37(幕間:石油)
1865年 - 国産蒸気機関車『大勝』が完成する3年前-
呉・秘密造船所
槌音と金属の軋む音が、瀬戸内の穏やかな入り江に絶え間なく響き渡る。
広島州・呉に新設された秘密造船所。
ここでは、日本の未来の海を支配するであろう、巨大な鋼鉄の怪物が産声を上げようとしていた。
俺、扶桑 仁は、海軍卿の勝海舟と共に、建造が始まったばかりの扶桑型戦艦の、天に聳えるかのような巨大な竜骨を見上げていた。
「総攬、石炭の力は絶大ですな。この力で、海軍はこれまでの帆船とは全く違うものに変わりました。護国戦争では清国のジャンク船など、赤子の手をひねるようなものでしたからな」
勝は、感慨深げにそう言った。しかし、すぐにその表情をわずかに曇らせる。
「…ただ、あのもうもうと立ち上る黒煙。あれのおかげで、敵に見つかるのも早い。隠密行動にはとんと向きやせん」
「石炭はそういうものだ。だが、煙が出にくい燃料もあるぞ」
俺の言葉に、勝は「ほう」と目を細めた。
「あの『エタノール』とかいうやつですか? あれは素晴らしい燃料ですが、船を動かすほどの量を集めるのは、ちと骨が折れましょう」
「それとは別だな。久重にも、その新しい燃料を使う前提でこの船は作らせてある。心配せずとも、この船が完成する頃には、必要な量は確保できているさ」
俺の自信に満ちた声に、勝は訝しげな顔をしながらも、何かを期待するように頷いた。
総攬府・執務室
呉から戻った俺は、樺太州総督の榎本武揚と工部卿の五代友厚を執務室に呼び出した。
机の上には、樺太の精密な地図が広げられている。
俺は、その北部の奥端という地を指し示した。
「この地に、我が帝国の未来を動かす『黒い水』が眠っている。石炭を超える、液体の燃料…『石油』だ」
榎本も五代も、その言葉の意味をすぐには理解できず、息を呑んだ。
俺は、石油が艦船にもたらす圧倒的なアドバンテージ――高エネルギー効率による長大な航続距離、補給の容易さ、そして黒煙を出さない隠密性――を説明する。
二人の表情が、驚愕から次第に興奮へと変わっていくのが見て取れた。
「まずはこれを、新型戦艦と航空機の燃料として活用する。石油を精製した際に取れる油は質によって数種類に分かれるが、船用と航空機用は別物だ。他の用途もあるが、それらはいずれ使う。今はただ、生産し、備蓄しておいてくれ」
俺は、まず榎本に勅命を下した。
「貴殿には、フロンティアスピリットに溢れる者たちに、極寒の地、樺太の奥端で『石油』を掘り当てさせよ。これは、我が国の未来そのものと言ってよい。このプロジェクトのリーダーに、適任はいるか?」
榎本は、待ってましたとばかりに答えた。
「それでしたら、適任がおります。最近『官僚登用試験』でスカウトした山口権三郎という者ですが、能力もやる気も申し分ありません。彼を、樺太開発の現場責任者に推薦いたします」
(ミネルヴァ、どうだ?)
(ええ、適任ですね。その山口権三郎という男、史実では後の日本石油、現在のENEOSの創業者となる人物ですよ)
(面白い。これ以上の適任は居ないな)
「よろしい。その男に任せてみよう」
こうして、山口権三郎が樺太開拓団の隊長に任命された。
次に、俺は五代に勅命を下す。
「貴殿には、榎本たちが石油を掘り当てるのと並行し、本土でその『黒い水』を燃料に変える技術を確立せよ。実はな、越後で採れるという『臭水』の正体は石油だ。これを政府直轄とし、研究に充てろ」
「越後で採れるのであれば、わざわざ樺太まで行かずとも…?」
「そうだったら苦労はない。あいにく、越後の埋蔵量は少ない。樺太にあるものは、それとは比較にならん量だ。研究には越後のものを使い、実用化は樺太の石油で行う。両方が必要なのだ」
そして、「日本精密機械製造」には、ミネルヴァと共に設計した最新式の掘削リグやポンプ、パイプラインの製造が極秘裏に発令された。
樺太・奥端
現場監督となった山口権三郎が率いる開拓団が、極寒の地に降り立った。
護国戦争で活躍した者、太平洋航海で経験を積んだ旧彦根藩の者など、フロンティアスピリットに溢れる元武士たちが、日本の未来をその手に掴むべく集っていた。
だが、彼らを待っていたのは、あまりに過酷な現実だった。
厳しい冬の吹雪、全てを凍てつかせる大地、そして流氷に阻まれる物資輸送の遅延。
開発は困難を極めた。
それでも彼らは、山口の指揮のもと、寒さと闘いながら宿舎やインフラを建設し、巨大な掘削リグを組み上げていく。
その姿は、まさに文明の黎明期を支える開拓者そのものだった。
越後・秘密研究所
その頃、本土の研究所では、俺が集めた技術者たちを前に「分留」の講義を行っていた。
「いいか、この黒い水を熱すると、温度によって違う種類の油が、蒸気になって出てくる。軽いものは上で、重いものは下で集める。一番軽いものが航空機燃料、その次はいずれ使うので今は溜めておけ。そして一番重いものが、船の燃料となる重油だ」
五代友厚と田中久重の弟子たちは、集めた「臭水」を使い、俺が設計した小規模な精製装置で、昼夜を問わず試行錯誤を繰り返していた。
そして、先に成果を上げたのは、五代率いる本土の技術チームだった。
横須賀の実験施設。閣僚たちが見守る中、精製に成功した少量の重油を使った実験用ボイラーが、点火される。
ゴォッという音と共に、ボイラーは石炭とは比べ物にならない効率で、しかも黒煙をほとんど出さずに、みるみるうちに蒸気圧を上げていった。
その光景を見ていた勝海舟が、ゴクリと喉を鳴らした。
「…これか。これが、我が海軍の未来か…!」
その革命的な力の差に、誰もが息を呑んだ。
樺太、再び
「やったぞ! 本土の連中が、先に火を灯しやがった!」
本土での成功の報は、樺太の開拓者たちの元にも届いた。
それは、凍てついた彼らの心に、再び熱い希望の炎を灯した。
しかし、試練は続く。
完成間近だった掘削リグが、原因不明の事故で倒壊したのだ。
誰もが諦めかけ、絶望に打ちひしがれる中、山口権三郎だけは、歯を食いしばって仲間を励まし続けた。
「ここで諦めたら、日本の未来はないぞ! 俺たちの手で、この国を動かすんだ!」
そして、1870年。ついにその瞬間は訪れた。
修復された第一号油井が、地響きと共に黒い原油を天高く噴き上げたのだ。
黒い油にまみれながら、開拓者たちは、互いに抱き合い、雄叫びを上げた。
山口権三郎もまた、天を仰ぎ、誰よりも大きく雄叫びを上げる。その頬を伝うのが涙なのか油なのか、分からなくなっていた。
日本自前の石油エネルギー確保が、今、この瞬間に始まったのだ。
総攬府・閣議
「樺太・奥端にて、国家百年分の需要を賄う超巨大油田を発見!」
「並行して、越後にて、原油からガソリンや重油を精製する新技術も確立!」
閣議の場で報告書が読み上げられると、閣僚たちはその革命的な内容にどよめいた。
俺は静かに立ち上がり、一同を見渡して宣言した。
「諸君、聞いてもらいたい。我が国を動かすのは、今も、そしてこれからも当面は、石炭の力だ。鉄路を駆け巡る蒸気機関車、工場を動かす蒸気機関…これらは全て、石炭の恩恵に他ならない」
俺は、鉄道や産業の発展を担ってきた五代や技術者たちを労うように、ゆっくりと頷く。
「だが、我々は、そのさらに先を見据える。まずは海軍、そして空軍からだ。今後、我が帝国海軍が建造する全ての主力艦は、石油を燃料とする。空軍が使うエタノールも、より高性能な航空ガソリンへと転換し、運用数を増やす。我々は、世界のどの国よりも先に、石油の時代へと踏み出すのだ」
更にジンは閣僚を見渡し、言葉を続ける。
「樺太の油田は、当面の軍事を支えるには十分すぎる。だが、いずれ我が国の全ての船が、全ての工場が、そして民の暮らしが石油で動く時代が来る。その時、この国の産業を止めないためには、樺太だけでは全く足りない。我々は、未来のために、もっと多くの油田を確保せねばならんのだ」
閣僚たちがどよめく中、海軍卿の勝海舟が、一人静かに目を閉じ、何かを噛み締めているようだった。
やがて彼は、ぽつりと呟いた。
「…黒船の時代は、もう終わったのか。いや、俺たちが終わらせたんだな。これからは、石油を制する者が、世界の海を制する…。とんでもない時代になっちまったもんだ」
その言葉は、一つの時代の終焉と、日本が主導する新たな時代の幕開けを、静かに告げていた。
これで3章幕間終了です。次の話から4章になります。




