42(欺瞞)
1871年夏
フィリピンとボルネオ島に挟まれた、スールー海。
抜けるような青空と、エメラルドの海が広がるこの穏やかな海域は、今、歴史の転換点を告げる鉄と硝煙の舞台となろうとしていた。
川村純義少将が率いる日本の陽動艦隊――護国戦争で活躍した旧式の蒸気フリゲート艦数隻――は、蘭西連合艦隊との接触に成功していた。
水平線の彼方には、おびただしい数のマストと、立ち上る黒煙。
その数は、日本の倍以上はあろうか。
「閣下! 敵艦隊、我々を捕捉! 追撃に移る模様です!」
若い士官が、緊張した声で報告する。
「うむ」
川村は、双眼鏡を覗いたまま、落ち着き払って頷いた。
「敵さんの航空機も上がってきました! なんという数だ…!」
蘭西連合艦隊の旗艦、スペイン海軍の装甲艦『ヌマンシア』の艦橋では、司令官であるスペイン人提督が、日本の小艦隊を侮りきった表情で見下ろしていた。
「見ろ! 東洋の猿どもが、慌てて逃げていくわ! 奴らが持つ航空機も、我が軍からの情報通り、あの程度か!」
彼の視線の先、日本の艦隊から発艦したのは、わずか十数機の複葉機。それは、敵の目を欺くために、あえて旧式化改装を施した『瑞雲』だった。
「良いか! あの哀れなズックと木の凧を、我らの数で押し潰せ! 艦隊は、あの旧式艦どもを海の藻屑にしてくれるわ!」
提督の傲慢な号令が、艦橋に響き渡った。
その頃、スールー海の遥か上空では、地獄の狩りが始まろうとしていた。
「こちら一番機、目標、敵航空部隊。…面白い、本当に的がうじゃうじゃいやがる」
『海神』の操縦桿を握る日本人パイロットは、眼下に広がる光景に、思わず不敵な笑みを浮かべた。
下に見えるのは、自分たちの『海神』とは比較にもならない、布と木でできた鈍重な複葉機の大群だ。武装も、パイロットが手で投げる爆弾か、申し訳程度の機銃しかない。
「全機、攻撃開始! 一機たりとも、主力艦隊の空域には近づけさせるな!」
隊長の号令一下、銀色の『海神』編隊が、太陽を背に急降下を開始する。
それは、もはや戦闘ではなかった。
『海神』の30厘機関銃(≒9ミリ機関銃)が咆哮を上げると、敵の旧式機は、まるで紙細工のように弾け飛び、翼をもがれ、黒煙を吹きながらきりもみ状に墜ちていく。
日本のパイロットたちは、圧倒的な性能差を実感しながら、冷静に、効率的に、空の掃除を進めていった。
だが、敵は数だけは多い。
数機の敵機が、対空砲火と『海神』の防御網をかいくぐり、日本の陽動艦隊に肉薄した。
投下された小型の焼夷弾が、数隻の甲板で火災を発生させる。
「川村閣下、被弾! 第三番艦、火災発生!」
若い士官が叫ぶ。
「馬鹿者、慌てるな」
川村は、双眼鏡から目を離さずに言った。
「火はすぐに消せ。だが、煙幕だけは、あたかも船が燃え盛っているように、もっと派手に焚き上げろ。最高の舞台装置だろう?」
彼の口元には、知将らしい冷徹な笑みが浮かんでいた。
日本の水兵たちは、訓練通り、迅速な消火活動で火災を瞬時に鎮圧。
しかし、その上で、わざと大量の黒煙を噴き上げ、あたかも大損害を受けたかのように見せかけた。
この光景を目の当たりにした蘭西連合艦隊の司令官は、勝利を確信した。
「見たか! 敵艦は炎上! もはや虫の息だ!」
その時、彼の隣にいた有能な部下が、懸念を進言した。
「提督、お待ちください! 敵艦は黒煙を上げてはおりますが、速力は全く落ちておりません! 我が軍の航空機からの連絡も、先ほどから完全に途絶えております。これは、何か罠の可能性が…!」
「黙れ、臆病者め!」
司令官は、その慎重論を傲慢に一蹴した。
「航空機は、日本の数少ない新型機に手間取っているだけだ! だが、奴らは数が全く足りておらん! 艦隊は、我らの物量の前に、なすすべもなく崩壊したのだ! 全艦、追撃! 逃げる敵は、一隻残らず海の藻屑とせよ!」
彼らが、罠とも知らずに追撃に夢中になっていた、その時。
彼らの頭上の空が、にわかに暗くなった。
「な、なんだ…!?」
水平線の彼方から、突如として百機を超える銀色の編隊が出現したのだ。
空が、鋼鉄の蝗の群れに覆われたかのような、圧倒的な光景。
「あれは、我々が知る『飛行機』ではない…天から舞い降りた、鋼鉄の死神だ…」
敵兵の一人が、絶望に顔を歪ませて呟く。
消耗しきっていた蘭西の航空部隊は、この増援の前に、なすすべもなく殲滅された。
そして、空の脅威が完全に去った、その瞬間。
連合艦隊が進む先の、島の影から、亡霊のように、巨大な艦隊が姿を現した。
大山巌率いる、日本の主力艦隊。黒煙を吐かない石油専焼ボイラーを搭載した、新型戦艦群だった。
「な…なんだ、あの航空隊の数は…!? 馬鹿な、報告では…! …ま、待て、あの艦影はなんだ…!?」
連合艦隊司令官が、信じられないものを見るように絶叫する。
旗艦『三笠』の艦橋。大山巌は、『海神』から送られてくる無線電信の報告書を読み、静かに頷いた。
「空の露払いは、終わったようだな。上々のできだ」
彼は、傍らの伝令に、しかし戦場全体に響き渡るような、威厳に満ちた声で告げた。
「全艦、戦闘用意。…撃ち方、始め!」
日本主力艦隊の全主砲が、一斉に火を噴いた。
それは、もはや海戦ではなく、一方的な「処刑」だった。
新型戦艦に搭載された大口径の国産施条砲から放たれる榴弾が、旧式の装甲しか持たない連合艦隊の艦船に、次々と突き刺さり、船体内部で炸裂する。
轟音と水柱。マストはへし折れ、砲塔は吹き飛び、船体は二つに裂ける。
速射性能に優れる多数の副砲が、雨霰と砲弾を浴びせかけ、敵艦の甲板を完全に制圧する。
数時間後。連合艦隊は、ほぼ全滅していた。
スールー海は、燃え盛る鉄の残骸が漂う、巨大な墓標と化していた。
§
江戸・総攬府執務室。
俺は、その勝利を告げる電信を、静かに受け取っていた。日本側の損害は、陽動艦隊の数隻が小破したのみ。
ジンの表情は変わらない。
だが、彼の背後にある世界地図の上で、ミンダナオ島周辺の海域を示す駒が、彼の手によって、静かに取り除かれた。
「スールー海海戦、我々の圧勝です。敵艦隊の9割以上を撃沈、または行動不能に。太平洋における、スペイン・オランダの海軍力は、これで完全に消滅しました」
ミネルヴァが、淡々と報告する。
「海を制した。次は、陸だ。大山にミンダナオの掃討を開始させる」
「…一点、ご報告が。CSA議会では、我が国への宣戦布告を巡り、激しい議論が始まった模様です。ですが、結論が出るには、まだ時間がかかりましょう」
「(地図を見つめたまま)…そうか。我々に与えられた時間は、それほど多くはない、ということだな」
俺は、次なる戦いの始まりを、静かに待っていた。




