38(潮汐)
1870年・末
深夜の総攬府執務室は、静寂に包まれていた。
部屋の主である俺、扶桑 仁は、壁に掲げられた巨大な世界地図を静かに眺めている。
地図上の日本、そして護国戦争を経て我らが版図に加わった台湾、樺太、ニューギニア、太平洋の島々は、鮮やかな赤色で塗りつぶされていた。
だが、俺の視線は、その先の太平洋を越え、大きく姿を変えた北米大陸に向けられている。
部屋を照らすのは、田中久重が作ってくれた最新式の石油ランプだ。
その安定した光が、俺の執務机に置かれた扶桑桐花紋の入った書類や、俺の横顔を照らし出す 。窓の外に目をやれば、ガス灯が灯り始めた江戸の大通りと、まだ闇に沈む家々のコントラストが広がっていた 。新旧の時代が混在する首都の姿。護国戦争の喧騒は遠く、今は次なる嵐の前の静けさが、この部屋を支配していた。
「欧州からの最新の報告がまとまりましたわ」
音もなく、傍らにミネルヴァが現れた。彼女の声は、この静寂を心地よく揺らす。
「ありがとう」と短く応え、俺は再び地図に視線を戻す。
「……しかし、ビスマルクは、相変わらず上手くやっているようだな」
「ええ。普仏戦争はプロイセンの圧勝でしょう。セダンの戦いでナポレオン3世は捕虜となっています。フランスはアルザス・ロレーヌを失い、ナポレオン三世は失脚。ドイツ帝国が誕生するでしょう。欧州の目は、当分この新しい帝国に釘付けです」
ソファに腰掛け、ミネルヴァが差し出した報告書に目を通す。イタリアの統一も、史実通りに進んでいる。
「ここまでは史実通りだ。問題は、俺がこの世界に来たことで変わった事だ」
「アメリカとオランダの動きですね」
「そうだ。オランダは、我々が新彦根州を手に入れた直後、焦ったようにアチェの侵略に動いた。俺たちの南下が相当怖いと見える。結果、アチェ戦争は史実より10年近く早く始まっている 。そして、最大の変化は北米大陸だな。俺のあの一手が、歴史の奔流を大きく変えてしまった」
かつて、アメリカとの通商条約交渉を先延ばしにするため、俺はハリス領事に未来の情報を渡した。
具体的には、アメリカ国内で燻る南北対立が、いずれ国を二分する大戦乱に発展するという予測だ。
その情報は、巡り巡って史実とは異なる結果を生んだ。
「ええ。ジン様がハリス領事に渡した『未来予測』は、最終的に南部連合の指導者たちの手に渡りました。結果、彼らは史実における致命的な戦略ミスをいくつか回避し、戦争は史実より3年長引いた末、1868年に南部連合の勝利で幕を閉じました」
「3年余計に血を流したのだ。アメリカ連合国(CSA)も、そして敗れた北部も深く疲弊し、国力の回復には時間がかかる。大西洋の向こうに口出しする余裕は、当分ないはずだ。…だが、奴隷制度を国是とするCSAの存在は、いずれ世界に新たな火種を撒く。白人至上主義を掲げる彼らが、太平洋にまでその野心を伸ばすのは時間の問題だ。特に…」
部屋の外から誰かが走ってくる音が聞こえる。
「…太平洋の真ん中に浮かぶ、あの楽園にとってはな」
俺の言葉を遮るように、執務室の扉が控えめにノックされた。
「入れ」とジンが言うと、息を切らして入室した近侍が、緊急の来訪者を告げる。
「総攬閣下、夜分に失礼いたします! ハワイ王国より特使が参られ、何卒、緊急の謁見を賜りたいと…!」
ミネルヴァが、俺にだけ聞こえる声で囁く。
「…観測通りですね。CSAは、太平洋航路の要衝であるミッドウェー諸島への入植計画を公然と進めています。アメリカ連合国議会では、ハワイ併合を主張する声も日増しに高まっているとか。ハワイ王国は、その脅威を肌で感じているのです」
「…噂をすれば、か。面白い。すぐに客室へ通せ。丁重にもてなすんだ」
近侍が退出すると、執務室には再び静寂が戻った。
§
特使との会談は、俺の予想を、そして期待を、遥かに上回るものだった。
会談を終え、再び一人になった俺は、世界地図の前に立つ。指先で、太平洋の中心に浮かぶハワイ諸島をゆっくりとなぞった。
ミネルヴァが、特使の言葉を反芻するように報告する。
「…『CSAの脅威から王国を守るため、大日本帝国との連邦を組ませていただきたい。国王の主権は帝国に委ね、ハワイは帝国の一州となることも辞さない』。これが、ハワイ王国からの正式な要請です。事実上の、併合嘆願ですわね。カメハメハ五世はアメリカ留学で白人からの差別に苦い経験を持っていますから、なおのことでしょう」
特使は、切迫した表情でこうも訴えていた。
「南部が勝ったアメリカでは、史実より早い接触も納得だな。それに『CSAは、我が国の目と鼻の先にあるミッドウェーを占拠し、奴隷商人を乗せた船が、我が国の港を我が物顔で往来しております。彼らは、我らポリネシアの民を、人間以下の労働力としか見ておりませぬ!』だったか。まぁ、急ぐのも無理はない」
「今の日本は史実よりずっと頼もしく見えるでしょうからね。その史実、明治政府は、アメリカとの関係悪化を懸念してこの申し出を断りましたが…ジン様、総攬府はいかがなさいますか?」
俺は、静かに振り返る。その問いの答えは、疾うの昔に決まっている。
「断る理由がない。太平洋は、我らの海だ。その中心に輝く最も重要な宝石を、みすみす手放す馬鹿がどこにいる?」
俺は扉の外に控える近侍に、決然とした声で命じた。
「おい、いるか。直ちに外務卿の中島と宮内庁長官の徳川家茂を呼んでこい。『ハワイ王国との連邦化に向けた緊急閣議を開く』と伝えろ。…CSAがハワイに手を出す前に、この楽園を、我々の帝国の盾であり、矛とするのだ」
「…承知いたしました。世界の潮汐が、また大きく動き始めますね」
ミネルヴァの静かな声が、新たな時代の幕開けを告げていた。
お待たせしました。4章開幕です。




