36(幕間:浪漫)
1861年、江戸郊外
早朝の冷たい空気が肌を刺す。
広大な土地に、等間隔に打ち込まれた測量用の杭が、どこまでも続いていた。
その光景を、工部卿・五代友厚が険しい表情で見つめている。
傍らには、陸軍卿の大村益次郎が静かに立っていた。
「五代卿、本当にこれだけの規模の『鉄の道』を、数年で作り上げるおつもりか。前代未聞の大事業だ」
大村の問いに、五代は力強く頷いた。
「陸軍卿、これは単なる道作りではありませぬ。日ノ本の血流を、経済を、そして軍事輸送の速度を根底から変える、国家百年の計でございます。総攬閣下は、我々にそれを成せと命じられたのです」
その視線の先には、山と積まれた建設資材と、新たな仕事に希望を見出す男たちの姿があった。
その頃、俺は総攬府の一室で、ミネルヴァの報告を聞いていた。
(五代も大村も、やる気に満ちているようだな)
(はい、ジン様。ですが、彼らの情熱だけでは、この事業はあまりに巨大すぎます。私たちの知識と、ジン様の的確な指示が不可欠となるでしょう)
(分かっている。だからこそ、まずは彼らに明確な『設計図』を示す必要がある)
数日後、総攬府の会議室。
俺は主要閣僚たちを前に、日本の未来を繋ぐ壮大な鉄道網構想を提示した。
「第一期計画として、三つの路線を同時に着工する」
俺は巨大な地図を指し示しながら、宣言した。
「一つ、江戸と横浜を結び、いずれは福岡州までを繋ぐ『金の道』。これは海外との玄関口である横浜と首都を結び、日本の経済を加速させるための大動脈だ」
「二つ、大船と横須賀軍港を結ぶ『鋼の道』。首都と軍事拠点を繋ぎ、有事の際に兵員と物資を迅速に輸送するための生命線となる」
「そして三つ、夕張炭鉱と箱館港を結ぶ『力の道』。鉄道も工場も、石炭なくしては動かん。日本の産業を支えるエネルギーを、鉱山から全国へ運び出すための心臓部だ」
閣僚たちが息を呑む中、俺はこのプロジェクトの総責任者に五代友厚を任命した。
彼には、俺とミネルヴァが作成した精密な計画書――最適なルート、勾配計算、トンネルや橋梁の設計案まで網羅したもの――が手渡される。
五代はその実現に向け、全国から腕利きの職人を集め、さらに護国戦争後の役割を求めていた元武士たちを「鉄道建設隊」として大量に雇用し、彼らに新たな仕事と誇りを与えていった。
時を同じくして、田中久重が率いる「日本精密機械製造」には、新たに「鉄道製造部門」が設立された。
彼らの使命は、鉄道の心臓部である蒸気機関車の完全国産化だ。
俺は久重と、彼の息子であり後継者でもある田中大吉を執務室に呼び、ミネルヴァの知識から引き出した、この時代では考えられないほどの先進技術を提示した。
「蒸気をさらに加熱し、エネルギー効率を飛躍的に高める『過熱蒸気装置』。高圧に耐え、より大きなパワーを生み出す『鋼鉄製ボイラー』。そして何より、将来の高速化と輸送力増強を見据えた『標準軌』の採用だ」
その他にも「給水加熱器」「ローラーベアリング」「デフレクター」といった細部にわたる改良案を、図面と共に示していく。
「…総攬。これは…まさに夢の機関車ですな。ですが、あまりに夢が過ぎるやもしれませぬ。それにこの線路の幅ですが、どうにも中途半端な寸法(4.74尺 = 1435mm)に思えます。例えば、きっかり五尺にしてしまった方が、何かと作りやすくはありませんか?」
久重は、技術者としての興奮と、同時にその実現の困難さに顔を曇らせた。
「久重殿、我々が作るのは、ただこの日ノ本を走るだけの道ではない」
「…と、仰いますと?」
「いずれ、我が国の鉄道技術…この機関車も、このレールも、海を越えて、世界中の国々が欲しがるようになる。その時に、我々の基準が世界の基準に合っていれば、商売がしやすかろう?今各国で研究されている幅の1つはこの『4.74尺』幅だ。日本が世界で一番の鉄道技術を持ち、いずれ世界に広げていく。だからこそ、お前たちに頼むんだ。この国の最高の頭脳と技術を結集すれば、必ず実現できる」
俺は一呼吸置き、田中久重の横にいる人物を指名する。
「大吉、この蒸気機関車プロジェクトの主任は、君に任せる。父上の力を借りながら、必ず成功させろ」
「はっ! お任せください!」
田中久重の一番弟子であり養子である田中大吉は、突然の指名に目に見えて気負い過ぎていた。
「大吉、プレッシャーを感じているか?」
「は…はい。父は偉大すぎます。俺に、このような大任が務まるのか…」
「お前の父は、確かに天才だ。だが、天才は時に一つのことに夢中になりすぎる。プロジェクトを率いるには、全体を見る目も必要だ。お前にはそれがある。父に学び、父を使い、そして、父を超えろ。俺は、お前たち、新しい才能に期待している」
大吉の瞳に、技術者魂の火が灯った。
その裏で、俺は田中久重本人を別室へと呼んだ。
そこには、水運卿の赤松則良、海軍卿の勝海舟、海軍大将の榎本武揚、そして広島州総督の木戸孝允が待っていた。
「久重殿には鉄道と並行し、もう一つ、この国の未来を守るための『盾』を作ってもらいたい」
俺が示したのは、新型戦艦の設計図だった。
史実のロイヤル・サヴェリン級戦艦をベースに、日本の冶金技術で作る強靭な砲身、無煙火薬、そして多数の速射副砲を備え、動力には黒煙を出さない「重油専焼ボイラー」を採用する、次世代の鋼鉄艦だ。
「この船は…石炭では動かんのですな…」
久重の呟きに、俺は頷く。
「ああ。いずれ手に入る、新たな燃料で動く船だ。そして木戸、この船を建造するため、貴殿の広島州『呉』に、極秘の造船所と軍港を建設してもらいたい」
海軍の重鎮たちも、その革命的な戦艦の性能に言葉を失っている。
日本の産業革命は、陸と海で同時に始まろうとしていた。
しかし、道は平坦ではなかった。
4年後、予定開業日を少し過ぎた頃。
田中大吉たちが心血を注いで完成させた国産蒸気機関車「壱号機」は、試運転であえなく停止した。
ボイラーの圧力不足、部品の摩耗、レールの強度不足…問題が次々と噴出する。
建設現場でも、トンネル工事での落盤事故や、未知の硬い岩盤が行く手を阻み、元武士の建設隊員と、昔気質の職人たちの間で衝突が起こることも少なくなかった。
総攬府執務室で俺は頭を抱えていた。
「ミネルヴァ、ちょっと夢を詰め込みすぎたかもしれん」
「だから言ったじゃないですか。私が伝えた未来の蒸気機関車の機構、いきなり全て入れるなんて」
「蒸気機関車は男の夢なんだよ。それに『日本精密機械製造』だぞ。いけると思ったんだよ」
俺は4年前ミネルヴァから受けた講義を思い出す。
§
「ジン様、シュミット式過熱蒸気装置とは、ボイラーで作った蒸気を、煙突に送られる熱い排気ガスの中でもう一度温め直す(追い焚きする)装置です。こうすることで、蒸気はよりサラサラで、より高いエネルギーを持つ「過熱蒸気」に変わります。結果として、機関車のパワーが格段に上がり、石炭と水の消費量も減る、まさに一石二鳥の技術です。ドイツのヴィルヘルム・シュミットが発明し、機関車に実用化されたのは1898年頃です」
「次に鋼鉄製ボイラー。これまでのボイラーは、主に錬鉄という鉄で作られていました。これを、より強度の高い「鋼鉄」に変えることで、ボイラー内の蒸気圧力を、より高めることができます。圧力が高いほど、ピストンを押し出す力も強くなるため、機関車の馬力、つまり引っ張る力が飛躍的に向上します。鋼鉄自体は1860年代から安く作れるようになりましたが、品質が安定し、機関車の高圧ボイラーに安心して使えるようになったのは1880年代以降です」
「給水加熱器、ボイラーに送る冷たい水を、機関車から出る排気の蒸気や煙の熱を利用して、あらかじめ温めておく装置です。お風呂を沸かす時に、水から沸かすより、お湯から沸かす方が早いですよね? それと同じ原理で、ボイラーの燃費を良くするための、非常に合理的な省エネ技術です。様々な形式が試されましたが、広く普及し始めたのは1920年代頃です」
「ローラーベアリングとは、車輪の軸受け部分に使う部品です。これまでの軸受けは、金属同士が直接こすれ合うため、摩擦が大きく、たくさんの油を必要としました。「ローラーベアリング」は、円筒形のコロを間に入れることで、摩擦を劇的に減らします。これにより、機関車はより少ない力でスムーズに発進・走行でき、高速走行も安定します。機関車の主軸という、非常に大きな力がかかる部分に実用化されたのは、1930年代以降の、最新鋭の蒸気機関車でした」
「デフレクター、除煙板とも言いますが、これは、機関車の煙突の両脇についている、大きな板のことです。一見、ただの飾りや風よけに見えますが、走行中の風の流れを誘導し、煙突から出た煙を上に持ち上げることで、運転士の視界を煙から守るという、非常に重要な役割を果たします。ドイツで1920年代に開発され、世界中に広まりました。」
「....よし、ミネルヴァ、全部盛りだ。最強の蒸気機関車を作るぞ」
「このあと電車も控えています。蒸気機関車にそれ程拘らなくても良いのでは?」
「日本の歴史にSLが登場しない!?そんな事はあってはならんのだ!それにな、電車と違って石炭をくべるだけで動く蒸気機関車は導入コストが安い。排気ガスだ何だと言われないうちに使っておくのが手だろう?」
「...まぁジン様がそういうのなら。設計図は貴方が書くんですよ?他の勉強に使う時間が無くなるのでは?」
「未来の日本のためには仕方がないのだ」
§
あの時は、もうちょっと考えた方がよかったかもしれない。
あきれた顔のミネルヴァから声がかかる。
「...でもまぁ、いい線いってますよ。今起こってる問題は2つです。第一に、機関車のボイラー。現行の材質では、ジン様の要求する圧力に耐えきれず、微細な亀裂が多発しています。第二に、箱根周辺のトンネル工事。想定外の硬質岩盤により、掘削が完全に停滞。現場の士気は著しく低下しています」
「解決策は?」
「ボイラーには、特殊合金の生成が必要です。クロムとモリブデンの配合比率は…」
報告を受けた俺は、ミネルヴァのシミュレーションと原因解析に基づき、自ら工場や建設現場へと足を運んだ。
「大吉、ボイラーの材質にクロムとモリブデンを僅かに加えてみろ。強度が格段に上がる。ベアリングの潤滑油も、この配合に変えろ」
「五代、この新しい火薬――『ダイナマイト』を使え。岩盤を破砕する力が段違いだ。トンネルの支保工も、この組み方に変えれば落盤は防げる」
俺は、ピンポイントで的確な解決策を提示していく。
そして、現場の者たちを集めて檄を飛ばした。
「君たちは、単なる労働者ではない! この国の未来をその手で築く、誇り高き兵士だ! この鉄路が完成した時、君たちの名は歴史に刻まれるだろう!」
俺の言葉に、現場の士気は再び燃え上がった。
そして1868年。
夢の機関車の開発は、詰め込みすぎた技術のせいで当初の計画より大幅に遅れた。
しかし、その間に鉄道の敷設は着々と進み、ついに江戸と名古屋を結ぶ幹線が開通するに至った。
完成したばかりの江戸・新橋駅。
沿道には、歴史的な瞬間を見届けようと、無数の民衆が集まっている。
俺や徳川慶喜、閣僚たちが見守る中、黒光りする巨体――国産蒸気機関車『大勝』が、客車を牽引してホームに停車していた。
その威容に、人々は息を呑む。
「総攬閣下、全ての準備が整いました」
五代友厚が、感極まった表情で報告する。
俺が頷くと、機関士が力強く汽笛を鳴らした。
甲高い咆哮が空に響き渡り、『大勝』は蒸気を噴き上げながら、ゆっくりと、しかし力強く車輪を回し始めた。
次第に速度を上げていく列車の中から、俺は窓の外を流れる景色を見つめていた。
沿道で、自分たちが敷いた鉄路を走る列車に、元武士や職人たちが万歳三唱で応えている。その顔は皆、誇りと喜びに満ちていた。
横浜駅に到着した時、一人の青年が息を切らして俺の元へやってきた。
「こ、この蒸気機関車の設計図を見せてはいただけないでしょうか!」
(ミネルヴァ)
(はい、ジン様。この方は井上勝。史実における日本の『鉄道の父』ですよ)
(なるほどな。歴史の方から、俺に会いに来てくれたか)
俺は青年に微笑みかけた。
「『日本精密機械製造』で作ってもらったものだ。これからそこの鉄道製造部門に行くが、一緒に来るかね?」
その夜、製図室で『大勝』の設計図を見た井上勝は、その場に崩れ落ちた。
「…正気の沙汰とは思えん…。私が英国で学んだ知識が、まるで子供の落書きに見える…。『標準軌』に『過熱蒸気』、『ローラーベアリング』だと? これを本当にこの国で…いや、この時代で実現できたというのか…?」
田中大吉が、誇らしげに、しかし少し照れたように答える。
「仁総攬のアドバイスのおかげだよ。父も常々言っていたが、総攬の頭の中は一体どうなっているんだか」
「よせ、大吉。全ては、君たちの頑張りのおかげだ」
俺の言葉を聞きながら、井上勝は顔を上げた。
「…私も、ここで働かせてください!」
その強い瞳を見ながら、俺は確信していた。
(この国は、まだまだ進む。世界の列強は、どこまでこの速度についてこられるかな)
日本の産業革命は、今、まさにとてつもない速度で加速し始めたのだ。




