を考えておられるんだろう」
若き参謀は、その言葉の真意を測りかね、ただ黙って頷くしかなかった。
§
橋頭堡を確保し、内陸へと偵察部隊を送り出した日本軍。
彼らが鬱蒼としたジャングルで遭遇したのは、スペイン兵ではなく、クリス(波刃の短剣)や旧式の火縄銃で武装した、現地の戦士たち…モロ族だった。
木々の間から現れた彼らの目は、警戒と敵意に満ち、新たな侵略者を睨みつけている。
一触即発の緊張が走った。
日本の兵士たちは、厳しい軍律に従い、引き金に指をかけながらも発砲はしない。
その時、日本の若手士官が、通訳を介し、ジンから厳命されていた手順を実行した。
彼は自らの銃を地面に置くと、一歩前に出た。
そして、同行していた兵士が、恭しく掲げ持っていた麻袋から、真っ白な『塩』と、輝くような『米』の入った小さな袋を取り出し、静かに彼らの前に差し出した。
それは、争う意思がないこと、そして生活の糧を分かち合おうという、古来からの友好の証だった。
「我々は、奪いに来たのではない。返すために来た。貴殿らの誇りを、スペイン人から取り返すために」
士官は、静かに、しかしはっきりと告げた。
「我らは、大日本帝国からの友軍である。我らの司令官、西郷隆盛殿が、貴殿らとの会談を望んでおられる」
§
日本軍が設営した野営地。巨大なガジュマルの木の下で、西郷隆盛は、モロ族の族長たちと対等な立場で向き合っていた。護衛も最小限にし、武装も解いている。
「また新たな侵略者か! 我らの土地から、何を奪いに来た!」
族長の一人が、敵意を込めて問い詰める。300年にわたるスペインとの戦いは、彼らから容易に他人を信じる心を奪っていた。
西郷は、その言葉を穏やかに受け止めると、まず護国戦争で日本が西欧列強であるロシアを打ち破った話をした。
日本もまた、西欧の脅威に晒されていた「同じ立場」であることを、真摯に語る。
族長たちの表情が、わずかに和らいだ。
だが、彼らが本当に聞きたいのは、そこではない。西郷は、核心を突いた。
「おはんらは、儂らと同じ、帝国民にならんか?」
そのあまりに突飛な提案に、族長たちは驚き、ざわめいた。
「驚くのも無理はなか。じゃが、よう聞くんでごわす。おはんらのこの土地の主権は、天におわす天皇陛下のものとなる。じゃが、それは日本本土も、海の向こうの布哇も、台湾も、皆同じこと。そして、その土地を守り、治めるのは、そこに住む者たちの使命なんじゃ」
「今の帝国では、天皇陛下の赤子として、全ての民は平等。もはや、武士も農民も関係なか。日本のもんも、布哇のもんも、台湾のもんも、皆が同じ日本の民なんじゃ」
「おはんらの土地から出る豊かな恵みも、もうスペイン人に搾取されることはなか。外国と『取引』するのでもなか。同じ国民のため、おはんら自身の暮らしを豊かにするために使うてみんか? 我らと共に帝国民となり、スペインを追い出し、我らが手で、この地を治めようではないか!」
族長の一人が、最も重要な問いを投げかけた。
「…我らが信じる神は、どうなるのだ?」
西郷は、にこりと笑った。
「わいどんがいっばん気にしちょるんは、宗教ん問題じゃろ。我ら帝国民は神道も仏教もキリスト教もイスラム教もおる。じゃっどん、誰も差別はせん。皆が、お互いん宗教を尊重すっ文化じゃ。安心すっとよか」
西郷の飾らない、しかし力強い言葉は、族長たちの心を揺さぶった。だが、300年の不信は、そう簡単には消えない。
「…言葉だけでは信じられん。まずはお前たちの力を見せろ。我らを300年苦しめた、あのスペイン人どもを打ち破れるというのならな」
戦士としての誇りが、彼らにそう言わせた。
§
モロ族との会談を受け、日本軍は単独で、近隣のスペイン軍最大拠点であるサンボアンガ地方ピラール要塞への攻撃を開始した。
モロの戦士たちは、丘の上から、固唾を飲んでその戦いを見守っていた。
日本軍の圧倒的な砲火力が、要塞の城壁をいとも容易く砕いていく。統率の取れた歩兵部隊が、銃弾の雨の中を、まるで精密機械のように前進していく。
自分たちをあれほど苦しめたスペイン軍が、赤子の手をひねるように打ち破られていく光景。
それは、モロの戦士たちにとって、畏怖と、そして一種の興奮を伴うものだった。
「…強い。奴らは、本当に強いぞ…!」
戦いの最中、我慢しきれなくなったのか、一部のモロの義勇兵たちが、自発的に雄叫びを上げて戦場へと駆け下りていった。
ジャングルでの地の利を活かした彼らは、スペイン軍の側面を巧みに奇襲し、日本軍の進撃を援護する。
図らずして、日本とモロ族の、最初の共同戦線が生まれた瞬間だった。
夕刻、ピラール要塞は陥落し、その頂に日章旗が高々と掲げられた。
その光景を見届けた族長は、ついに西郷の前に進み出ると、深々と頭を下げ、その提案を受け入れた。
西郷は、満足げに頷くと、彼らに言った。
「族長殿、おはんらの勇気、見事であった。…さて、おはんらに、もう一つ頼みがある。この海の向こう、スマトラ島にも、おはんらと同じ、イスラムの神を信じる民が、オランダの侵略に苦しんでおる。この戦いが終わったら、わしらと共に、その同胞を救うための、戦いに力を貸してはくれんか?」
族長は、西郷の目を見つめ、静かに、しかし力強く頷いた。
§
江戸・総攬府執務室。
俺は、大山と西郷からの一連の報告を、満足げに読んでいた。
「西郷隆盛の起用、完璧でしたね。彼の持つ人徳とカリスマがなければ、こうも早く現地の協力を取り付けることは不可能でした。ミンダナオ島の制圧は、当初の予測より、数ヶ月は早まるでしょう」
ミネルヴァが、冷静に分析する。
「ああ、西郷は、こういう戦いこそが本領だ。…これが、我々のやり方だ。ただ力で蹂躙するのではない。解放者として迎え入れられ、現地の民の心をも掴む。そうすれば、無駄な血は流れず、戦後統治も安定する。これこそが、旧時代の帝国主義とは違う、我が帝国の『正義』だ。世界は、いずれ知ることになるだろう」
俺の視線は、世界地図の、次の目標…スマトラ島を、静かに見据えていた。




