40(奸謀)
1871年 春
出撃を目前に控えた日本海軍の巡洋艦『日進』。
その作戦室には、蝋燭の灯りと、壁に掛けられた海図を照らす石油ランプの光が揺らめき、独特の緊張感が満ちていた。
巨大な海図を前に立つ俺の隣には、ミネルヴァが静かに佇んでいる。
そして、向かいには、今回の遠征艦隊の指揮を任せた、薩摩隼人らしい巌のような風格を持つ男――大山巌少将が、腕を組んで俺の言葉を待っていた。
彼の背中には、護国戦争を戦い抜いた歴戦の将としての自信と、未知の戦場へ向かう武人としての高揚が滲んでいる。
「大山、なぜ我々がミンダナオとスマトラを目指すか、その真意を伝えておく」
俺は海図上の一点を指し示しながら、静かに切り出した。
声は、ランプの光が作る影の中で、重く響いた。
「まずは裏の理由…資源だ。この二つの島には、我が国の産業、特に未来の軍備に不可欠なクロムや石油、そして空を飛ぶための金属となるボーキサイトが眠っている。これらは、我が国の未来そのものだ」
大山は黙って頷く。彼の関心は、より直接的な戦いの理由にあるだろう。
「そして、こちらが世界に示す表の理由…『大義名分』だ。まずはミンダナオだが、ここはモロ族が長年、スペインの支配に抵抗している。つまり、スペインはこの地を全く『実効支配』できていない。次にオランダは、スマトラ全土を自国の領土だと主張している。しかし、現にアチェ王国は、何十年も独立を保ち、オランダと戦い続けている。つまり、オランダもまた、スマトラ全域を『実効支配』できていないではないか。我々の掲げた『無主地の先占権』を適用するのに、これほど最適な場所はない」
俺は一呼吸置き、彼の目を見て続けた。
「まずは、より抵抗が激しく、スペインの支配が手薄なミンダナオから手を付ける。ここで成功例を作り、世界に見せつけるのだ」
「なるほど…」大山が低い声で唸る。
「敵に先に手を出させ、それを大義名分に叩き潰す。実に、総攬らしいやり方ですな。武力でただ奪うのではなく、智謀で相手を追い込み、道理をこちらに引き寄せる。恐れ入ります」
その言葉には、感嘆と、そして武人としての純粋な闘志が込められていた。
「そうだ。我々は侵略者ではない。不当な支配からの解放者であり、正当な権利の行使者だ。世界には、そう見せねばならん。頼んだぞ、大山」
「はっ。この大山巌、総攬閣下のご期待、必ずや超えてご覧にいれます」
彼の力強い返答に、俺は静かに頷いた。戦いの準備は、もう整っている。
§
数週間後、ミンダナオ島南部のダバオ沿岸。
日本の「資源調査団」が、護衛の陸軍一中隊と共に、静かに上陸を果たした。彼らは大々的な侵攻部隊ではなく、あくまで小規模で専門的な部隊として行動する。湿気を含んだ熱帯の空気が、肌にまとわりつく。兵士たちは、カーキ色の実用的な新式軍服に身を包み、国産の最新式後装銃を携行していた。その動きは統率が取れており、一切の無駄がない。
「手筈通り、A地点からC地点に防御陣地を構築。調査中は常に周囲への警戒を怠るな。だが、我々から先に手を出すことは断じて許さん。我々は、あくまで平和的な調査団だということを忘れるな」
調査団長を務める元工兵の武士が、低い声で指示を飛ばす。
「しかし隊長、本当に奴らは来るんでしょうか…こんなジャングルの奥まで」
若い兵士が、不安げに周囲の鬱蒼とした木々を見回しながら尋ねる。見たこともない鳥の声が、不気味に響いていた。
「…総攬閣下のご命令だ。必ず、来る」
その言葉を証明するように、ジャングルの奥から騒々しい物音が近づいてきた。木の葉を踏みしだく音、乱暴な話し声、そして金属がぶつかる音。
日本の上陸を探知した、近隣のスペイン軍守備隊だった。彼らは、倍以上の兵力を率いて現場に到着する。古風で派手な欧州式の軍服を纏い、その装備も旧式のゲベール銃などが混在している。兵士には現地の傭兵も多く、練度や士気にばらつきが見えた。彼らは、日本の調査団を侮りきった表情で、高圧的に叫んだ。
「貴様ら、何者だ! 神聖なるスペイン国王の領地で、何を企んでいる!」
スペイン軍の隊長が、馬の上から傲然と見下ろす。
通訳を兼ねる日本の士官が、冷静に答える。
「我々は、大日本帝国からの資源調査団である。国際法に基づき、主権の及ばぬ無主地において、正当な調査活動を行っている。貴殿らに、我々の活動を妨害する権利はない」
「無主地だと!? この地は300年にわたり、偉大なるスペインの土地だ! その土を、我らの許可なく穿り返すことは、窃盗と同じである! 即刻、武器を捨てて投降せよ! さもなくば、反逆者として、この場で処刑する!」
隊長が、顔を真っ赤にして怒鳴る。
だが、日本側は毅然としてその要求を拒否。
調査団は、スペイン軍の警告など意にも介さず、淡々とボーリング調査を続行する。
この屈辱的な態度に、スペイン軍隊長の堪忍袋の緒が切れた。
彼は、日本の小部隊など一蹴できると踏み、部下たちに叫んだ。
「撃て! 撃ち殺せ! この無礼な猿どもに、我らの力を見せつけてやれ!」
後に「維新外征戦争」と呼ばれる戦争の始まりを告げる、運命の銃声。
それは、スペイン側によって放たれた。
ジャングルの静寂を破り、数多の銃弾が日本陣地へと殺到する。
しかし、日本の兵士たちは、その銃声と同時に、事前に準備していた遮蔽物の後ろに身を隠した。
数名の兵士が負傷するも、致命的な損害はない。
彼らはパニックに陥ることなく、正確な照準で一体ずつ、着実に反撃を開始する。
その練度の差は、一目瞭然だった。
日本の護衛部隊は、圧倒的に不利な兵力差にも関わらず、巧みな戦術でスペイン軍を翻弄。
ゆっくりと後退しながら、敵を海岸線の開けた場所へと誘い出していく。
追撃に夢中になり、隊列を乱したスペイン軍が、完全に開けた場所に出た瞬間、沖合に停泊していた日本の巡洋艦隊…大山巌少将が座乗する旗艦『日進』の主砲が、轟音と共に火を噴いた。
海からの正確無比な艦砲射撃が、スペイン軍の後方に着弾し、土砂と水柱を上げて退路を寸断する。
「な、なんだ!? 海から砲弾が…!」
狼狽するスペイン兵。その混乱の極みに、追い打ちをかけるように、新たな死神が牙を剥いた。
海岸の岩陰に隠されていた新兵器…国産の回転式多銃身機関砲(ガトリング砲)が、凄まじい発射音と共にスペイン軍の側面に鉛の嵐を浴びせたのだ。
バリバリバリ!という、布を切り裂くような連続音と共に、銃弾が扇状に掃射される。
木々は薙ぎ倒され、地面は抉られ、そしてスペイン兵の体は、まるで紙人形のように弾け飛んだ。
「ふん、見事に釣れたわ。稚拙な魚よ」
『日進』の艦橋で、大山巌が双眼鏡を覗きながら冷徹に呟く。
「…全砲門、撃ち方始め。帝国に牙を剥いた愚か者共に、鉄の裁きを下せ」
「悪魔の兵器だ! 逃げろ!」
スペイン軍兵士たちの悲鳴は、砲撃の轟音の中に虚しく吸い込まれていく。
阿鼻叫喚の中、彼らの部隊は完全に崩壊した。
§
1871年 イギリス・ロンドン外務省
電信によって、ミンダナオでの衝突の第一報がロンドンに届いた。
イギリス外務省の重厚な執務室。
イギリス外務大臣グランヴィル伯爵ジョージ・ルーソン=ゴアは、側近である次官と共に、壁の世界地図を前に状況を分析していた。
「大臣、マニラからの緊急電です。日本の調査団とスペイン軍がミンダナオで衝突。日本側の一方的な勝利に終わった模様。日本は、これを理由にスペイン、及びその同盟国オランダに宣戦を布告した、と」
「…始まったか。日本の若い獅子は、我々の予想以上に、実に獰猛だ。そして、抜け目がない」
外務大臣は紅茶を一口飲み、静かに語る。
冷静沈着に、しかしその瞳の奥には貪欲な光を宿していた。
「直ちに同盟に基づき、日本に加勢を? それとも、スペインとの友好関係を考慮し、日本を非難しますか?」
次官の問いに大臣はフッと笑い答える。
「どちらも違う。我々は『中立』を宣言し、そして『遺憾の意』を表明するのだ。日英同盟は、あくまで防衛的なもの。日本が自ら宣言した『無主地の先占権』という攻撃的なドクトリンに起因する戦争は、同盟の適用範囲外だと、世界に説明する。これに、国際法上の文句をつけられる者はいない。これが、我々が非難されずに済む理由だ」
「しかし、それでは何の利益も…」次官が訝しげに尋ねる。
「いや。利益はここから生まれるのだよ。よく聞きたまえ。まずは日本が勝ちそうな場合だが、その時はオランダに使者を送る。『貴国はこのままでは日本に勝てない。このままではジャワも全て失うだろう。だが、我々が仲介すれば、日本の要求をスマトラ島だけに留めてやる。その代わり、かねてより協議中のアフリカ黄金海岸の権益は、我が国に譲渡するように』とな。スペインにも同様にフィリピン全土は取られないようにする代わりにカナリア諸島でも頂くとしようか」
「スペインやオランダにとっては高い仲介料になりそうですな。しかし、日本が負けた場合はどうするので?」
「日本は負けんよ。日本が“負けそうに”なったら、我らが助け舟を出して恩を売り、借りをきっちり太平洋の島々で返してもらうとしよう。勿論スペインとオランダの島々もセットでだ。もっとも、今の日本相手に蘭・西の二カ国で勝てるとは思えんがね」
「それでは最初から『日英同盟』を理由に参戦した方が獲れるものが多いのでは?」
「即座に参戦か。それは二流の考え方だよ。いいかね?ここで我らが即座に参戦した場合、それは、日本の『無主地の先占権』という、極めて攻撃的な領土拡大のやり方を、大英帝国が公認したことになる。それは日本が望むところだろうよ」
「…なるほど」
「それにだ。真にイギリスの国益は何だね?ん?...それは『大英帝国による、世界の覇権の維持』だよ。そのために強くなり過ぎた虎の牙は抜かなければならない。『新興勢力の日本』『太平洋に進出したいCSA』『旧態依然とした植民地大国のスペインとオランダ』これらの国々が、互いに潰し合ってくれる。これほど結構なことはないだろう?我々は全ての国が戦争で疲弊した頃に、悠々と現れて、最も美味しいところだけを持っていく。…だから、我々は参戦しない」
「CSAの動向は?」
「やつらは日本の開国をし損ない、南北戦争も長引き、太平洋に出遅れた。気づけば日本が全てを持って行っている。奴らは焦って参戦するが南北戦争の傷は癒されているのか?答えはNOだ。まぁ日本と蘭西米だといい勝負くらいにはなってくれると良いがね」
「…流石に3国相手では日本は厳しいでしょう。すぐに戦争の準備を始めた方がよろしいのでは?」
「私の予想では、それでも日本が勝つが、早々の決着はあるまい。...まぁ一応準備の準備くらいは始めておいてもよろしい。この戦争はどう転んでも、大英帝国は損をしない。高みの見物といこうじゃないか」
大臣はそう言って、優雅に紅茶をもう一口すすった。
§
江戸・総攬府執務室。
俺とミネルヴァは、ミンダナオからの戦勝報告と、ほぼ同時に観測されたロンドンでの動きについて、最終確認を行っていた。俺の手には、大山からの戦勝を告げる電信紙。そして、ミネルヴァは、まるでロンドンの外務省の会話を聞いていたかのように、淡々と分析結果を告げる。
「…と、このような会話がなされている筈ですわ。彼らにとっての理想は、我々が国力を消耗することのようです」
「やはりな。全ては我らの手のひらの上だというのに、実に分かりやすい帝国主義者だ。我々が圧倒した場合の計算が、奴らの思考には入っていないらしい。我々は国力を消費せず、イギリスの仲介を使って短時間で目標を獲る」
「彼らは実に役に立ちますね」
ミネルヴァが楽しそうに言う。
「ああ、日英同盟のおかげで10年の時も稼げた。おかげで国力は上がり太平洋の島を自由に、安全に切り取れたぞ。次の戦争も、その次の戦争でもイギリスは常に日本にとっての大事な金のガチョウだよ」
「ふふっ、日本が強くなり過ぎれば、彼らは敵になりますわよ?」
「その時は美味しく食べるだけだ。知らないのか?世界三大珍味の一つはガチョウ(フォワグラ)だよ。もっとも、フォアグラにするには、まだ少し、丹精込めて太らせてやる必要がありそうだがな」
俺の不敵な笑みに、ミネルヴァは静かに微笑み返す。
世界の奸謀など、俺たちの前では子供の戯れに等しい。
次なる一手は、もう打ってあるのだ。




