25(天秤)
安政五年(1858年)秋。
総攬府が発足して数ヶ月が経過し、江戸の喧騒もようやく落ち着きを見せ始めていた。
だが、水面下では新たな外交戦の火蓋が切られようとしていた。
総攬府の一室、外交応接室。
外務卿・中島三郎助が、イギリス公使サー・ヘンリー・パークスと向き合っていた。
パークスは、長年アジア外交に携わってきた老練な外交官だ。
その鋭い眼光は、新政府の力量を測ろうとしているかのようだった。
「パークス公使、本日はお越しいただき感謝申し上げる」
「いえ、両国の事を思えばこそ。して、条約の件は考えてもらえましたか?」
「勿論、前向きに検討させて頂いております。ただ、我々が政権を獲ったのもつい先日です。貴国と条約を結ぶにも、そのための憲法や法律が整備出来ていない状況です。今しばしお待ち頂きたい」
中島は、ジンの指示通り、丁寧ながらも毅然とした態度でそう切り出した。
新政府の未熟さを逆手に取り、時間稼ぎを狙いつつ本題に入る。
「総攬がおっしゃるには2年、お待ちいただきたい」
「…中島外務卿。貴国の置かれた状況、そして新政府の意欲は理解したつもりです。ただ2年は余りに長くは無いですかな?幕府にも散々待たされて、また待つのか?清の状況を知らないと見える」
パークス公使の眉間に皺が寄った。
明らかに脅しが混じった交渉に変わるが、中島の流れを変える一言を放つ。
「当然、清の状況はよくわかっています。その上で、バークス公使、清と我が国を同じように見ていると痛い目を見ますよ?」
「...ほう?どうなると?」
「それは総攬から直接説明されるようです。貴国とは仲良くありたいので、別の国で示されるようですよ」
「デモンストレーションというわけか。面白い。ただ、2年を何も無しで待つわけにはいかない」
「解っております。次の会談ではより具体的な条件をお話出来るよう進めてまいります」
パークス公使は、髭をひねりながらしばし沈黙したが、やがて口を開いた。
「...総攬殿との会談までは待ちましょう。ただし、冬までです」
その後も少し中島外務卿とパークス公使は話し合ったが、具体的な内容は後日という事になり、パークス公使は清へ帰って行った。
その裏で、国内の足固め、特に海軍力の増強は急ピッチで進められていた。
今年(1858年)の夏ごろの話だ。
「ジン総攬、こちらが横須賀海軍工廠の建設計画でございます」
勝海舟と榎本武揚が、巨大な図面を広げて俺に説明する。横須賀の地に、ドック、造船台、兵器工場、そして将来的には製鉄所までをも備えた一大軍事拠点を築き上げるという壮大な計画だ。
「素晴らしい。これこそが、我が国の海を守る礎となるだろう。工部卿・五代友厚に国家プロジェクトとして全権を与え、推進させる。筑豊、三池炭田からの石炭供給ルートも、最優先で確立させろ」
俺は即座に承認した。
先日進捗を見に行ったが、着々と工事が進められ、一部ドックは稼働を始めていた。
江戸に拠点を置いた、田中久重率いる「日本精密機械製造」が航空機用エンジンの改良に、そして吉田松陰の「日本航空機研究所」では、佐久間象山と共に水上機の試作に心血を注いでいた。
時折、俺もミネルヴァから得た知識――例えば、シリンダーの冷却効率を上げるためのフィンの形状や、プロペラの最適なピッチ角、翼の揚抗比を高めるための断面形状などの設計図――を彼らに渡している。
その度に、彼らは驚愕し、そして子供のように目を輝かせて研究に没頭するのだった。
「ジン様の『設計図』は、まさに神の御業!毎回悩んでいる所に最適なものが持ち込まれるのが素晴らしい」
田中久重の興奮した声が、江戸にある「日本精密機械製造」本社から聞こえてくるようだった。
一方、海軍総大将に内定した徳川家茂公は、勝海舟や榎本武揚の指導のもと、帝王学と共に海軍戦略の基礎を学び始めていた。
その真摯な学習態度と、時折見せる聡明な質問に、勝も「家茂公は、見かけによらず、なかなかの器やもしれん」と期待を寄せているようだった。
彼が生粋の人たらしであることは、ミネルヴァの情報からも明らかだ。
武士たちの不満を抑え、新海軍の象徴として彼らをまとめてくれるだろう。
いずれは閣僚として、より重要な役割を担ってもらうつもりだ。
そして冬が近づく頃、ついに俺とパークス公使との極秘会談が実現した。
場所は、人払いされた総攬府の奥の一室。ミネルヴァは、もちろん俺の傍らにいる。
「パークス公使、お待たせした」
「いえ、ジン総攬。貴国はこの数か月でも随分変わられたようだ。横須賀の海軍工廠は素晴らしかった」
「お褒めに預かり光栄です。まだまだこんなもんじゃないですよ」
「それは興味深い。...さて、中島外務卿からはジン総攬から説明があると伺っています。我が国とどのような関係をお求めで?」
俺は、ミネルヴァと用意した詳細なデータ――ロシアのシベリア開発の現状、不凍港を求める南下政策の具体的な脅威、そしてそれがイギリスのインド支配や清国市場に与えるであろう悪影響――を、地図と共にパークス公使の眼前に広げた。
「公使、ご覧いただきたい。これが、ロシアという熊が、すぐそこまで迫っている現実です。日本は、地理的に見て、このロシアの南下を防ぐための、まさに防波堤となり得る。その対価として、イギリスには日本の完全なる独立と主権を認めていただき、共にこの脅威に立ち向かっていただきたい。これは、貴国にとっても決して悪い話ではないはずだ」
パークス公使は、食い入るように資料に目を通し、時折鋭い視線を俺に向けてくる。彼の表情は、驚きと警戒、そして僅かな興味が入り混じっているように見えた。
「…総攬殿。あなたの情報力、そしてその戦略眼には驚かされる。しかし、我が国が、まだ国としての体を成しているかも定かではない貴国と、対等な条約を交わせるとお思いか?」
「無論、現状のままでは無理でしょう。ですが、我が国にはその力があることを証明する用意がある。そのために以下の条文にサインを頂きたい」
俺から1枚の紙がパークス公使に渡される。
「我が国は、今後一年以内にロシアに対し具体的な軍事行動を起こし、樺太、千島列島などロシアの出口となる島を抑え、太平洋におけるロシアの影響力を完全に排除する。その間、イギリスには日本の行動を静観していただきたい。そして、もし我々がこの目的を達成した暁には、日英両国は完全に対等な通商条約、ならびに軍事同盟を締結する。だが、もし失敗した場合は…その時は、日本はイギリスの全ての要求を呑み、不平等条約を受け入れましょう」
「面白い、我が国にとってメリットしかない。だが、貴国が破れた場合、ロシア南下が進んでしまう恐れがある。これを飲むのだ。もう少し我々のメリットがあってもいいと思うのだが?」
「...これは我々が勝ち、貴国と同盟を結んだ場合の話ですが...朝鮮半島は欲しくは有りませんかな?」
パークス公使の顔色が変わる。
俺は一息ついて続けた。
「我々日本は、大陸への領土欲を持ちません。清に対する利権もです。ですが、これではロシアが陸から南下してしまう」
「...そうですな」
「そこで、朝鮮半島はイギリスに管理して頂こうと思っております。そこを同盟国である我々がサポートします。具体的には『他国または現地民の武装蜂起時にイギリスの要請があれば、日本軍も参戦または鎮圧に協力する』義務を負いましょう。勿論、朝鮮半島に軍を置いたりはしないので、統治に口をはさんだりはしませんよ」
「...同じアジア人だが、植民地でも属国でも構わないと?」
「ええ、勿論。この世は弱肉強食。帝国主義のこの時代に、弱いのが悪い」
「ミスター・ジン、あなたの提案は…常軌を逸している。いや、まさに悪魔の囁きか、あるいは千載一遇の好機か…」
パークス公使は、絞り出すように言った。
その目には、俺の覚悟と、その裏にあるであろう勝算を必死で読み取ろうとする色が浮かんでいる。
俺は、不敵な笑みを浮かべて答えた。
「我々は本気だ、公使。失敗の代償は、日本の未来そのもの。…ジョンブルの天秤が、どちらに傾くか見ものですね」
緊迫した空気が、部屋を支配する。
大英帝国の天秤は、今、日本の未来を乗せて、大きく揺れ動こうとしていた。




