3(道場)
土方歳三に案内され、俺とミネルヴァは日野宿にある佐藤彦五郎の道場へと足を踏み入れた。道場といっても、母屋の隣に建てられた比較的質素な稽古場で、中からは気合の入った掛け声と竹刀の打ち合う音が響いてくる。
「先生、ただいま戻りました。ちと、騒ぎに巻き込まれまして…手当てをお願いしたいのですが」
土方が道場の入り口で声をかけると、中から人の良さそうな壮年の男が出てきた。この男が佐藤彦五郎だろう。彼は土方の顔の痣や服の乱れを見て眉をひそめたが、すぐに奥へ手招きした。
「歳さん、また無茶をしたのかね。奥で薬を…ん?そちらの方は?」
佐藤彦五郎の視線が、土方の後ろに立つ俺に向けられる。
道中でも薄々感づいてはいたが、やはりこの絶世の美女であるミネルヴァの存在に、土方も佐藤彦五郎も一切の反応を示さない。どうやら俺にしか見えていないようだ。
「ああ、こちらはジンさん。騒ぎの最中に助太刀してくださった方です。とんでもなく腕が立つお人で…」
土方が俺を紹介しようとするが、俺は軽く手を上げてそれを制した。
「ジンと申します。土方殿の助太刀というにはおこがましい。偶然通りかかっただけです。それより土方殿の手当てを」
俺がそう言うと、佐藤彦五郎は改めて俺を値踏みするように見つめた。特に俺の異人めいた容貌と、腰のショートソードに目がいっているようだ。しかし、深くは詮索せず、まずは土方を座敷に上げて手当てを始めた。
手当てが一段落したところで、道場の中から一際体格の良い、目力の強い青年と、彼より少し年嵩に見える実直そうな男が現れた。目力の強い青年は歳二十歳前後だろうか。土方とはまた違う、どっしりとした貫禄がある。
「歳、また喧嘩か。相手は?」
低いがよく通る声だ。彼が近藤勇か、と俺は直感した。もう一人の男は、黙って土方の様子を気遣っている。
「勇さん、源さん…いや、ちと厄介な浪人どもに絡まれまして。ですが、こちらのジンさんが助太刀してくださり、事なきを得ました」
土方が説明すると、近藤勇は俺に向き直り、深々と頭を下げた。もう一人の男――井上源三郎だろうか――もそれに倣う。
「これはご丁寧にどうも。天然理心流、近藤勇と申します。弟弟子が世話になりました」
「同じく井上源三郎です。よしなにお願いいたします」
「ジンだ。気にするな」
俺と近藤、井上が短い挨拶を交わしていると、ミネルヴァが俺にだけ聞こえる声で囁いた。
「ジン様、この近藤勇という男、土方歳三に劣らぬ強い意志と、人を惹きつけるカリスマ性を秘めております。井上源三郎も実直で腕の立つ男。彼らもまた、歴史に名を残す器かと」
(だろうな。後の新選組局長と六番隊組長だ。しかし、ミネルヴァの姿が見えて無いだろう事は概ね確定だが、声も聞こえていないのか?)
俺は試しに、近藤たちがいる前で、ミネルヴァに向かって小声で尋ねてみた。
「ミネルヴァ、この道場の他の門下生で、注目すべき者はいるか?」
当然、彼らは俺が誰に話しかけているのか分からず、怪訝な顔でこちらを見ている。土方は「ジンさん…?」と心配そうに声をかけてきた。ミネルヴァは俺の意図を察したのか、少し楽しむような響きで答える。
「ふふ…ジン様、どうやら皆様には私の姿も声も届いていないようですね。私はジン様専属の精霊ですので」
(…やっぱりそうか!今までの俺の行動、こいつらから見たら完全に虚空に向かって喋るヤバい奴だったんじゃ…)
俺は内心で頭を抱えた。ミネルヴァはわざと教えなかったな、と確信する。彼女は俺の慌てぶりを見て、肩を小さく震わせているように見えた。
気を取り直して、俺は近藤と土方、そして井上源三郎に向き直った。
「ああ、すまない。時折、目に見えぬ師の声が聞こえるのでな。気にしないでくれ。それより、お三方にお尋ねしたい。お前たちが目指す『武士』として、その剣を何のために振るいたいと考えている?今のこの国のあり方に満足しているか?」
俺の言葉に、道場の空気は一瞬で張り詰めた。佐藤彦五郎は驚愕の表情を浮かべ、近藤勇は鋭い眼光で俺を射抜くように見つめ、土方歳三は先ほどの戦闘で俺が見せた規格外の力を思い出し、ゴクリと喉を鳴らす。井上源三郎は黙って俺の言葉の真意を探るように見つめている。
(こいつらが厳密にはまだ武士の身分ではないことは知っている。だが、俺が求めているのは、身分ではなく魂のありようだ)
「…ジン殿、それは、穏やかならぬ話ですな」
近藤が重々しく口を開いた。
「あんたが何者かは知らねえが、そんな大それたこと、本気で言ってるのか?」
「本気も本気だ。俺が見る限り、この日ノ本は大きな危機に瀕している。遠い清国がアヘン戦争でどうなったか、噂くらいは耳にしているだろう。あれは他人事ではない。今の幕府のやり方では、いずれこの国も同じ道を辿る。俺はそれが許せない」
俺は続ける。
「真の武士とは、ただ剣の腕を磨くだけではないはずだ。その力を何のために使うのか、何を守るために振るうのか。そこにこそ武士の魂があるのではないか?俺は、この国を根本から立て直し、外敵に侮られず、民が安心して暮らせる世を作りたい。そのための新しい設計図を持っている。そして、それを実現するための力も、知識も持っている。例えば、近々異国の黒船がこの国に現れると言われているが、それがいつ、どのような規模で来るか、俺には分かっている。それが俺の言葉の信憑性を裏付ける最初の証になるだろう。お前たちの力を貸してほしいんだ」
しばしの沈黙が流れる。
最初に口を開いたのは、意外にも土方歳三だった。
「…ジンさん、あんたの強さは本物だ。俺が見たこともねえような戦い方をする。それに、あんたの言う『新しい国』ってのがどんなもんか、正直まだよくわからねえ。だが…」
土方は一度言葉を切り、近藤の顔を見た。近藤はまだ難しい顔で腕を組んでいる。
「だが、このまま田舎で剣を振ってるだけじゃ、何も変わらねえって気もしてた。あんたの話、もう少し詳しく聞かせてもらえねえか?そして、もし俺の力が役に立つってんなら…」
土方の瞳には、野心と期待の光が宿っていた。
一方、近藤勇は慎重だった。
「ジン殿の志の高さは理解したつもりだ。だが、あまりにも壮大すぎる。我々は天然理心流の剣を極め、いずれはこの国の役に立ちたいと願ってはいるが、国を作り変えるなどと…。それに、我々には師もおり、この道場を守る務めもある」
近藤の言葉はもっともだった。一介の浪人にも満たない若者に、いきなり国を変えると言われても、すぐには乗れないだろう。
「無理強いはしない。だが、よく考えてみてくれ。お前たちの剣は、道場の中だけで振るわれるべきものなのか?この国が本当に危機に瀕した時、お前たちの力はどこで発揮されるべきなのか?」
俺はそう言って、立ち上がった。
「俺は明日、ここを発つ。まずは西へ向かい、京の都を目指す。そこで情報を集め、新しい世を作るのに必要な技術を持つ者や、お前たちのような志の高い仲間を探すつもりだ。土方、もし来る気があるなら、明日の朝、この道場の門の前で待っている。近藤、お前もだ。井上殿も、もちろん他の者でも構わん。俺の言葉に少しでも心が動いた者がいるなら、歓迎する」
俺はそれだけ言うと、ミネルヴァに目配せし、佐藤彦五郎に一礼して道場を後にした。
道場を出て暫くして俺は声をかけた。
「ミネルヴァ、改めて確認するがお前が言っていた『この国の技術革新に不可欠な人物』に会うのが、西へ向かう最大の目的の一つだったな?」
ミネルヴァは俺の思考に応じるように、静かに頷いた気配がした。
「はい、ジン様。彼の技術と発想力は、我々の計画において極めて重要です。彼を仲間に引き入れることができれば、大きな前進となるでしょう」
「うむ。その人物をどう説得するか…日野へ来る前に練った策では、彼の最高傑作だという『あの複雑な仕掛け時計』――確か…須弥山儀、とか言ったか。あれの宇宙観を揺さぶる必要がありそうだな。一筋縄ではいかんだろう」
「その通りです、ジン様。彼の宇宙観に触れ、ジン様の持つ知識の深淵を見せることができれば、必ずや心を開くでしょう。そのためにも、道中での私の特別講義にご期待ください」
「はは、お手柔らかに頼むぜ、ミネルヴァ先生」
「ふふ、善処いたします」
【補足】
今回の物語の舞台となった1852年(嘉永5年)頃の多摩地方、日野宿における天然理心流の状況について補足します。
・佐藤彦五郎道場:
日野宿の名主であった佐藤彦五郎は、天然理心流三代目宗家・近藤周助(近藤勇の養父)の弟子であり、自宅の一角に道場を開いていました。土方歳三の姉・のぶが彦五郎の妻であったため、土方歳三は若い頃からこの道場に出入りし、剣術を学んでいました。
・近藤勇:
本文中では「近藤勇」と表記していますが、1852年当時はまだ宮川家の人間で、幼名は「宮川勝五郎」でした。天然理心流に入門後、近藤周助の養子となる話が進む中で、母方の姓を名乗り「嶋崎勝太」と称していた時期がこの頃にあたります。後に「近藤勇」と改名し、宗家を継ぎます。作中ではジンが「二十歳前後」と推測していますが、史実では18歳です。彼が日野の佐藤道場へ出稽古に来ていることは、義兄にあたる佐藤彦五郎との関係を考えればありえる話なので、偶々出稽古の日と重なったとしてください。なのでここに近藤がいますが、ここは試衛館ではありません。
・土方歳三:
本文中では「土方歳三」と表記していますが、幼名の一つに「義豊」があり、通称として「歳蔵」が使われたという説もあります。日野の豪農の家に生まれ、この頃は薬の行商なども手伝いつつ、佐藤道場で剣の腕を磨いていました。17歳です。
・井上源三郎:
八王子千人同心の家に生まれ、天然理心流を学び、佐藤道場で師範代も務めたとされる実力者です。1852年当時23歳。
・その他の試衛館関連人物:
沖田総司:1852年頃はまだ10歳前後で、江戸・市谷の試衛館(近藤周助の道場)で内弟子として剣の修行を始めた頃と考えられます。
斎藤一や永倉新八といった、後に新選組の中核を成す他のメンバーが試衛館や近藤・土方らと深く関わるのは、もう少し後の時代になります。
【人物紹介】
■近藤勇
・登場時の年齢::18歳(作中ではジンが20歳前後と推測)
・史実の生没年:1834年~1868年
・1852年当時の名前:嶋崎勝太 ※幼名は宮川勝五郎
・主な功績:
新選組局長。天然理心流四代目宗家(後に襲名)。幕末の京都で、尊王攘夷派の過激浪士の取り締まりなど治安維持活動に従事。多くの隊士を惹きつけるカリスマ性と求心力を持っていた。戊辰戦争で捕縛され、板橋で斬首された。
・その他エピソード:
武州多摩郡上石原村の農家の三男だったが、天然理心流三代目宗家・近藤周助の養子となり武士の身分を得た。非常に真面目で義理堅く、人情に厚い性格だったと言われる。一方で、酒が入ると陽気になる一面もあったとか。
■井上源三郎
・登場時の年齢:23歳
・史実の生没年:1829年~1868年
・主な功績:
新選組六番隊組長。八王子千人同心の家に生まれる。天然理心流を学び、誠実で温厚な人柄と確かな剣腕で隊士たちからの信頼も厚かったとされる。鳥羽・伏見の戦いで戦死。
・その他エピソード:
新選組の中では比較的年長で、若い隊士たちのまとめ役でもあった。口数が少なく真面目な性格だったと伝えられる。家族思いの一面もあった。